第46話 繋がり始めた異変
商隊の方々と別れたあと、私たちは一度野営地へと戻った。
すっかり明るくなった森には朝の光が差し込み、先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、鳥たちのさえずりが聞こえている。
簡単な朝食を済ませ、アンナと二人で荷物をまとめる。
その間も、リオンはほとんど口を開かなかった。
時折、何かを考え込むように森の奥へ視線を向けては、険しい表情を浮かべている。
いつもの気だるげな笑みもなければ、軽口を叩くこともない。
(やっぱり、さっきの魔法式が気になっているのね)
それも、ただ気になっているというだけではないのだろう。
あの黒い痕跡を見た瞬間のリオンの顔を、私は覚えている。
明らかに、何かを知っている人の反応だった。
「……先ほどの魔法式と、何か関係があるのですか?」
荷物をまとめながら何気なく尋ねてみると、リオンはこちらを見ることなく、小さく息を吐いた。
「……知らねぇって言っただろ」
「そうでしたね」
それ以上は尋ねなかった。
話したくないことを無理に聞かれるのが嫌なのは、私も同じだ。
私だって、自分が公爵令嬢であることも、王太子の元婚約者であることも話していない。
それどころか、前世の記憶があることなど、アンナにさえ話していないのだから。
人には、それぞれ話せない事情がある。
そう思っているからこそ、リオンが自分から話そうとしないことを無理に聞き出すつもりはなかった。
けれど――
(あれは、いったい何だったのかしら)
先ほど地面へ浮かび上がった黒い魔法式だけは、どうしても頭から離れなかった。
王妃教育では、魔法についてもかなりの知識を叩き込まれた。
国内で一般的に使われる魔法式だけではなく、古い術式や他国で用いられているものについても、一通り学んだはずだ。
それでも、あの魔法式には見覚えがなかった。
それだけなら、私の知らない魔法だったというだけで終わっただろう。
けれど、気になることはそれだけではない。
(あの鹿は、本来なら人を襲わない魔獣だったのよね……)
森の守り手として大切にされ、人里へ姿を現すことすら滅多にない。
そんな魔獣が、何者かの魔力によって苦しめられ、人を襲っていた。
そこまで考えたところで、不意に胸の奥へ小さな引っかかりを覚えた。
(……あら?)
何かが、似ている気がする。
けれど、何に似ているのかがすぐには分からない。
私は荷物をまとめる手を止め、これまでの旅をゆっくりと思い返した。
最初に訪れた宿場町では、井戸が干上がっていた。
けれど、本当に水がなくなったわけではなかった。
川の上流では不自然な土砂崩れが起こり、水の流れそのものが変えられていたのだ。
以前はいなかったはずの魔物が増えた村。
その後、森で見つけた石碑。
あれも自然に崩れたものではなかった。
誰かの手によって壊され、周囲の土には荷車が通った跡まで残されていた。
さらに、隣国の者たちが使っていたという洞窟。
そして今朝、人を襲うはずのない魔獣を暴走させていた、見知らぬ魔法。
「…………」
頭の中で、一つひとつの出来事を並べてみる。
どれも、起きていることは違う。
水がなくなったこと。
魔物が増えたこと。
村が襲われたこと。
石碑が壊されたこと。
そして、魔獣が人を襲ったこと。
今までは、その場その場で起きた別々の問題だと思っていた。
水が途絶えていれば元に戻し、異変に気づけばできる限りの手を施し、襲われている人がいれば助ける。
目の前で起きていることに、その都度できることをしただけだ。
けれど――
(どれも、自然に起きたことではない……?)
そう思った瞬間、ばらばらだった出来事が、ほんの少しだけ形を持ったような気がした。
前世の記憶を取り戻すまでの私は、あまりにも世間を知らなかった。
公爵家と王城を行き来し、王妃になるために必要な知識だけをひたすら詰め込まれていた。
政治も、外交も、歴史も学んだ。
けれど、それはすべて本の中の知識でしかなかった。
実際に井戸の水がなくなれば、人々がどんな顔をするのか。
魔物に襲われれば、村からどれほど簡単に笑顔が消えるのか。
安心して暮らせる場所を失うということが、どういうことなのか。
私は何も知らなかったのだ。
けれど前世を思い出し、この旅に出てから、少しずつ分かるようになった。
王妃教育で得た知識が無駄だったわけではない。
ただ私は、それが実際に人々の暮らしへどう繋がっているのかを知らなかったのだ。
知識として覚えていたものと、この旅で自分の目で見たもの。
そして、前世で当たり前のように知っていた人々の暮らし。
それらがようやく、自分の中で少しずつ繋がり始めていた。
(もし、これが全部偶然ではないとしたら……?)
水を奪えば、その土地で暮らすことは難しくなる。
街道に魔物が増えれば、人や物の行き来は減る。
村が襲われれば、人々は土地を捨てなければならなくなるかもしれない。
そして今日のように、本来人を襲わないはずの魔獣まで暴れ始めたら。
そこに暮らす人々は、いつ何が起こるのか分からない恐怖に怯えることになる。
偶然にしては、あまりにも重なりすぎている。
(……誰かが、意図的にこの辺りを不安定にしようとしている?)
そこまで考えた瞬間、背筋を冷たいものが走った。
ただ人を困らせたいだけなら、あまりにも手が込みすぎている。
きっと、何か目的がある。
けれど、その目的までは分からなかった。
◇
野営地を片づけ終えた私たちは、再び街道を歩き始めた。
朝靄はすっかり薄くなり、木々の隙間から差し込む陽射しが街道を照らしている。
しばらく歩いていたけれど、考え始めてしまうと、どうしても先ほどのことが気になった。
「あの魔法……」
ぽつりと口にすると、前を歩いていたリオンが僅かに振り返った。
「なんだよ」
「魔獣を操っていた、というのとは少し違う気がするのです」
「……どういう意味だ?」
私は今朝出会った、あの鹿の姿を思い返す。
あの子は命令に従って動いていたわけではない。
苦しみ、魔力を乱され、ただ我を失っていた。
「もし誰かがあの魔法を使ったのだとしたら、思い通りに操ることが目的ではなかったのではないでしょうか」
「……じゃあ、何のためだ」
「……人を襲わせるため、とか」
口にしてみると、思っていた以上に嫌な想像だった。
リオンは眉間に皺を寄せ、黙って私の続きを待っている。
「もちろん、まだ想像でしかありませんけれど……今朝の方たちは、あの鹿を森の守り手だと仰っていました。それほど穏やかな魔獣が突然人を襲うようになったら……きっと怖いと思うのです」
昨日まで安全だったはずの森が、突然危険な場所になる。
いつ魔物が現れるか分からない。
街道を歩くことさえ恐ろしくなる。
「それだけではありません。水がなくなったり、魔物が増えたり、村が襲われたり……そんなことがいくつも重なれば、この辺りでは安心して暮らせなくなってしまいます」
口にしながら、自分の中でも考えがまとまっていく。
「だから、もし全部が繋がっているのだとしたら……」
そこで言葉を切った。
その先は、私にはまだ分からない。
「誰かが、この辺りで混乱を起こそうとしているのでしょうか」
「…………」
返事がない。
不思議に思って隣を見ると、リオンが足を止めていた。
「リオンさん?」
その顔から、いつもの気だるげな雰囲気が完全に消えている。
何かを考えるように眉間へ皺を寄せ、険しい表情で地面を見つめていた。
やがて――リオンが小さく舌打ちした。
その表情に浮かんでいたのは驚きだけではない。どこか、怒っているようにも見えた。
「……そこまでやるつもりだったのかよ」
「……そこまで?」
「……っ」
「リオンさん、何か知って――」
「いや」
「でも今、そこまで、と」
「……何でもねぇ」
またそれだ。
思わずじっと見つめてしまうと、リオンは気まずそうに顔を逸らした。
(何でもない人は、そんな顔をしないと思うのだけれど……)
けれど、やはりそれ以上問い詰めることはしなかった。
ただ、これだけはもう間違いないと思う。
――リオンは知っている。
私がようやく存在に気づいた何かについて、おそらく私よりもずっと多くのことを。
しばらく黙り込んでいたリオンは、やがて何かを決めたように顔を上げた。
「……少し、確かめたいことができた」
「確かめたいこと、ですか?」
「ああ」
それ以上は説明しない。
けれど、先ほどからの様子を見ていれば、それが今朝の黒い魔法式と無関係ではないことくらい、私にも分かる。
「では……ここでお別れですか?」
「…………」
そう尋ねると、リオンが僅かに目を細めた。
返事はない。
私はその横顔を見つめながら、これまでのことを思い返した。
隣国の者たちが使っていたという洞窟を見つけた時もそうだった。
今朝、地面に浮かんだ黒い魔法式を目にした時も。
リオンは何かを知っている。
それなのに、尋ねればいつも「何でもない」とはぐらかされてしまう。
(……少しくらい、探ってみてもいいかしら)
私だって、未来の王妃として人の言葉の裏を読むことくらいは教えられてきたのだ。
もっとも、実際にそれを使う機会はほとんどなかったけれど。
「……次にお会いするときは、敵ではないといいのですが」
「…………は?」
リオンがこちらを振り返った。
思った以上に分かりやすい反応に、私は小さく笑う。
「リオンさんは、私の知らないことを随分ご存じのようですから」
「……お前」
「違いましたか?」
「…………」
やはり、否定はしない。
けれど次の瞬間、リオンは何とも言えない顔で私を見た。
「……それ、俺以外には言うなよ」
「あら。どうしてです?」
「怖ぇからだよ」
「?」
何が怖いのだろう。
別に脅したつもりなどないのだけれど。
私が首を傾げると、リオンは額を押さえ、深いため息を吐いた。
「……自覚なしかよ」
小さく何かを呟いたあと、リオンは再び歩き出す。
「それで、お別れなのですか?」
そう尋ねると、リオンはすぐには答えなかった。
一度こちらを振り返り、なぜか私の顔をじっと見つめる。
「……?」
何だろうと思って見返していると、リオンはふいと視線を逸らした。
「……いや。もう少し、一緒に行く」
「あら、そうなのですね」
「……なんだよ」
「てっきり、行ってしまうのかと思いました」
「…………」
また黙ってしまった。
今日は本当によく黙る人だ。
確かめたいことがあるのなら、一人で行った方が動きやすいのではないだろうか。
それなのに、どうして一緒に来ることにしたのだろう。
そう思ったけれど、本人が一緒に行くと言うのなら、私から断る理由もない。
「では、行きましょうか」
「ああ」
何となく隣を見ると、アンナがリオンをじっと見つめていた。
何かを見定めるようなその眼差しは、やがて私へ向けられ、もう一度リオンへ戻る。
「アンナ?」
「……いいえ。何でもありません」
(……アンナまでそれなのね)
最近、何でもないことが随分と多い気がする。
思わず小さく息を吐き、私は再び歩き出した。
この時の私は、もちろんまだ知らなかった。
リオンが隠していたものを知ることになるのが、思っていたよりもずっと早いことを。
読んでいただきありがとうございます!




