第45話 黒い痕跡
空がほんのりと白み始めた、夜明け前。
森を包む朝靄の中には、まだ夜の名残を残した冷たい静寂が満ちていた。
昨夜は焚き火を囲んで遅くまで話していたこともあり、私もまだ浅い眠りの中にいた。
けれど――
「うわああっ!」
「誰か――! 助けてくれ!」
静寂を切り裂くような悲鳴に、私は勢いよく目を開けた。
「……何?」
「レティさん!」
隣ではアンナも身体を起こしている。
焚き火の向こうへ視線を向けると、リオンはすでに起き上がり、剣を手に声のした方角を見据えていた。
「……近いな」
その直後、何かが激しくぶつかるような音が森の向こうから響いた。
「何かあったのでしょうか」
「さあな」
リオンはそう答えながら立ち上がる。
私も急いで外套を羽織り、アンナと顔を見合わせた。
「……少し、様子を見に行ってみましょうか」
「そうですね」
すると、リオンが呆れたようにこちらを見る。
「お前らも来るのかよ」
「だって、気になるではありませんか」
そう答えると、リオンは一瞬言葉を詰まらせたあと、小さく息を吐いた。
「……まあ、そうだな」
私たちは必要なものだけを手にすると、悲鳴の聞こえた方角へと急いだ。
◇
街道へ出ると、そこにはすでに混乱に陥った人々の姿があった。
荷馬車が三台ほど並んだ、小規模な商隊のようだ。
近くには野営をしていたらしい焚き火の跡が残っている。
おそらく昨日のうちに街を出て、この辺りで一夜を明かし、夜明けとともに移動を再開しようとしていたのだろう。
けれど、荷馬車へ繋がれた馬たちは怯えたように嘶き、一台の荷車が大きく傾いている。
「ひっ……来るな!」
男性の悲鳴に、そちらへ視線を向けた私は息を呑んだ。
商人たちと向かい合うように立っていたのは、見上げるほど大きな鹿の魔獣だった。
枝のように幾重にも広がる立派な角に、朝靄の中でも淡く輝いて見える白銀の毛並み。
本来であれば、きっと息を呑むほど美しい魔獣なのだろう。
けれど今は、その身体の至るところに不気味な黒い靄がまとわりついていた。
黒い靄はまるで意思を持っているかのように毛並みの間を這い、立派な角へ絡みついている。
「グォォ……ッ!」
「下がってろ!」
鹿の魔獣は苦しそうに頭を振ると、地面を蹴った。
リオンが短く叫んだ次の瞬間、私たちの前へ飛び出し、迫ってきた巨大な角を剣で受け流していた。
金属がぶつかるような甲高い音が響く。
リオンはその勢いを利用するように身体を翻すと、剣を振り上げた。
その切っ先が鹿の首へ向けられた瞬間――
「待ってください!」
「なんだ!?」
私の声に、リオンが寸前で剣を止めた。
「あの子……何かおかしいです」
「見りゃ分かるだろ。まともじゃねぇ!」
「そうではなくて……」
私は鹿の魔獣を見つめ、意識を集中させた。
魔力の流れを探ってみれば、すぐに違和感の正体が分かった。
あの黒い靄は、この子自身の魔力ではない。
まったく異なる何かが外側からまとわりつき、本来あるはずの魔力の流れを無理やり乱している。
それに抗うように、鹿は何度も頭を振っていた。
「……この子、怒っているんじゃないわ」
「は?」
「苦しんでいるんです」
そう気づいてしまえば、放っておくことなどできなかった。
私は鹿へ向かって一歩踏み出す。
「おい、待て!」
背後からリオンの焦った声が飛んできた。
「何するつもりだ!」
「もう少し近くで、魔力の状態を見てみます」
「見てみるって……お前、あの状態が見えてんだろ!?」
「もちろんです」
「だったら近づくな! あの角で突かれたらただじゃ済まねぇぞ!」
言われなくても、それくらいは分かっている。
けれど、この子自身が望んで暴れているのではないのなら、傷つける必要もないはずだ。
「大丈夫です」
「だから何を根拠に――!」
リオンの言葉が終わるより早く、鹿がこちらを向いた。
黒く濁った瞳が私を捉える。
次の瞬間、地面を蹴る音とともに巨大な身体が一直線に迫ってきた。
「レティ!」
「お嬢様!」
巨大な角が目前まで迫る。
私はその場から動くことなく、目の前へ薄い結界を展開した。
――バチィッ!
凄まじい衝撃に結界が大きく震える。
けれど、破られるほどではない。
行く手を阻まれた鹿が、苦しそうに呻きながら再び頭を振った。
「大丈夫よ。あなたを傷つけたりしないわ」
私は結界越しに、そっと手を伸ばした。
この言葉が通じているのかは分からない。
それでも、少しでも安心してくれればいい。
手のひらへ魔力を集める。
この子を包んでいるものだけを取り除くように、慎重に。
白銀の光が指先から溢れ、鹿の身体を柔らかく包み込んでいく。
すると――
「……っ」
まとわりついていた黒い靄が、光を嫌うように激しく蠢いた。
耳障りな音を立てながら鹿の身体から引き剥がされ、空中へ逃れようとする。
けれど、私はそのまま魔力を広げた。
(この子から、離れて)
白銀の光が一際強く輝く。
朝靄の中を無数の光の粒が舞い、黒い靄を飲み込んでいった。
やがて最後の一片まで消え去ると、鹿の身体から力が抜けた。
「あっ……!」
大きな身体がぐらりと傾く。
私は慌てて駆け寄り、その首元へ手を添えた。
「大丈夫?」
しばらく荒い呼吸を繰り返していた鹿だったが、やがて少しずつ息が整っていく。
そして、ゆっくりと瞼を開いた。
先ほどまで黒く濁っていた瞳は、朝露を映したように澄んでいる。
「……よかった」
ほっと息をついた、その時だった。
鹿が大きな頭をゆっくりと下げ、私の手へ額を寄せてきた。
「あら」
どうやら、もう怖がる必要はないらしい。
私は思わず笑みをこぼし、その額をそっと撫でた。
「もう大丈夫ね」
白銀の毛は見た目よりも柔らかく、撫でると鹿は気持ちよさそうに目を細めた。
その姿に、私まで嬉しくなってしまう。
ふと振り返ると、アンナは安心したように微笑んでいた。
一方、商人の皆さんは呆然とこちらを見つめている。
そしてリオンは――
「…………」
剣を下ろしたまま、何とも言えない顔で私を見ていた。
「……どうかしましたか?」
「いや……」
リオンは何か言いかけたものの、結局ため息をついただけだった。
「……もういい」
「?」
何がもういいのだろう。
よく分からないけれど、とりあえず鹿の魔獣が無事だったのだから、それでいい。
「森へお帰りなさい」
もう一度額を撫でてから手を離す。
すると鹿は名残惜しそうに私の手へ鼻先を寄せたあと、ゆっくりと森へ向かって歩き始めた。
数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
「もう大丈夫よ」
そう声を掛けると、鹿はしばらくこちらを見つめてから身を翻し、朝靄の残る森の奥へと静かに消えていった。
◇
「た、助かった……」
鹿の姿が完全に見えなくなったところで、商人の一人がその場へへたり込んだ。
ほかの方たちもようやく緊張が解けたのか、次々と安堵の息を吐いている。
「ありがとうございます。本当に……どうなることかと」
「皆さんにお怪我はありませんか?」
「え、ええ。おかげさまで……」
大きな怪我をした人はいないようだ。
馬たちも少しずつ落ち着きを取り戻している。
それを確認して胸を撫で下ろしていると、年嵩の商人が信じられないものを見るように森を振り返った。
「それにしても……妙だな」
「何がですか?」
「あの魔獣ですよ」
男性は困惑したように眉を寄せた。
「あれは、この辺りじゃ森の守り手として大切にされている魔獣なんです。人を襲うどころか、人里へ姿を現すことすら滅多にない」
「森の守り手……」
「ええ。昔から、見かければ幸運が訪れるとまで言われてるくらいでして。俺も長いことこの道を通っていますが、あんな姿は初めて見ました」
私は鹿が消えていった森へ視線を向けた。
(やっぱり……)
あの子自身が暴れていたわけではなかったのだ。
原因は、間違いなくあの黒い靄だろう。
けれど――
(あれは、いったい何だったのかしら)
自然に生まれたものなのか。
それとも、誰かが意図的にあの子へまとわせたものなのか。
考えてみても、今の私には答えが出ない。
「……ん?」
その時、少し離れた場所に立っていたリオンが目に入った。
商人たちの話にも加わらず、先ほど鹿が立っていた辺りを険しい表情で見つめている。
「リオンさん?」
声を掛けても返事がない。
不思議に思って近づこうとした、その時だった。
地面に、黒いものが浮かび上がった。
「……あら?」
黒い靄はすべて消えたと思っていた。
けれど土の上に残ったわずかな黒い靄が細い線となり、まるで何かを描くように動き始める。
いくつもの線が絡み合い、一瞬だけ複雑な図形を形作った。
(……魔法式?)
見たことがない。
王妃教育の一環で魔法についても相当な知識を叩き込まれてきたけれど、少なくとも私の知る術式ではなかった。
それなのに。
隣にいるリオンは、その図形を凝視していた。
いつもの気だるげな表情は消え、わずかに目を見開いている。
「……リオンさん?」
「…………」
「今のものを、ご存じなのですか?」
尋ねた瞬間、リオンがこちらを見た。
ほんの一瞬、何かを迷うような沈黙が落ちる。
けれど彼はすぐに視線を逸らすと、地面に残った黒い線を靴の裏で踏み消した。
「……いや」
「でも――」
「何でもねぇよ」
ぶっきらぼうにそう答え、リオンは剣を鞘へ収めた。
それ以上聞くなと言われているような気がして、私は口を閉じる。
昨夜と同じだ。
私に話せない事情があるのなら、無理に聞くつもりはない。
私だって、自分のことをすべて話しているわけではないのだから。
それでも――
森の奥へ消えていった鹿。
その身体を蝕んでいた黒い靄。
そして、一瞬だけ地面へ浮かび上がった見知らぬ魔法式。
何より、それを見たリオンの表情。
(……何か、知っているのね)
理由までは分からない。
けれど、それだけは確かな気がした。
白み始めた空から、朝の光が少しずつ森へ差し込んでくる。
そんな穏やかな朝の景色とは裏腹に、リオンの横顔だけは、これまで見たことがないほど険しいものだった。




