第57話 国境の向こう
しばらく休んだことで多少は落ち着いたのか、壁際に座り込んでいた男性の呼吸も、先ほどより随分と穏やかになっていた。
顔色はまだよくないものの、少なくとも意識ははっきりしているらしい。
リオンはその様子を確認してから、男性の前へしゃがみ込んだ。
「話せるか?」
「……はい」
「無理なら後でいい」
「大丈夫です。ご報告しなければならないことがあります」
男性は一度ゆっくりと息を吐くと、途切れ途切れながらも話し始めた。
「国境周辺を探っていたところ、妙な動きをしている者たちを見つけました。フィオーレ側で何かを運んでいたようだったので、しばらく後を追ったのですが……奴らはそのまま国境を越え、ヴァルガードへ入っていきました」
「ヴァルガードへ?」
「はい。ですが、連中が何をしていたのか分からないままでは戻れないと思いまして。今度は逆に、奴らがどこから来たのか足取りを辿りました」
そこで男性が、地下へ続く階段の方へ視線を向けた。
「そして辿り着いたのが、この森です。この地下施設を見つけ、中を調べようとしたところで……妙な気配を感じ始めました」
「あの幻覚か」
「おそらくは……。最初は気配だけでした。誰かが後ろにいるような気がして……振り返っても誰もいない。それなのに、次第に声まで聞こえるようになりました」
そして、いつの間にか目の前に敵が現れていたのだという。
何人斬っても消えず、気づけば周囲を囲まれていた。
けれど、それが本当に存在していたものではなかったことは、地上に残されていた痕跡を見れば明らかだった。
「……連中がこの場所を使っていたのは、間違いねぇんだな?」
「はい。足取りはここまで続いていました。それに、入口にも人が出入りした跡が残っていました」
「そうか……」
リオンの表情が険しくなる。
フィオーレで何かをしていた者たちが、この地下施設へ出入りし、その後ヴァルガードへ戻っていった。
けれど、それが誰なのかまでは分からない。
リオンが警戒していた、フィオーレとの戦を望む者たちなのか。
それとも、この件にはさらに別の誰かが関わっているのか。
何より、この地下に刻まれている術式が何のためのものなのかも、まだ何一つ分かっていない。
ただ、フィオーレ国内で起きていた異変とヴァルガードが、少しずつ繋がり始めている。
「……一度、外へ出よう」
リオンの言葉に、全員が頷いた。
男性は一人で歩けると言ったけれど、さすがにその状態で無理をさせるわけにもいかない。
もう一人の男性が肩を貸し、私たちは来た道を戻ることにした。
階段を上り、ようやく地上へ出る。
木々の間から差し込む日の光に、思わず目を細めた。
地下へ入ってからそれほど長い時間が経ったわけではないはずなのに、随分と久しぶりに外へ出たような気がする。
「レティさん、お疲れではありませんか?」
「大丈夫よ。アンナこそ平気?」
「もちろんです」
アンナが心配そうに私の顔を覗き込んできたが、笑い返すとほっと表情を綻ばせた。
「あの……」
不意に声を掛けられ、振り返る。
先ほど助けた男性が、ダリオに支えられながらこちらを見ていた。
「どうかなさいました?」
「いえ……きちんとお礼を申し上げていなかったと思いまして。それに、まだ名乗ってもおりませんでしたね」
そう言うと、男性は支えられながらも姿勢を正そうとした。
「ユアンと申します」
「ユアンさんですね」
「いえ、ユアンとお呼びください」
「そうですか? では、ユアン」
「はい」
改めてそう呼ぶと、ユアンはどこか恐縮したように頭を下げた。
「助けていただき、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、私はあのまま……」
「お気になさらないでください。無事でよかったです」
「…………」
なぜか返事がない。
不思議に思って見返すと、ユアンはまるで神聖なものでも目の前にしているかのように、どこか眩しそうな眼差しで私を見つめていた。
「……どうしました?」
「いえ。その……地下で目を覚ました時、白銀の光の中にあなたがいらっしゃったので……」
「はい?」
「一瞬、女神でも迎えに来たのかと」
思いもよらない言葉に、私は目を瞬いた。
「……まだ幻覚が残っているのでは?」
「違います!あれは幻覚ではありません!命を救っていただいた上に、あの光です。女神と見間違えても仕方がないかと」
「仕方なくはないと思いますけれど……」
「分かります」
突然、隣からアンナの声がした。
見ると、アンナはユアンへ向かって深く頷いている。
「……アンナ?」
「お気持ちはよく分かります。レティさんのお姿を初めてご覧になった方なら、そう思われても無理はございません」
「やはりそうですよね」
「ええ」
なぜか二人の間に、奇妙な連帯感が生まれている。
するとアンナは、どこか満足そうに微笑んだ。
「あなた、見る目がありますね」
「恐縮です」
「……お前ら、何やってんだ」
呆れきったリオンの声が割って入った。
振り向けば、片手で額を押さえながら、理解できないものでも見るような目で二人を見ている。
「何って、レティさんの素晴らしさについてお話ししているだけですが」
「なんで今ので意気投合してんだよ」
「当然のことを理解してくださる方とは、話が早いものです」
「……そうかよ」
リオンはそれ以上何かを言う気も失せたのか、深いため息を吐いた。
「……何のお話をしているの?」
結局、私にはよく分からない。
けれど、アンナもユアンも満足そうにしているし、リオンはなぜか疲れた顔をしている。
尋ねてみても、誰も答えてはくれなかった。
諦めて私は何気なく森の奥へ目を向けた。
その瞬間、ふと先ほどの感覚を思い出す。
(……そういえば)
地下の術式へ吸い込まれていった、私の浄化の魔力。
最後には随分と遠くまで流れていったようだったけれど――
目を閉じ、僅かに残っている魔力の痕跡へ意識を向けてみる。
地下にいた時は壁や地面に阻まれて分かりにくかったものの、こうして外へ出てみれば、おおよその方向くらいなら分かりそうだった。
「……あちらですね」
「あ?」
私が木々の向こうを指差すと、リオンがその先を見る。
「先ほどの魔力です。あちらの方へ流れていったような気がします」
「あっち……?」
リオンはしばらく方角を確かめるように辺りを見回したあと、僅かに眉を寄せた。
「……ヴァルガードだな」
「ヴァルガード?」
「ああ。このまま進めば国境を越える。そっから先はヴァルガードだ」
「まあ……」
思わず、もう一度その方向を見る。
地下で見つけた術式。
そこへ流れ込んだ浄化の魔力。
そして、ユアンが追っていた者たちもヴァルガード側から来たという。
偶然と考えるには、少し重なりすぎている気がする。
「……戻るしかねぇな」
「ヴァルガードへ、ですか?」
「ああ。向こうで何が起きてんのか確かめる。あいつらが本当に関わってるなら、放っとくわけにもいかねぇ」
おそらく、彼がヴァルガードへ戻ること自体はもう決めているのだろう。
けれど、すぐに歩き出すかと思ったリオンは、なぜかその場に留まったままだった。
何かを考えるように黙り込んだあと、こちらを見る。
「……レティ」
「はい?」
「お前なら、向こうでもあれを探せるか?」
「あれ、とは?」
「黒い魔力だよ。さっきの奴にまとわりついてたやつとか、地下の術式に残ってたやつだ」
「そうですね……」
尋ねられ、少し考える。
あの魔力はかなり薄かった。
実際、私も初めからはっきりと感じ取れていたわけではない。
意識して探ったことで、ようやく違和感として捉えられた程度だ。
「同じものが残っている場所まで近づけば、分かるかもしれません」
「本当か?」
「おそらく、ですけれど。先ほどと同じ魔力であれば、近くにあれば気づけると思います」
「…………そうか」
リオンが黙り込む。
その表情を見ながら、私も考えていた。
フィオーレで起きている異変。
水脈を塞いでいた大岩も、壊された石碑も、突然暴れ出した魔物も、初めはそれぞれ別の出来事だと思っていた。
けれど、今はそうは思えない。
そして今日、とうとう人にまで影響を与える黒い靄と、それに関係しているらしい地下施設を見つけた。
その先が、ヴァルガードへ続いている。
ここまで知ってしまって、何も見なかったことにするのは――
「でしたら、私も参ります」
「…………は?」
「ヴァルガードへ」
「いや、待て。なんでそうなる」
「だって、気になるではありませんか」
「…………」
「この術式はフィオーレにありました。ここで見なかったことにしても、何も解決していませんもの」
「だからって、お前が国境越える必要は――」
「それに、先ほどお尋ねになったではありませんか」
「何を」
「私なら、向こうでも黒い魔力を探せるか、と」
「…………」
リオンが口を閉ざした。
私は何かおかしなことを言っただろうか。
「探すのでしょう?」
「……探すけどよ」
「でしたら、一緒に探した方が早いと思います」
「お前な……」
呆れたような声が返ってくる。
けれど、思っていたほど強く反対されない。
てっきり、また危険だから来るなと言われるものだと思っていたのだけれど。
「それに、私は今、旅をしているのですよ?」
「……は?」
「フィオーレから出てはいけないと決めた覚えはありません」
「いや、そういう問題じゃねぇだろ」
「ヴァルガードを、こんなふうに自分の足で歩いたことはありませんし、一度自分の目で見てみたいと思っていました」
「お前……遊びに行くんじゃねぇんだぞ」
「分かっていますよ?」
「本当かよ……」
リオンが深いため息を吐いた。
けれど、やはり「来るな」とは言わない。
少し不思議に思っていると、リオンが改めてこちらを見た。
「……本気で来るつもりか?」
「もちろんです」
「…………そうか」
思っていたより、あっさりとした返事だった。
それどころか、先ほどまで険しかった表情が、ほんの少しだけ和らいだようにも見える。
「反対なさらないのですか?」
「……してほしいのか?」
「いいえ?」
「ならいいだろ」
「そうですか」
「ああ」
なぜだろう。
ヴァルガードへ戻ると決めた時より、少しだけ機嫌がよくなったような気がする。
(……気のせいかしら)
首を傾げていると、ダリオが何か言いたげな顔でリオンを見ていた。
「殿下」
「なんだ?」
「……いえ」
「なんだよ」
「何でもありません」
「だったら呼ぶな」
「申し訳ありません」
そう答えたダリオの口元が、ほんの僅かに緩んだように見えた。
何か言いたげではあるけれど、私にはその理由までは分からない。
「……?」
私が不思議に思っていると、今度は隣にいたアンナと目が合った。
「アンナ?」
「何でもございませんよ」
「そう?」
「はい」
にこりと微笑まれたけれど、やはり何かがおかしい気がする。
けれど、二人とも何でもないと言うのなら、追及するほどのことでもないだろう。
それよりも、今はこれからのことだ。
私は改めて、先ほど指差した方角へ目を向けた。
――ヴァルガード王国。
王妃教育の中で、その歴史や文化について学んだことはある。
武を重んじ、フィオーレとは異なる価値観を持つ国。
知識としてなら、いくらでも知っている。
けれど、その土地を実際に自分の足で歩いたことはない。
どんな街があり、どんな人々が暮らし、どんな景色が広がっているのか。
以前の私なら、それを知ろうとすらしなかったかもしれない。
王太子妃になるために必要な知識を覚え、それで十分だと思っていた。
けれど、今は違う。
(ヴァルガード、か……)
王妃教育の一環として国外について学び、必要があれば公式の場へ赴くこともあった。
けれど、それはいつだって決められた場所へ行き、決められた人と会い、決められた役目を果たすためのものだった。
こうして自分で行き先を決め、自分の足で知らない国を歩こうとするのは初めてだ。
フィオーレで起きている異変が、その先へ続いている可能性もあるのだから、気を抜くつもりもなかった。
それでも――
(少しだけ、楽しみだわ)
まだ見たことのない国を、自分の目で見ることができる。
そう思うと、胸の奥がほんの少しだけ弾むのを感じた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
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次回からはまた新たな展開へ進んでいきますので、引き続きレティシアたちの旅を見守っていただけたら嬉しいです。




