第36話 普通のはずなのだけれど
リオンが先に洞窟へ足を踏み入れ、周囲へ鋭い視線を巡らせながら慎重に奥を確かめていく。
しばらくしてから、小さく息を吐いた。
「……よし。魔物の気配はないな。奥行きもあるし、雨風をしのぐには十分だ。今日はここにしよう」
「本当に洞窟で泊まるのね」
思わず辺りを見回す。
岩肌がむき出しになった洞窟など、本の挿絵で見た程度しかない。
少しだけ胸が弾んだ。
「こんな場所で休むのは初めてだわ」
「俺は薪を集めてくる。アンナ、水筒を貸してくれ。水場も探してくる」
「承知いたしました」
アンナが素直に水筒を差し出すと、リオンは今度はこちらへ視線を向けた。
「で、レティは——そこに座って待っててくれ」
「……え?」
一瞬考え込むような顔をしてから、真顔で言われた。
予想外の言葉に思わず目を瞬かせた。
「私も何かお手伝いできるわ」
「いや、目を離した隙に『少し見てくるわ』とか言って、洞窟の奥まで歩いて行きそうだからな」
「そんなことしないわよ」
少しだけ頬を膨らませると、隣からアンナが穏やかに微笑んだ。
「レティさん。先ほど道に迷われたばかりですので」
「……それは」
言葉に詰まる。
確かに否定はできない。
おとなしく入口近くの岩へ腰を下ろすと、リオンは「よし」と一つ頷いて洞窟を出て行った。
◇
しばらくすると、両腕いっぱいに薪を抱えたリオンが戻ってきた。
水筒にもたっぷりと水が汲まれている。
薪を組み終えたリオンは、小さく息を吐くと、指先へそっと魔力を集めた。
次の瞬間、小さな火種が生まれ、乾いた薪へ静かに燃え移る。
ほどなくして炎は安定し、ぱちぱちと心地よい音を立てながら、洞窟の中を柔らかな橙色に照らし始めた。
「火を起こす魔法がお得意なのね」
「これくらいなら簡単な魔法だ。……まぁ、魔法を使える人間にとっては、だけどな」
苦笑したリオンは、焚き火へ薪をくべながら続けた。
「魔法を扱える人間は、それほど多くないからな」
「そうだったの?周りでは当たり前のように皆使っていたから、普通なのだと思っていたわ」
私は驚いて目を丸くした。
これまで私の周りにいた人たちは、皆ごく当たり前のように魔法を使っていた。
だから、それが普通なのだと思っていたのだ。
呆れたような顔をして火の具合を確かめると、リオンは真面目な顔でこちらを見た。
「……やっぱり、レティは少し世間知らずだな」
「そうかしら?」
首を傾げると、隣にいたアンナが小さく口元を緩めた。
「レティさんの周りは、魔法を扱える方ばかりでしたからね」
「そういうことだったのね」
納得して頷く私の横で、アンナは一瞬だけリオンへ視線を向ける。
けれど、すぐに何事もなかったように鍋へ視線を戻し、静かにスープをよそい始めた。
「さて。夜は見張りを交代しよう。火も絶やさない方がいい」
「見張り?」
思わず聞き返す。
(まるで本で読んだ冒険譚そのままだわ)
本で読んだことはあったけれど、自分がすることになるとは思ってもみなかったため、少しだけ胸が躍る。
「交代で夜を見張るのね」
そう言った瞬間、リオンの表情が固まった。
「……まさか」
「今までしたことはないわ」
「ないのか?」
「ええ。結界を張るもの」
私は立ち上がると、洞窟の入口へ静かに手をかざした。
淡い光が足元へ広がり、透明な膜のような結界が洞窟全体を包み込む。
「これで大丈夫よ」
「警戒結界か」
「ええ。誰かが近づけばすぐ分かるわ」
「それだけか?」
「それだけだけれど」
「いや、それじゃ意味ねぇだろ! 侵入されたら終わりじゃねぇか! だから見張りを立てるんだ!」
リオンは勢いよく立ち上がって叫んだが、私は首を傾げる。
「近づけば目が覚めるでしょう?」
「その前に斬られたらどうするんだ!」
頭を抱えるリオンを見ていると、アンナが静かに口を開いた。
「恐らく、その心配はございません」
「……どういう意味だ?」
「これまで夜中に結界を破られたことは、一度もございませんでした」
「それは運が良かっただけじゃ——」
「いいえ」
アンナは静かに首を横へ振る。
「レティさんの結界を突破できる方がおられるのでしたら、見張りが一人増えたところで結果は変わりません」
「…………」
リオンは無言のまま入口へ近づき、そっと結界へ手を伸ばした。
するり、と手は何事もなく外へ抜ける。
「普通に出られるな」
そのまま洞窟の外へ出ると、今度は中へ戻ろうと一歩踏み出した。
その瞬間だった。
バチッ——!!
「っ!?」
鈍い衝撃とともに身体が弾き返され、リオンは勢いよく尻餅をついた。
「リオンさん!」
「あら……」
私は目を丸くし、アンナはどこか納得したように頷く。
「やはり、そのようですね」
「……入れねぇ」
「おかしいわね。ただの警戒結界のはずなのだけれど……」
呆然と入口を見つめるリオンと、そして首を傾げる私にアンナがどこか納得したように微笑んだ。
「……レティさん。どうやら、普通の警戒結界とは少し違うようですね」
「そうなの?」
きょとんと首を傾げる私を見て、リオンは額へ手を当てて長いため息をついた。
「……本人だけ気づいてねぇのかよ」
「え?」
「いや、何でもねぇ」
私が尋ねると、リオンは結界へ視線を向けたまま、小さく息を吐いた。
「……こんな結界、見たことも聞いたこともねぇぞ」
その声は、私へ説明するというよりも、驚きが思わず口をついて出たような呟きだった。
◇
「……これで大丈夫よ。入ってちょうだい」
「……助かった」
一度結界を解いてもらい、リオンはどこか警戒した様子で洞窟の中へ戻ってくる。
やがてアンナが温かなスープをよそい、三人で焚き火を囲んだ。
静かな夜の洞窟に、他愛のない話し声がゆっくりと広がっていく。
これまで旅先で出会った人々のこと。
道中で起きた思いがけない出来事。
危うく道に迷いかけたことまで話題に上ると、リオンは何度目か分からない溜め息を漏らした。
「本当に……二人だけでここまで旅をしてきたのか」
「失礼ね。ちゃんとここまで来られたでしょう?」
「無事に着いたこと自体が奇跡じゃねぇか」
少しだけ口を尖らせる私に、リオンは苦笑する。
その言葉にアンナまで小さく笑い、洞窟の中へ穏やかな笑い声が広がった。
食事を終えると、それぞれ寝床へ横になる。
焚き火の炎が小さく揺れ、赤い火の粉がふわりと宙へ舞った。
焚き火を見つめるリオンさんは、先ほどから何度も考え込むような表情を浮かべていた。
……やっぱり、見張りをしなくていいというのは変なのかしら。
でも、今まで困ったことは一度もなかったのだけれど。
そんなことを考えながら、私も焚き火の揺らめきを眺める。
焚き火の薪が、ぱちり、と小さく爆ぜる。
炎の揺らめきに照らされた洞窟には、穏やかな静寂が広がっていた。
その静寂を縫うように、洞窟のさらに奥深く——闇だけが支配する場所から、乾いた足音にも似た小さな音が響く。
カツン。
あまりにも微かなその音は、焚き火の爆ぜる音へ紛れ、誰の耳にも届くことはなかった。
読んでいただきありがとうございます!




