間話⑦ 計画の綻び
薄暗い執務室で、一人の男が報告書へ目を通していた。
「……それで?」
「フィオーレ国内では、予定通り異変が広がっております。魔物の増加、水源の異常、街道での被害も確認されています」
「そうか」
男は興味なさそうに紙を机へ置いた。
すべては予定の範囲内だった。
まだ大きく動く必要はない。
小さな異変を積み重ね、フィオーレとヴァルガード、双方の不安と不満を煽ればいい。
戦の気配が濃くなればなるほど、人々の目はそちらへ向く。
その陰で何が行われているかなど、誰も気づかない。
「ただ、一つ妙な報告が」
「何だ?」
「フィオーレ国内で、白銀の髪をした女の噂が広がっております」
男が僅かに眉を上げた。
「白銀?」
「はい。干上がった井戸へ水を戻した、魔物の群れを退けた、崩れた道を一夜で直したとも。民の間では――『白銀の魔女』と呼ばれているようです」
「…………」
あまりにも荒唐無稽な話に、男は鼻で笑った。
「くだらん。噂など放っておけ」
「ですが、複数の土地で同じ特徴の女が――」
「今はそんなものに構っている時ではない」
男が冷たく遮ると、報告をしていた者は「承知いたしました」と頭を下げた。
たとえ強力な魔法使いが一人現れたところで、何ができるというのか。
すでに術式は各地へ張り巡らされている。
一つや二つ異変を止めたところで、計画そのものへ影響することはない。
そう思った、その時だった。
「――っ!?」
突然、胸の奥を抉られるような激痛が走った。
「ぐっ……!」
「閣下!?」
咄嗟に机へ手をつく。
けれど、次の瞬間には喉の奥から熱いものが込み上げた。
「がっ……!」
口元を押さえた手の隙間から、赤い血が滴り落ちる。
「閣下!」
「触るな!」
駆け寄ろうとした側近の手を乱暴に振り払い、男は荒い呼吸を繰り返した。
何が起きた。
毒でも、攻撃魔法でもない――
外から何かを受けたのではなく、身体の内側から直接焼かれているような――
「……まさか」
男は乱暴に襟元を開いた。
胸元から鎖骨にかけて、黒い紋様が刻まれている。
長い年月をかけて自らの身体へ刻み込んだ、術式の一部。
各地へ張り巡らせたものと自らを繋ぐための、禁忌の刻印だった。
その一角が――白銀に輝いている。
「な……っ、あり得ない……」
男の顔から血の気が引いた。
白銀の光が黒い線を侵食するように進んでいく。
そして――一筋が、消えた。
「…………っ」
男は言葉を失った。
壊されたのではない。
消された。
長い時間をかけて身体へ定着させたはずの術式が、まるで最初からそこになかったかのように。
「……浄化、だと……?ぐっ……!」
その言葉を口にした途端、再び激痛が走った。
男が膝をつき、床へ血が落ちる。
術式を通じて、遠い場所から何かが流れ込んできている。
いくつもの術式を遡ってきたはずなのに、その力はほとんど衰えることなく、真っ直ぐ自分へと届いていた。
「誰が……こんな……」
その時、不意に先ほどの報告が脳裏をよぎった。
――白銀の髪をした女。
各地で常識では考えられない魔法を使っているという存在。
民が呼び始めた、その名。
――白銀の魔女。
「…………まさか」
やがて、身体を蝕んでいた白銀の魔力が消え、静寂が戻る。
男はしばらく動かなかった。
ほんの少し前までなら、くだらない噂だと切り捨てていた。
だが、今は違う。
「……白銀の魔女」
低く、その名を呟く。
「調べろ」
「……は?」
「その女だ。どこから現れ、どこを通り、今どこにいるのか――すべて調べろ」
「は、はい!」
慌てて部屋を出ていく男を見送り、男は胸元を押さえた。
まだ鈍い痛みが残っている。
長い時間をかけて張り巡らせてきた術式を逆に辿り、これほど離れた場所にいる自分へ直接届いた浄化の力。
偶然なのか。
それとも、自分の存在に気づいているのか。
それすら分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
「……何者だ」
存在すら知らなかった一人の女を、男はこの時初めて――明確な脅威として認識した。




