第49話 見なかったことにはできません
最後の言葉だけが、妙に小さかった。
「リオンさん?」
「……なんでもねぇ」
また、それだ。
けれど、今度は追及する気にはなれなかった。
なぜなら、これまで一緒に旅をしてきた彼の姿を、私は知っているからだ。
村長を失った人々を前に、何も感じていなかった人には見えなかった。
帰らない命について話したあの夜も。
今朝、人を襲うはずのない魔獣が苦しめられていたことを知った時も。
そして今も。
少なくとも、何も思っていない人の顔ではない。
(……知っていることと、実際に見ることは違うものね)
それは、私自身がこの旅で知ったことでもあった。
王妃教育で、国について多くのことを学んだ。
凶作が起これば民が困窮することも、魔物によって村が被害を受けることも、戦が起これば多くの命が失われることも。
知識としてなら、すべて知っていた。
けれど、井戸を覗き込む人々の不安げな顔も、魔物に怯える村人の姿も、誰かを失って泣く人の声も――私は、この旅に出るまで知らなかった。
知っているつもりだっただけなのだ。
もしかすると、リオンも同じなのかもしれない。
けれど、だからといってすべてを見過ごしていいことにはならない。
「……何のためですか? そこまでして、その方々の計画を利用する理由があるのでしょう?」
「…………」
「リオンさん?」
リオンはしばらく黙っていた。
けれど、やがて視線を逸らす。
「それは、まだ話せねぇ」
「そうですか」
「ああ」
それ以上は尋ねなかった。
話せないのなら、無理に聞き出すつもりはない。
――ただし。
リオンが踵を返した。
「なら、ここまでだ。俺は一度ヴァルガードへ戻る。お前たちはこのまま街道を進め」
「お待ちください」
「あ?」
足を止めたリオンが振り返った。
「何だよ」
「行かせるとは申し上げておりません」
「…………は?」
今度は、リオンが目を瞬いた。
「お前、さっきそれ以上聞かないみたいな顔してただろ」
「ええ。お話しになりたくないことを、無理に聞き出すつもりはありません」
「じゃあ――」
「ですが、それとあなたをこのまま行かせることは別の話です」
「…………」
リオンが黙った。
隣の男性も、何を言っているのだというように私を見ている。
「……お前、俺が誰か忘れてねぇか?」
「ヴァルガード王国第一王子、リオネル殿下ですね」
「分かってんじゃねぇか」
「先ほど教えていただきましたから」
「そういう意味じゃねぇ」
また同じことを言われてしまった。
けれど、今はそこを気にしている場合ではない。
「あなたは今、フィオーレ王国に害を及ぼしかねない計画を知りながら、それを利用しようとしていたと仰いました」
「……ああ」
「でしたら、フィオーレ王国の人間として、何も聞かなかったことにはできません」
「お前には関係ねぇだろ」
「あります」
思っていたよりも強い声が出た。
リオンが僅かに目を見開く。
「私はもう、以前の立場へ戻るつもりはありません」
「……?」
「けれど、それとこれとは別です」
私は静かにリオンを見つめた。
「この国で生き、この国の人々に支えられてきた以上、知ってしまったことを見なかったことにはできません」
「……ちっ」
私が引くつもりがないことが伝わったのか、リオンは苦い表情で舌打ちした。
公爵家の令嬢として、何不自由なく育てられた。
望めば本を与えられ、国中から集められた教師たちから、政治も外交も魔法も学んだ。
王妃になるためという理由で、普通なら知ることのできない知識まで与えられた。
そのすべてを支えていたものが何なのかくらい、私は知っている。
「貴族が何不自由なく暮らし、これほどの教育を受けられるのは、領地に暮らす方々に支えられているからです」
「…………」
「私はそれを当然のものとして受け取ってきました。ですから、その立場から離れたからといって、いただいたものまで忘れてよいとは思いません」
リオンはしばらく黙っていたけれど、やがて僅かに目を細めた。
「……お前、やっぱり貴族か」
一瞬、言葉に詰まる。
どうやら今の言い方で気づかれてしまったらしい。
「……今は、ただの旅人です」
「否定しねぇんだな」
「嘘をつく必要もありませんから」
「…………」
リオンは何か言いたげに私を見ていたけれど、それ以上は尋ねなかった。
前世では、むしろ税を納める側だった。
働いて得た給与から税が引かれていくことも、それが決して小さな額ではないことも知っている。
だからこそ、今なら以前よりも分かる。
多くの人々に支えられてきた以上、受け取った側にも、それに応える責任があるのだ。
「私には、この国から与えられたものがあります。そして、できることもあります」
一度言葉を切り、リオンを見る。
「ですから、知ってしまった危険を見なかったことにはできません」
「…………」
リオンは何も言わなかった。
隣の男性も、先ほどまでとは違う目で私を見ている。
やがてリオンが、ゆっくり息を吐いた。
「……だから、どうするつもりだよ」
「お話しいただけないのでしたら、少なくとも事情が分かるまでは、あなたを行かせるわけにはまいりません」
「俺は戻るぞ」
「お止めします」
「どうやって?」
「そうですね……」
少し考える。
説得できるのが一番なのだけれど、どうやら難しそうだ。
リオンが一歩、私の横を通り過ぎようとする。
私も一歩動いて、その前へ立った。
「…………」
「…………」
今度は反対側へ動く。
私も動く。
「……レティ」
「はい」
「退け」
「お断りします」
「俺は行くって言ってんだろ」
「ですから、お止めしております」
「お前なぁ……」
リオンが額を押さえ、深いため息をこぼした。
それでも退くつもりはなかった。
しばらく睨むように私を見ていたリオンは、やがて腰の剣へ手を置く。
「……それでも行くって言ったら?」
「困りますね」
「だから、どうすんだよ」
私は少しだけ考えた。
先日のように拘束してしまうこともできるけれど、相手はかなりの魔力を持つ王族だ。
どの程度の魔法なら確実に止められるのか、私には分からない。
それに、リオンはすでに剣へ手を掛けている。
ならば、こちらも同じものを使うのが一番分かりやすいだろう。
私は右手を前へ差し出した。
剣を持ってきてはいない。
けれど、ないのなら作ればいい。
掌へ魔力を集めると、白銀の光が指先から溢れ出した。
それはゆっくりと細長く形を変え、やがて一本の剣を形作っていく。
光が収まった時、私の手には白銀の剣が握られていた。




