間話⑥ 白銀の湯
あの不思議な三人の旅人と街で別れてから、数日が経った。
盗賊に村を襲われ、一時は街で保護されていた村人たちも、今はようやく故郷へと戻ってきていた。
けれど、戻ってきたからといって、以前と同じ暮らしがそのまま待っているわけではない。
荒らされた家を片づけ、壊れた柵を直し、散らばったものを拾い集める。
これからまた、この場所で暮らしていくために、やらなければならないことはいくらでもあった。
そして何より――以前とまったく同じ村に戻ることは、もう二度とない。
村長がいないのだ。
あの日、盗賊たちから皆を守ろうとし、村人たちを庇って命を落とした。
いつもなら、こんな時こそ誰より先に声を上げ、皆をまとめていたはずの人は、もういない。
「……村長なら、なんて言っただろうな」
誰かがぽつりと呟いた。
しばらく誰も答えなかったけれど、やがて一人の男が壊れた柵を起こしながら、小さく笑った。
「決まってるだろ。いつまでしょぼくれてるんだって怒鳴るさ」
「……違いねぇ」
誰からともなく、小さな笑いが零れた。
寂しさが消えたわけではない。
それでも、いつまでも立ち止まっているわけにはいかなかった。
村長が命を懸けて守ってくれた村だ。
以前とまったく同じには戻せなくても、残された自分たちでもう一度、この場所で暮らしていかなければならない。
そんな村の一角では、今日も白い湯気が立ち昇っていた。
村を訪れたあの女性が見つけた、不思議な湯だ。
彼女は、この湯には身体の疲れや痛みを和らげる力があるかもしれないと言っていた。
けれど村人たちは、正直なところ半信半疑だった。
何しろ、それまで彼らにとって湯とは、薪を焚いて沸かすものだったのだ。
地面から温かな湯が湧き出しているだけでも十分に不思議なのに、それに浸かれば身体まで楽になると言われても、すぐには信じられない。
それでも、一日中復旧作業に追われていれば、身体は嫌でも悲鳴を上げる。
「せっかくあるんだ。入ってみるか」
そんな一言から、夕方になると何人かの村人が湯へ浸かるようになった。
最初は、ただ疲れた身体を休めるためだった。
ところが数日後――
「……おかしいな」
朝から倒れた柵を直していた年嵩の男が、不意に作業の手を止めた。
「どうした?」
「いや……腰が」
「また痛むのか?」
「逆だよ」
男は腰へ手を当て、確かめるようにゆっくりと身体を伸ばした。
「昨日あれだけ動いたってのに……いつもより楽なんだ」
「……は?」
最初は偶然だと思った。
けれど、同じようなことを言い始めた者は一人だけではなかった。
「そういえば、俺も最近膝が痛まねぇな」
「私は夜、よく眠れるようになった気がするよ」
「力仕事のあとの疲れが残りにくくなったって、うちの旦那も言ってたねぇ」
一人、また一人と声が上がり始める。
もちろん、湯に入ったからといって病が何でも治るわけではない。
それでも、長年身体に抱えていた痛みが和らいだ者や、疲れが取れやすくなった者は確かにいた。
気づけば、夕方になると仕事を終えた村人たちが自然と湯の周りへ集まるようになっていた。
「……本当だったんだなぁ。あのお嬢さんが言ってたこと」
湯に肩まで浸かりながら、誰かがぽつりと呟いた。
その言葉に、何人かが顔を見合わせる。
この湯には身体を癒やす力があるかもしれない。
そう教えてくれたのは、あの白い外套を纏った女性だった。
彼女は何でもないことのように地面へ手を翳し、何もなかったはずの場所から温かな湯を噴き上がらせた。
村人たちにとっては到底理解できないことだったというのに、本人は大したことをしたつもりなどなさそうだった。
「そういや、あのお嬢さん……この湯に浸かって身体を休めることを、なんて言ってた?」
「ああ。なんだったかな……」
「湯治、だったか?」
「そう、それだ。実際にこれだけ身体が楽になるんなら、よその人にも使ってもらえるんじゃないか?」
「よその人に?」
「ああ。身体の痛みで困ってる奴なんて、どこにだっているだろ。そういう人たちが湯治に来られる場所にするんだよ」
「なるほどな。湯治をする場所……湯治場、か」
村人たちにとって、「湯治」という言葉自体が聞き慣れないものだった。
けれど、自分たちの身体でこの湯の良さを知った今なら、その意味も少し分かる気がする。
身体の痛みや疲れを抱えた人にこの湯を使ってもらう。
もし、そのために遠くから人が訪れるようになれば――それは、この村の新しい生業になるのではないだろうか。
聞いた時は、そんなことで本当に人が来るのかと半信半疑だった。
だが実際に自分たちの身体でその効果を感じてしまえば、話は違う。
「もしかしたら、本当に人が来るんじゃないか?」
「でも、こんな村までわざわざか?」
「身体が楽になるなら、俺だったら来るぞ」
「お前はここに住んでるだろうが」
どっと笑いが起こる。
以前なら、こんなふうに村人たちが集まって笑うことも少なかった。
土地は痩せ、作物の実りも決して良くない。
どれだけ働いても暮らしは楽にならず、若い者の中には村を出ていく者も増えていた。
この先、この村はどうなるのだろう。
誰も口には出さなくても、皆が同じ不安を抱えていた。
そんな村に突然現れたのが、この湯だった。
「……試してみてもいいかもしれんな」
「何をだ?」
「湯治ってやつだよ。あのお嬢さんが言ってただろ」
すぐに賛成の声が上がったわけではない。
けれど、反対する声もなかった。
畑しかなかったこの村に、初めて別の道が見えたような気がしたからだ。
その時だった。
「ああ、そういや」
一人の男が何かを思い出したように声を上げた。
「この前、街の商人から妙な話を聞いたぞ」
「妙な話?」
「最近、噂になってるらしい。あちこちで困ってる人を助けて回ってる、すごい魔法使いがいるんだと」
「魔法使い?」
「ああ。干上がった井戸に水を戻したとか、魔物に襲われてた村を救ったとか……なんだか色々言ってたな」
「そんな奴がいるのか?」
「俺も詳しくは知らねぇよ。ただ――」
そこで男は少し声を潜めた。
「みんな、そいつのことを『白銀の魔女』って呼んでるらしい」
「白銀の魔女……?」
その場にいた者たちが顔を見合わせた。
「……白銀の魔女、か」
誰かがそう呟いた時、村人たちの脳裏に、あの日の光景が蘇った。
何もなかった地面へ手を翳し、あっという間に湯を噴き上がらせた、あの女性の姿。
勢いよく噴き上がった湯が陽の光を受けてきらきらと輝き、辺りには白い湯気が立ち込めていた。
その向こうに佇んでいた彼女の姿は、今思い返してみても、どこか現実離れしていた。
「……そういや、あの時」
一人の男が、ぽつりと呟いた。
「俺、なんていうか……神様でも見てるみたいだと思ったんだよな」
「お前もか?」
「ああ。口にするのも変な気がして黙ってたけど……」
すると、別の者が何かを思い出したように目を見開いた。
「それに、あのお嬢さんの髪……」
「髪?」
「フードがずれた時に少しだけ見えたんだ。あれ、銀色じゃなかったか?」
一瞬、誰も口を開かなかった。
何もなかった場所から、あっという間に温かな湯を噴き上がらせた。
その湯は、実際に自分たちの身体を癒やしている。
そして、白銀の髪。
「……まさか」
誰かが恐る恐る口にする。
「あのお嬢さんが……白銀の魔女なのか?」
「でも、魔女って……もっとこう、恐ろしいもんじゃないのか?」
「知らねぇよ。俺だって会ったことねぇ」
「会ってたかもしれないって話をしてるんだろうが」
「……そうだった」
誰からともなく笑いが零れた。
本当にあの女性が噂の白銀の魔女なのか、確かめる術はない。
本人は名乗らなかったし、何か見返りを求めることもなかった。
ただ村人たちの話を聞き、何もなかった場所から温かな湯を噴き上がらせ、その湯が身体を休める助けになるのだと教えて去っていった。
けれど、あの日の光景を思い返せば――
「……白銀の魔女なら、あんなことができても不思議じゃないのかもしれないな」
誰かの呟きに、今度は誰も否定しなかった。
年嵩の男が、ゆっくりと湯から立ち上がった。
「だったら、なおさら無駄にはできねぇな。あの人が教えてくれた『湯治』ってやつ、本気でやってみる価値はあるんじゃないか?」
「ああ」
「やってみるか。湯治場ってやつを」
今度は、先ほどよりも多くの声が返ってきた。
何から始めればいいのかも分からない。
人を泊める場所もなければ、遠くの町へ知らせる方法だって考えなければならない。
それでも、不思議と誰の顔にも悲観した様子はなかった。
これまで彼らが見ていたのは、痩せた土地と、年々少なくなっていく収穫ばかりだった。
けれど今は、その隣で白い湯気が立ち昇っている。
それはまるで、この小さな村に初めて現れた、新しい未来のようだった。
――そして
村人たちは、この時まだ知らなかった。
最初は近隣の町から数人が訪れるだけだったこの場所が、やがて身体を休める湯治場として少しずつ知られるようになることを。
旅人を泊めるための小さな宿が建ち、人が集まれば商人も訪れ、食事を出す店まで生まれていく。
痩せた土地から得られる僅かな実りだけに頼っていた村には新たな仕事が増え、かつて故郷を離れていった若者たちの中からも、戻ってくる者が現れるようになる。
そしていつしか、遠く離れた土地からも人々が訪れるほど、この村の湯が名を知られるようになることを。
人々はその湯を――『白銀の湯』と呼んだ。
かつて、名も告げずにこの村を訪れた一人の女性。
彼女が本当に『白銀の魔女』だったのかを知る者はいない。
それでも村では、長い時が経っても語り継がれていくことになる。
自分たちが未来を諦めかけていた頃、白い外套を纏った一人の女性が、この土地に新しい道を残していったのだ、と。
――もっとも
そんなふうにこの村が変わっていくことを、当の本人はまだ何も知らない。
それは、もう少し先のお話。




