第41話 揺らぐ信念 ◆
リオン視点です。
静まり返った夜の森を、俺は一人歩いていた。
レティには「野暮用だ」と適当に誤魔化してきたものの、胸の奥に引っかかった違和感は、どうしても拭えなかった。
(あの幾何学模様……どこで見た……?)
昼間、村人の男が地面へ描いた印が頭から離れない。
どこかで見覚えがある。
けれど、あと少しのところで思い出せない。
記憶の奥底を探るように歩みを進めながら、俺は無意識に歩幅を速めていた。
(もし……俺の思っている通りなら)
それは、ただの盗賊が使うような印ではない。
そして、トロン伯爵の工場で見かけた印でもあった。
そんな考えを振り払うように首を振りながら、例の洞窟へ辿り着いた俺は、その場で思わず足を止めた。
「……なんだ、これは」
昼間は静まり返っていた洞窟の入口から、白い湯気がもうもうと立ち上っている。
しかも足元では、ほんのりと温かな水が絶え間なく流れ出し、夜の森へ細い川を作っていた。
嫌な予感が胸をよぎる。
俺は腰の松明へ火を灯すと、慎重に洞窟の奥へと足を踏み入れた。
◇
「……おいおい、冗談だろ……」
松明の灯りが照らし出した光景に、思わず息を呑んだ。
昼間見た洞窟とは、まるで別の場所だった。
壁は大きく崩れ落ち、足元一面には湯が溜まり、木箱がいくつも流されている。
岩肌からは今なお湯が流れ落ち、辺りには濃い湯気が立ち込めていた。
俺はゆっくりと近くの木箱へ歩み寄る。
濡れた側面に刻まれた印を見た瞬間、確信した。
「……やっぱり、あの印だ」
昼間、村人が描いて見せた幾何学模様。
――間違いない。
蓋の外れた木箱を覗き込む。
中には予備の剣、槍、弓、防具が隙間なく詰め込まれていた。
さらに保存食や軍用薬品まで揃っている。
「……盗賊が溜め込むような量じゃねぇ」
村を襲うだけなら、ここまでの物資は必要ない。
どう見ても、もっと大きな目的のために集められたものだった。
俺は転がっていた剣を一本拾い上げる。
柄には魔石と、剣身には細かな魔法式。
軍でしか見かけない高価な魔導武器だ。
だが――。
「……壊れてる?」
本来なら淡く光を放っているはずの魔石には、無数の亀裂が走っていた。
剣身へ刻まれていた魔法式も、跡形もなく消えている。
(こんな壊れ方……聞いたことがねぇぞ)
首を傾げながら奥へ進むと、水浸しになった大量の書類が目に入った。
足元へ散らばる羊皮紙を拾い上げようとした時、水底で赤いものが目に留まる。
屈み込み、それを拾い上げた瞬間だった。
「……ッ!……なんで、これが」
思わず息が止まった。
指先に残る赤い封蝋へ刻まれた紋章には、見覚えがあった。
――いや。
正確には、少し違う。
普段、公の場で見かけるものとは、ほんのわずかに意匠が異なっている。
昔、一度だけ目にしたことがあった。
だが、それがどんな場だったのかまでは思い出せない。
俺は無言のまま封蝋を握り締め、辺りへ散らばる書類へ目を向けた。
ほとんどは水を吸い、文字が滲んで読めなくなっている。
それでも、ところどころ判別できる単語があった。
『北部』
『兵糧』
『輸送』
『第一陣』
「……戦争の準備、なのか」
静かな洞窟へ、自分の声だけが小さく響いた。
俺は、戦争そのものを望んでいたわけじゃない。
戦になれば多くの命が失われることくらい、理解している。
それでも俺は、誰よりも早く、誰よりも大きな功績を手に入れなければならなかった。
そうでなければ守れないものがある。
その思いだけが、俺をここまで突き動かしてきた。
それさえ手に入れば、自分の立場を確かなものにできると信じてきた。
だから俺は、あの人の示した道が最善だと思っていた。
だが、目の前にある光景は、その考えとはあまりにも違いすぎる。
(村を襲わせたのか……?住民を追い出すために……?)
そんなやり方まで必要だったというのか。
昼間、村人たちが語った出来事が頭をよぎる。
焼かれた畑。
殺された村長。
飢えに苦しむ子どもたち。
そして、不意にレティの言葉が胸へ蘇った。
『一つの側から見ただけでは、分からないこともあるのかもしれないわね』
『事情があっても、許されることではないけれど……』
思わず唇を噛み締める。
「俺の知らないところで……ここまで話が進んでいたのか……?」
胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れていく。
いや、まだ決めつけるのは早い。
あの人自身が知らない可能性だってある。
誰かが侯爵家を利用しているだけなのかもしれない。
今ここで答えを出すには、材料が少なすぎる。
俺はゆっくりと洞窟の外へ目を向けた。
遠く、木々の隙間から白い湯気が夜空へ立ち上っている。
昼間、レティが湧かせた温泉だ。
「……あいつ」
苦笑が漏れる。
気づけば、俺の予想はまたあいつに覆されていた。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
いや、違う。
気になっているのは、温泉のことじゃない。
今日、あいつが口にした言葉だった。
『一つの側から見ただけでは、分からないこともあるのかもしれないわね』
あの一言が、どうしても頭から離れない。
初めて会った時も、宿場町でも、この村でも。
気づけば、あいつはいつも誰かを助けていた。
だからだろうか。
最近は何かあるたび、あいつならどうするのかと考える自分がいた。
名声が欲しいわけでもない。
見返りを求めるわけでもない。
ただ、自分にできることをしているだけ。
少なくとも、俺にはそう見えた。
……まったく、理解できない女だ。
俺は手の中の赤い封蝋を懐へしまい込んだ。
「……まずは、自分の目で確かめる」
まだ本当の敵が誰なのかも分からない。
だからこそ、今は誰にも話さない。
静かに踵を返した俺は、夜の森へ溶け込むように洞窟を後にした。
洞窟を離れながら気づけば、最後に思い浮かんだのは封蝋でも洞窟でもなかった。
白い湯気の向こうで、何事もなかったように笑っていたレティの姿だった。
「……本当に、厄介なやつだ」
背後では、何事もなかったかのように白い湯気だけが、静かに夜空へ昇り続けていた。




