第56話 繋がる術式
「リオンさん!」
暗い階段の奥へ消えていったリオンの背中を追い、私も慌てて駆け下りた。
先ほどまで慎重に進もうと言っていたことなど、きっともう頭にはないのだろう。
呼び止める声にも足を緩める気配はなく、すぐにその姿は暗闇へ紛れて見えなくなってしまう。
仕方なく足元を魔法の光で照らしながら後を追うと、アンナと男性も続いて階段を下りてきた。
地下へ続く道は、随分と古いものらしい。
石造りの壁にはところどころひびが入り、長い間閉ざされていたのか、湿った土と埃の匂いが鼻につく。
けれど、奥へ進むにつれて、それとは別の違和感が強くなっていった。
(……やはり、おかしいわ)
壁そのものは古いのに、そこへ刻まれている魔法式の一部だけが妙に新しい。
もともとあったものを修復したというより、古い術式へ後から別のものを書き加えたように見える。
そして、その細い溝を辿るように流れているのは、先ほど地上で感じたものとよく似た魔力だった。
あまりにも僅かで、意識して探らなければ見落としてしまいそうなほど薄い。
それでも、間違いなく何かがここを通っている。
(古い施設を、誰かが利用している……?)
そう考えながらさらに奥へ進んだところで、不意にリオンの声が響いた。
「おい! しっかりしろ!」
声のした方へ急ぐと、少し開けた場所に出た。
その壁際に、一人の男性が座り込んでいる。
服は泥と埃にまみれ、腕や頬にはいくつもの傷があった。
握っていたらしい剣は少し離れた床へ転がっており、男性自身も今にも意識を失ってしまいそうなほど憔悴している。
後ろから追いついたダリオが、息を呑んだ。
「……っ」
「ひどい……」
すぐに駆け寄ろうとした彼を、壁際の男性が僅かに上げた手で制した。
「……で、んか……。来る……な……」
その言葉に、リオンだけでなくダリオも足を止める。
次の瞬間、男性は剣の柄へ手を掛け、周囲を鋭く見回した。
「……何かいるのか?」
「何があった。誰にやられた?」
「……分かり、ません」
「分からない?」
男性は苦しそうに息を吐き、頭を押さえた。
「敵が……いたんです。何人も……囲まれて……」
「何人だ?」
「分かりません……斬っても、斬っても……まだいて……」
そこで男性の声が途切れた。
怯えたように辺りを見回し、何かを探している。
「でも……いないんです」
「……何?」
「誰も……いなかった。気づいたら、俺一人で……でも、確かにいたんです。声も……ずっと、聞こえて……」
「…………」
リオンの表情が険しくなる。
私も、地上で見た光景を思い返していた。
踏み荒らされた草。
木々へ残されていた剣の傷。
確かに誰かと戦っていたような痕跡があるのに、残されていた足跡は一人分だけだった。
相手がいたのなら、その痕跡も残っているはずなのに。
(……存在しない相手と、戦っていた?)
その瞬間、遠い記憶が蘇った。
前世で、まだ学生だった頃のことだ。
授業で見せられた映像の中に、薬物が人の身体や心へどのような影響を与えるのかを説明したものがあった。
そこでは、実際には存在しないものが見えたり、誰もいないのに声が聞こえたりすることがあると説明されていた。
そのせいで強い恐怖に駆られ、そこにはいない何かから逃げたり、身を守ろうとして暴れたりすることもあるのだと。
(……幻覚と、幻聴)
もちろん、目の前の男性が薬物を使ったとは思わない。
けれど――起きていることは、あの時に見たものとよく似ている。
私は男性の身体へ視線を向けた。
薄暗い地下だから分かりにくいものの、その身体には黒い靄のようなものが纏わりついている。
今朝、鹿に纏わりついていたものと同じものだった。
「……リオンさん」
「なんだ?」
「この方は、本当に誰かと戦っていたわけではないのかもしれません」
「どういうことだ?」
リオンが振り返る。
前世のことを話すわけにはいかない。
少し考えてから、私は自分の知る範囲で説明することにした。
「以前、本で読んだことがあります。実際には存在しないものが見えたり、誰もいないのに声が聞こえたりすることがあると」
「……そんなことがあるのか?」
「ええ。特殊な薬などによって起こることがあるそうです。もちろん、この方がそうだと言っているわけではありません。ただ……お話を聞く限り、その症状とよく似ているのです」
「じゃあ、こいつには本当に敵が見えてたってことか?」
「本人にとっては、そうだったのかもしれません」
「…………」
その時、今朝の鹿の姿が頭をよぎった。
何もない場所へ怯えるように顔を向け、私たちを見るなり突然襲いかかってきた鹿。
(……もしかして、あの子も?)
あの鹿にも、私たちには見えない何かが見えていたのだとしたら。
だから怯え、逃げるのではなく攻撃してきたのだとしたら、あの不可解な行動にも説明がつく。
「今朝の鹿も、同じだったのかもしれません」
「……あいつも?」
「ええ。あの子にも、私たちには見えない何かが見えていたのだとしたら……」
そこまで言って、男性へ纏わりつく黒い靄を見つめる。
同じものだ。
けれど、これが何なのかまでは分からない。
何のために作られ、どうやって人や動物へ影響を与えているのかも。
ただ、このまま放っておいてよいものではないことだけは確かだった。
「……浄化してみます」
「待て」
私が男性へ近づこうとすると、すぐにリオンの手が伸びてきた。
その様子に、思わず彼を見る。
「大丈夫です。触れませんよ?」
「そういう問題じゃねぇ」
「ですが、このままでは――」
「得体の知れねぇもんだって言ってんだ。何が起きるか分かんねぇだろ」
「それはそうですけれど……」
壁際の男性へ目を向ける。
呼吸は浅く、今も時折怯えたように周囲を見回している。
放っておけば、さらに衰弱してしまうかもしれない。
「……リオンさん」
「なんだよ」
「この方を助けたいのでしょう?」
「…………」
返事はなかった。
けれど、その表情を見れば十分だった。
「私も同じです」
「だからって、お前まで危ねぇことする必要はねぇだろ」
「無茶はいたしません。先ほどお約束しましたから」
「お前の無茶の基準が信用できねぇんだよ」
「まあ」
随分な言われようだ。
けれど、リオンが止める理由が心配から来ていることも分かっている。
私は男性から十分に距離を取ったまま、その場で掌を向けた。
「触れずに浄化します。それならよろしいでしょう?」
「……何かあったらすぐ止めろよ」
「分かりました」
「レティさん」
後ろからアンナに呼ばれ、振り返る。
「ご無理はなさらないでくださいませ」
「ええ。大丈夫よ」
そう答えると、アンナは僅かに眉を下げたものの、それ以上止めることはなかった。
私は改めて男性へ向き直り、慎重に魔力を流す。
掌から溢れた白銀の光が、男性を包み込むようにゆっくりと広がっていった。
今朝の鹿へ施した時と同じように、余計なものだけを取り除くよう意識しながら、少しずつ浄化の力を強めていく。
すると、男性の身体へ纏わりついていた黒い靄が、魔法の光に触れた端から薄れていった。
「……っ」
「おい!」
男性の身体から力が抜けた。
リオンが反射的に踏み出したけれど、男性は倒れることなく壁へ身体を預け、大きく息を吐いた。
先ほどまで焦点の定まっていなかった瞳が、今度はしっかりとリオンを捉えている。
「……殿下。……申し訳、ありません」
「喋るな。今は休め」
「ですが……」
「報告は後でいい。生きてたなら、それでいい」
「…………はい」
男性が僅かに目を閉じる。
どうやら、ひとまずは大丈夫そうだ。
私も安堵し、掌を下ろそうとして――
(……あら?)
「どうした?」
「…………」
「レティ?」
「少し、お待ちください」
浄化は終わったはずだった。
男性へ纏わりついていた黒い靄は、もうほとんど残っていない。
それなのに、私が放った白銀の光が消えない。
男性の身体を離れた光が、まるで何かに引き寄せられるように床へ落ちていく。
「……何だ、これ」
リオンも気づいたらしい。
白銀の光は床に刻まれた細い溝へ吸い込まれると、そのまま魔法式に沿って走り始めた。
「私にも分かりません」
「おい」
「本当に分かりません」
「…………」
どうしてそこで疑うような顔をするのだろう。
けれど、今はそれどころではない。
床を走った光は壁へ到達し、そこへ刻まれた魔法式へ流れ込む。
一筋だった光がいくつにも枝分かれし、古びた石壁を白銀に染めながら、次々と奥へ進んでいった。
(私が流しているわけではない……)
すでに魔力を送るのは止めている。
それなのに、残った浄化の力だけが術式へ吸い込まれ、どこかへ運ばれている。
まるで、この場所そのものが道になっているようだった。
「レティ。これ、止められねぇのか?」
「少し待ってください」
流れていく魔力へ意識を集中させる。
床から壁へ。
壁から、さらにその先へ。
ここに刻まれている魔法式だけでは終わっていない。
「……この術式、ここだけのものではありません」
「どういう意味だ?」
「繋がっているのです。おそらく、別の場所にある術式と」
「別の場所?」
「ええ」
どこまで続いているのか確かめようと、流れていく白銀の光を魔力で辿る。
けれど、遠い。
一つ先へ繋がっているだけではない。
いくつもの場所を経由するように枝分かれし、そのさらに先へと続いている。
「……かなり遠くまで繋がっているようです」
「どこに?」
「そこまでは分かりません」
「大丈夫なのか、これ」
リオンが警戒するように白銀の光を見つめる。
私も少し考えてから、頷いた。
「浄化の魔法ですから、悪いことにはならないと思いますけれど……」
「……お前、その言い方やめろ」
「なぜです?」
「ものすげぇ嫌な予感がする」
「?」
失礼な話だ。
私はただ、この方へ纏わりついていたものを浄化しただけなのに。
けれど、リオンが何を心配しているのか尋ねるより先に、最後に残っていた白銀の光が壁の奥へ吸い込まれていった。
そして――何事もなかったかのように、地下は再び静寂に包まれる。
「…………」
「…………」
リオンが無言で私を見る。
私も見返した。
「……終わったのか?」
「おそらく」
「おそらく?」
「少なくとも、ここでは」
「…………」
なぜか、また深いため息を吐かれてしまった。
けれど私の意識は、すでに別のところへ向いていた。
床や壁へ刻まれた魔法式。
今朝の鹿と、目の前の男性に纏わりついていた黒い靄。
そして、ここから遠く離れたどこかへ繋がっているらしい術式。
これらが偶然だとは、とても思えない。
(……これは、一体何のために作られたものなのかしら)
ただ人や魔物を惑わせるだけのものなのか。
それとも、その先に別の目的があるのか。
答えはまだ何一つ分からない。
けれど、この地下にあるものが、私たちがこれまで追ってきた異変よりも、ずっと大きな何かの一部なのだということだけは――なぜか、はっきりと感じていた。




