第55話 消えた足跡
森の奥へ進むにつれて、周囲から音が消えていった。
先ほどまでは時折聞こえていたのさえずりも、草木の間を飛び交っていた虫の羽音も、いつの間にかまったく聞こえなくなっている。
風が木々を揺らす音と、私たちが落ち葉を踏みしめる音だけが、静まり返った森の中にやけに大きく響いていた。
「……レティ。魔物の気配は分かるか?」
先頭を歩いていたリオンに尋ねられ、私は周囲へ意識を向ける。
魔力を薄く広げながら探ってみるけれど、近くに強い魔物の気配は感じられない。
少なくとも、これほど森の生き物たちが姿を消すほどの何かが潜んでいるようには思えなかった。
「いえ。近くに大きな魔力反応はありません」
「じゃあ、なんでこんなに静かなんだよ」
「それが分からないから、気味が悪いのです」
魔物がいるのなら、まだ理由は分かる。
けれど、何も感じない。
それなのに、生き物だけがこの辺りを避けている。
まるで私には感じ取れない何かを、森に棲む生き物たちだけが察しているようだった。
「殿下」
後ろを歩いていたダリオが、不意に声を潜めた。
その視線の先にあったのは、道から少し外れたところに立つ一本の木だった。
近づいてみると、その幹の低い位置に小さな傷が刻まれている。
一見すれば枝でも擦れたのかと思ってしまいそうな、ごく浅い傷だ。
けれど、リオンはそれを見るなり表情を変えた。
「……あいつの印だ」
「印?」
「ああ。俺のところで使ってる奴らが、後から来る仲間に進んだ方向を知らせる時に残す」
そう言いながら、リオンが傷の向きを確かめる。
どうやら、連絡が途絶えたという人物は、少なくともここまでは来ていたらしい。
「こっちだ」
それまで以上に周囲を警戒しながら、リオンが森の奥へ進んでいく。
しばらく歩いたところで、今度は私にも分かるほど周囲の様子が変わった。
細い枝が何本も折れ、地面の草が激しく踏み荒らされている。
近くの木には、刃物で斬りつけたような深い傷まで残されていた。
「……ここで、何かあったのですね」
「みてぇだな」
リオンはその場にしゃがみ込むと、地面に残された跡を一つずつ確認し始めた。
踏み荒らされた草や土の窪みを見ては視線を移し、木に残された剣の傷まで確かめていく。
私にはただ荒れているようにしか見えない場所から、何かを読み取っているらしい。
「こういうことにも、お詳しいのですね」
「ヴァルガードじゃ、この程度できなきゃ話にならねぇよ」
「そういうものなのですか」
「少なくとも俺の周りじゃな」
武を重んじる国の王子ともなれば、剣を振るうだけでは済まないのかもしれない。
やがて、地面を調べていたリオンの眉が僅かに寄った。
「……おかしいな」
「何がです?」
「足跡が一人分しかねぇ」
そう言われて、私も足元へ目を向けた。
「こちらへ来た方のものですか?」
「たぶんな。ここで何度も踏み込んでる。木の傷も、剣を振った時についたもんだろう」
「でしたら、何かと戦っていたということでは?」
「だからおかしいんだよ。相手がいたなら、そいつの跡も残るはずだ。けど、それがねぇ。人間どころか、魔物らしい足跡も見当たらねぇんだ」
「…………」
「血もねぇ。倒れた跡もねぇ。なのに、あいつはここで間違いなく剣を振ってる」
相手のいない場所で、ただ一人剣を振るう理由などあるのだろうか。
考えながら周囲へ意識を向けた、その時だった。
(……あら?)
微かに、何かを感じた。
魔物の気配とは違う。
もっと薄く、すでにほとんど消えかけているけれど、肌の上を何かが這うような、ひどく不快な感覚。
私は目を閉じ、もう一度その気配を探る。
(……どこかで)
覚えがある。
今朝、あの鹿にまとわりついていた黒い靄。
あの時に感じたものと、どこか似ている気がする。
「リオンさん」
「なんだ?」
「ここに、魔力の痕跡が残っています」
「魔力?」
「ええ。とても僅かですけれど……今朝の鹿から感じたものと、少し似ているような気がします」
確かめるため、私は近くの木へ手を伸ばした。
その瞬間だった。
「――触るな!」
鋭い声とともに腕を掴まれ、思わず目を瞬く。
振り向けば、すぐそばにリオンがいた。
「……リオンさん?」
「何してんだ、お前」
「調べようかと」
「だからって、何でも気軽に触ろうとすんな」
「ですが、触れた方が詳しく調べられますよ?」
「今朝の鹿に付いてた、得体の知れねぇもんと同じかもしれねぇんだぞ。危険だと思わねぇのか」
「もし同じものなら、浄化すれば――」
「……そういう問題じゃねぇ」
低く押し殺された声だった。
けれど、その表情を見れば、本気で止めようとしていることは十分に伝わった。
けれど、怒っているというより――
(……心配してくださっているのね)
どうやら、本気で私が危険な目に遭うことを心配してくれているらしい。
それなら、これ以上困らせる必要もないだろう。
「……分かりました。触れずに調べます」
「…………」
「どうしました?」
「いや……素直に聞くんだなと思って」
「私だって、人のお話くらい聞きますよ?」
「そうだったか?」
「失礼ですね」
リオンは何か言いたげだったけれど、結局は小さく息を吐いて私の腕を離した。
「……とにかく、無茶すんなよ」
「分かりました」
今度こそ頷いて、私はその場で魔力を広げる。
直接触れなくても、周囲へ魔力を巡らせればある程度のことは探れるはずだ。
草木の間を抜けるように薄く広げ、その範囲を少しずつ広げていく。
地面へ。
木々の根元へ。
さらに、その下へ――
「…………?」
「どうした?」
「……下です」
「下?」
「ええ。この下に……空間があるような気がします」
もう少し深く探ってみるも、やはり間違いない。
自然にできた空洞というより、人の手で作られた場所に近い。
それに、ごく僅かではあるけれど、先ほど感じたものと似た魔力も残っている。
「何かあります。この辺りの地下に」
「探すぞ」
リオンの言葉に、全員で周囲を調べ始めた。
落ち葉を退け、伸びた草をかき分けながら探していると、やがて大きな岩の陰に、不自然な窪みがあることに気づく。
蔓を退けると、その奥から現れたのは古びた石だった。
「これは……」
さらに草を除いていけば、石は一つではなかった。
下へ向かって、何段も続いている。
「階段……?」
どうやら、地下へ続いているらしい。
長い間使われていなかったのか、石の表面には苔が生え、周囲から伸びた植物にほとんど覆い隠されている。
「こんな場所が……」
王妃教育の中で、フィオーレ国内の主要な街道や都市、軍事施設については詳しく学んだ。
けれど、この辺りにこのような地下施設があるという話は聞いた覚えがない。
「リオンさんはご存じでした?」
「いや。少なくとも、俺が集めた情報にはねぇ」
リオンが険しい表情で階段の奥を覗き込む。
その横で、私は石壁に刻まれたものへ目を留めた。
「……これは」
苔に覆われていて分かりにくいけれど、その下に幾何学的な線が刻み込まれている。
いくつもの線と記号が複雑に組み合わさった、魔法式だった。
私は触れないよう注意しながら、目を凝らす。
「今朝のものに似ています」
「鹿の足元に出たやつか?」
「ええ。まったく同じ術式ではありません。ですが……魔力の流し方も、式の組み方もよく似ています。同じ系統の術式と考えた方がよさそうです」
「ってことは……ここを見つけたから、あいつは消えたのか」
「可能性はあると思います」
「…………」
答えを聞くなり、リオンが階段へ足を踏み出した。
「お待ちください」
「あ?」
反射的に、私は彼の外套の裾を掴む。
振り返ったリオンが怪訝そうに私を見た。
「なんだよ」
「先ほど、私に何と仰いました?」
「……何が」
「得体の知れないものへ、何でも気軽に近づくなと」
「…………」
「ご自分も同じではありませんか」
「……うるせぇ」
「まあ」
随分と理不尽な返答だ。
けれど、リオンも自覚はあるらしい。私の手を振り払って進もうとはせず、忌々しそうに階段の奥を睨んでいる。
「心配なのは分かりますけれど、だからこそ慎重に参りましょう」
「……分かってる」
先ほど私に言った手前、反論しづらいのだろう。
リオンは一度大きく息を吐くと剣の柄へ手を掛け、男性もそれに倣う。
私もいつでも魔法を使えるよう、周囲へ意識を向けた。
その時だった。
暗い階段の奥から、微かな音が聞こえた。
「…………」
全員が同時に動きを止める。
何かを引きずるような音だった。
ほんの僅かに聞こえたかと思えば途切れ、しばらくすると、また聞こえてくる。
リオンが剣を抜いた。
ダリオもすぐさま剣を構え、私も掌へ魔力を集める。
けれど、暗闇の奥から聞こえてきたのは、魔物の唸り声ではなかった。
「……でん、か……」
あまりにも小さく、今にも消えてしまいそうな掠れた声だった。
けれど――
「……っ!」
「今の声……」
隣にいたリオンの顔色が変わった。
私が最後まで言い終えるより早く、リオンが駆け出す。
「リオンさん!」
先ほどまで慎重に進むと言っていたことなど忘れてしまったかのように、彼の姿は暗い階段の奥へと消えていった。
読んでいただきありかとうございます。
Xでは、ChatGPTと「ああでもない、こうでもない」と相談しながら、時々イメージ画像も作って載せています!
気が向いたら覗いてみてください(*´艸`*)
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