第40話 悪い人とは
突如として目の前に現れた湯気を立てる温泉を前に、村人たちは口を半開きのまま呆然と立ち尽くしていた。
そんな周囲の驚愕など気にも留めず、私はパンと両手を叩く。
「これなら、皆さんしっかり体を温められるわ!」
「いや……そういう問題じゃねぇだろ……」
リオンが頭を押さえて脱力したようにツッコミを入れるが、アンナはすでに「さすがレティさんです」とでも言いたげな顔で手際よく入浴の準備を始めていた。
大掛かりな仕切りを作る必要はない。
アンナと村の女性たちが協力し、持っていた大きな外套や毛布を木と木の間に手際よく結びつけ、簡単な目隠しを作っていく。
「俺たちは少し離れた場所で待機している。終わったら声をかけてくれ」
リオンが男たちを引き連れて少し離れた場所へ移動し、まずは女性と子どもたちが温泉へ入ることになった。
◇
「……あったかい」
「お母さん、あったかいよ!」
最初は怯えるように恐る恐る湯に入っていた子どもたちが、じんわりと身体に広がる温もりに、ぽつりぽつりと声を弾ませ始めた。
母親たちもまた、久しぶりに身体の汚れを拭い落としながら、張り詰めていた顔の緊張をゆっくりと解かしていく。
少し離れた場所からその微笑ましい光景を見守りながら、私もそっと胸を撫で下ろしていた。
「お嬢さんがたも、一緒にどうだい?」
「ありがとうございます。でも、私たちは大丈夫です。皆さん、ゆっくり温まってください」
「そうかい?」
女性陣が着替えを終えると、次は交代で男性陣が温泉へと向かう。
「皆様が身体を温めていらっしゃる間に、お食事の準備をいたしましょう」
アンナの提案に、村の女性が申し訳なさそうに小さく首を振った。
「お気持ちは嬉しいのですが……このあたりの食べられる野草や木の実は、もうほとんど採り尽くしてしまって……」
「そうなのですか?」
「ええ……。本当はもっと山の奥へ入れば山菜もあるのかもしれませんが、小さな子どもを置いて遠くへ行くわけにもいかなくて……。あの洞窟の連中がいつ戻ってくるかもわかりませんでしたから」
やがて、お湯から上がってきた男たちが少し元気を取り戻した様子で戻ってきた。
「それなら、俺たちが探してくる。身体も軽くなったし、少し離れたところまでなら行ける」
リオンと数人の男たちは川へ向かって魚を捕りに行き、残りの男たちは少し離れた安全な場所まで足を延ばして山菜や木の実を集めて回った。
私たちが持っていた保存食も少し切り分け、魚、山菜、木の実と合わせると、かなりの量が集まった。
これだけあれば、少なくとも数日は食べるものに困らないだろう。
◇
パチパチと音を立てる焚き火を囲み、香ばしく焼けた魚の匂いが静かな森に漂う。
「……おとうさん、おかわり……してもいい?」
魚を夢中で平らげた幼い子どもが、申し訳なさそうにお椀を出した。
父親が一瞬言葉に詰まり、それから優しく目を細めて力強く頷いた。
「ああ。今日は腹いっぱい食え」
子どもの顔がぱっと明るくなり、「わーい!」と声を上げる。
隣で母親も愛おしそうに微笑んでいた。
男たちもまた、久しぶりに肩の力を抜き、穏やかな表情で食事を口に運んでいる。
昼間、武器を手に襲いかかってきた「盗賊」の顔は、そこにはどこにもなかった。
ただ家族を愛する、普通の人間たちの姿があった。
私は少し離れた木陰から、楽しそうに食事をする彼らの姿を静かに見つめていた。
隣にやってきたリオンへ、ぽつりと呟く。
「……私、悪いことをした人を、その人自身まで『悪い人』なのだと思っていたのかもしれないわ」
「違うのか?」
「……分からないわ。でも、そんなに単純なものではないのかもしれないって、今日初めて思ったの」
子どもに自分の分の魚を分けている父親の姿を、私は見つめる。
「してはいけないことは、してはいけない。それは絶対に変わらないと思うの」
「……そうだな」
「でも、その人がどうしてそこまで追い詰められたのかを知らないまま、その人のすべてを『悪い』と決めてしまうのも……違うのかもしれないわね」
ふと、これまでに読んできた何冊もの本が頭をよぎった。
「歴史書には、勝った国の王は英雄として書かれて、負けた国の王は愚王や悪人として書かれることがあるでしょう?」
「……まあ、そうだな」
「でも、負けた側から見れば、まったく違う歴史だったのかもしれないわね」
そう口にすると、リオンはなぜか急に黙り込んだ。
「リオンさん?」
「……いや。続けてくれ」
「そんな大した話じゃないわ。私が今まで本で読んできた『悪人』の中にも、本当は何か事情があった人がいたかしらって思っただけよ」
「…………」
「もちろん、事情があれば何をしても許されるとは思わないわ。でも……一つの側から見ただけでは、分からないこともあるのかもしれないわね」
しばらくの重い沈黙のあと、リオンが小さく息を吐いた。
「……そうだな」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「勝ったから正しいとも、負けたから間違ってるとも限らねぇ」
「ええ」
「……それでも、選ばなきゃならねぇ時はあるけどな」
「?」
「いや。こっちの話だ」
リオンは苦く笑い、それ以上は何も語らなかった。
◇
夜が深まると、温かい温泉とお腹いっぱいの食事のおかげで、緊張の糸が切れた村人たちは深い眠りについた。
子どもたちは母親の腕の中で静かな寝息を立て、大人たちも次々と横になっていく。
明日には、みんなで一緒に街へ向かう。
誰もが安堵し、これで一安心だと信じて疑わなかった。
夜風が静かに木の葉を揺らす中、焚き火の番をしていた私の元へ、静かに足音が近づいてきた。
「レティ」
「リオンさん? どうしたの?」
振り返ると、リオンはいつになく真剣な表情をしていた。
「……ちょっと野暮用ができた。少し出てくる」
「こんな時間に?」
「ああ。大したことじゃねぇよ」
そう言って笑うけれど、どこかいつものリオンとは違う。
「一人で行くのですか?」
「その方が早いからな。あんたたちはここにいてくれ」
「……分かりました。でも、絶対に無理はしないでくださいね」
「分かってる。すぐ戻る」
そう言い残すと、リオンは暗闇の広がる森の奥へと、一人静かに姿を消していった。
その背中を見送りながら、私はなぜか胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
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