第48話 分かっていた、はず
「……レティですが?」
「そういう意味じゃねぇよ」
名前を聞かれたのではなかったらしい。
もっとも、なんとなくそうではないだろうとは思っていたのだけれど。
リオンは額を押さえると、何度目か分からないため息をついた。
「ヴァルガードの王位継承について、そこまで知ってる旅人なんて普通いねぇよ」
「そうなのですか? 隣国ですもの、それくらいは知っているものかと」
「……普通は知らねぇよ」
何かおかしなことを言っただろうか。
フィオーレ王国と国境を接する国の王族や政治について学ぶことは、未来の王妃として当然のことだった。
けれど、それを説明すれば今度はこちらの素性を話さなければならなくなる。
私が黙っていると、リオンもそれ以上は追及しなかった。
その代わり、片膝をついている男性が困惑したように私とリオンを見比べている。
「……殿下。こちらの方々は?」
「旅の連れだ」
「旅の……?」
明らかに納得していない顔だった。
まあ、当然だと思う。
自国の第一王子を探しに来てみれば、見知らぬ女性二人と一緒に森を歩いていたのだから。
「それより、お前がここまで来たってことは何かあったんだろ」
リオンの声が変わった。
先ほどまでの呆れたような調子が消え、一瞬で鋭いものになる。
男性もそれを察したのか、表情を引き締めた。
「……はい」
立ち上がりかけた男性が、私たちへ視線を向ける。
その僅かな躊躇を、リオンは見逃さなかった。
「構わねぇ。話せ」
「しかし――」
「いい」
短い言葉だった。
男性はなおも迷っているようだったけれど、やがて「承知しました」と頭を下げた。
「例の件について、新たな動きがありました」
「……何があった」
「国境付近で、予定になかった異変が複数確認されています」
その言葉に、リオンの眉がぴくりと動く。
「予定になかった?」
「はい。こちらで把握していたものとは明らかに異なります。それに――妙な術式が使われた形跡も見つかりました」
「…………」
空気が変わった。
リオンの顔から、完全に表情が消える。
私も思わず男性を見つめた。
「……術式?」
つい声が出てしまった。
男性が怪訝そうにこちらを見る。
けれどリオンは私を止めなかった。
「どんな術式だ」
「詳しくはまだ。ただ、通常の魔法式とは異なるものだと。残された魔力も酷く濁っていて、調査に当たった者の話では――黒い靄のようなものが残っていた、と」
「……!」
今度こそ、息を呑んだ。
今朝の鹿。
白銀の身体へまとわりついていた、あの黒い靄。
浄化したあと、一瞬だけ地面へ浮かび上がった見知らぬ魔法式。
同じものだと断言することはできない。
けれど――
「リオンさん」
「ああ」
こちらを見もしないまま返事が返ってきた。
それだけで、彼も同じことを考えているのだと分かった。
男性だけが、驚いたように私たちを見比べている。
「殿下……まさか、すでに?」
「今朝見た」
「何ですって?」
リオンは小さく舌打ちすると、乱暴に髪を掻き上げた。
「……思ってたより、ずっと面倒なことになってやがる」
低く吐き捨てるような声だった。
私はその横顔を見つめる。
やはり、知っている。
けれど――おそらく、すべてを知っていたわけではない。
今朝見せた怒りも、今の反応も、初めからすべてを承知していた人のものには見えなかった。
(では、リオンさんは……どこまで関わっているの?)
敵なのか。
味方なのか。
それとも、そのどちらでもないのか。
先ほど冗談めかして口にしたはずの問いが、今になって重みを増して胸へ戻ってくる。
すると、不意にリオンがこちらを向いた。
「……レティ」
「はい」
何かを言おうとして、けれど迷うように口を閉ざす。
その様子を見ていると、なぜだか少しだけ可笑しくなった。
「何でしょう?」
「……いや」
「あら。また何でもないのですか?」
「…………」
図星だったらしい。
リオンは苦い顔をしたあと、諦めたように息を吐いた。
「お前、本当に容赦なくなってきたな」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
そんなつもりはないのだけれど。
けれど――今度ばかりは、私も何も知らないまま一緒に歩き続けるわけにはいかない。
私は改めて、目の前のヴァルガード王国第一王子を見つめた。
リオンもそれを察したのだろう。
しばらく私と視線を合わせたあと、とうとう観念したように肩を落とした。
「……分かった」
「?」
「全部はまだ話せねぇ。けど――俺が何をしようとしてたのかくらいは、話す」
朝の光が差し込む街道で、リオンはもう一度深く息を吐いた。
「たぶん、その方がお前にも分かりやすい」
「私に?」
「ああ」
そして、何とも言えない顔で私を見る。
「何せ計画を片っ端からぶっ壊してくれたのは――お前だからな」
「…………」
今度は、私が瞬きをする番だった。
「……私?」
「お前だよ」
まったく身に覚えがない。
けれどリオンの顔を見る限り、冗談を言っているわけでもなさそうだった。
隣ではアンナまで不思議そうに首を傾げている。
私はこれまでの旅を思い返してみたものの、やはり心当たりはなかった。
(私……何か壊したかしら?)
そう考えている間にも、リオンは疲れ切ったようなため息をついていた。
しばらく待っていても、リオンはすぐには口を開かなかった。
どこから説明すべきか考えているのだろうか。
やがて大きく息を吐くと、私を見る。
「……最初に、お前が水を戻した宿場町だ」
「…………どうして、それを……」
そこまで口にして、はっとする。
リオンの目が細められた。
「やっぱりお前か」
「…………」
「それから魔物に襲われてた村。壊されてた石碑も」
「石碑は直したわけではありません」
「そこじゃねぇよ」
「?」
「……もういい」
何が言いたいのか分からない。
首を傾げていると、隣に立っていた男性まで奇妙なものを見るような目で私を見ていた。
「……殿下。まさか、この方が?」
「ああ。たぶんな」
「では、報告にあった白銀の――」
「それは後だ」
リオンが遮る。
白銀の、何なのだろう。
少し気になったけれど、今はそれよりも聞かなければならないことがある。
「それで、それらがどうしてリオンさんの計画と関係するのですか?」
そう尋ねると、リオンの表情から僅かに呆れが消えた。
代わりに浮かんだのは、これまでに何度か見た険しい表情だった。
「……ヴァルガードには、フィオーレとの間に争いを起こしたがってる連中がいる」
「争いを?」
「ああ」
思わず眉を寄せる。
「何のためにです?」
「理由は一つじゃねぇよ。領土が欲しい奴もいれば、戦争になれば儲かる奴もいる。戦で功績を上げて立場を強くしたい奴だっている」
淡々とした口調だった。
けれど、どこか苦いものが混じっているように聞こえた。
「そいつらは、いきなり戦争を起こすつもりじゃねぇ。国境を少しずつ不安定にして、双方に不満と警戒を積み上げるつもりだった」
リオンは吐き捨てるように続ける。
「水を止める。街道に魔物を増やす。人や物の行き来を滞らせる。そうやって小さな異変を積み重ねれば、いずれ誰かが『隣国のせいだ』と言い出す」
「…………」
先ほど私が考えていたことと、ほとんど同じだった。
けれど、一つだけ違う。
私は、それが誰かの意図によるものではないかと推測しただけだった。
リオンは――知っていた。
「では……あの宿場町のことも、魔物のことも、ご存じだったのですか?」
「ああ」
「石碑も?」
「……ある程度はな」
「では、なぜ止めなかったのです?」
問いかけると、リオンは黙った。
長い沈黙だった。
やがて、低い声が落ちる。
「止めるつもりがなかったからだ」
「…………」
今度は、私が黙る番だった。
「俺はあいつらの計画を知ってた。知った上で――利用するつもりだった」
「利用……」
「ああ」
リオンは私から目を逸らさなかった。
いつものようにはぐらかすことも、冗談めかして笑うこともしない。
「連中が仕掛けることも、それによって国境が不安定になることも、ある程度は分かってた。それでも止めなかった」
「では……そこに暮らしている方々がどうなるのかも?」
「…………」
ほんの僅かだった。
けれど、リオンが答えるまでに間があった。
「……分かってた。水がなくなりゃ困る奴が出る。街道に魔物が増えれば、人の行き来も減る。怪我人が出ることも、人が死ぬ可能性があることも――最初から分かってた」
低い声でそう言い切ったリオンの顔を、私は黙って見つめる。
けれど、その表情はどこか苦しげだった。
「分かってた……はずなんだよ」
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