第32話 もう振り返らない
深い眠りの底で、私は昔の夢を見ていた。
まだ幼い頃、公爵邸の図書室での記憶だ。
当時、王妃教育の一環として淑女の嗜みや政治学を叩き込まれていた私は、それとは別に「高度な攻撃魔法や戦闘術式」に強い興味を持っていた。
けれど、周囲の大人たちや家庭教師は、冷ややかに私を嗜めたものだ。
『レティシア様、王妃となられる方にそのような物物しい魔法は不要です。淑女らしく、回復や生活魔法の基礎だけ修めれば十分ですよ』
どれだけ熱意を伝えても、「女だから」「王妃になるのだから」と線を引かれ、高度な魔導書はすべて閲覧を制限されてしまった。
悔しさと虚しさに苛まれていたある日、図書室の片隅でアルバート様と出くわしたのだ。
『……何をやっている』
低い声に振り返ると、そこにいたのは幼いアルバート様だった。
相変わらず隙のない佇まいと、どこか不機嫌そうな冷たい瞳。
『……大人たちに、高度な戦闘魔法の閲覧を制限されてしまったのです。女にそんな物は不要だと』
そう伏し目がちに答えると、アルバート様は「ハッ」と鼻で笑うような仕草をした。
『……男だ女だなど、愚かだな』
アルバート様は吐き捨てるような声でそう言うと、私からスッと視線を逸らしふいっと横を向いてしまった。
その耳の先端がわずかに赤いことにも気づかず、私はただ彼の冷淡な態度を見つめていた。
『使える者に学ばせない方が、よほど損失だ』
そう言い残すと、アルバート様はふいっと背を向け、一度もこちらを振り返ることなくそのまま図書室を出て行った。
当時の私は『また冷たく突き放された』『私の勉強不足に呆れられたのだわ』と思い込んで、深く落ち込んだものだった。
——けれど、不思議なことに。
それから数日後のことだった。
気づけば私の部屋には、閲覧を禁じられていたはずの上級魔導書や古代術式の解説書が、一冊、また一冊と届けられるようになっていた。
家庭教師たちも、どこか渋い顔をしながら、
『……今回は特別です』
とだけ言って、それまで決して教えてくれなかった内容まで講義してくれるようになった。
(あの頃は、公爵家の意向で方針が変わったのだとばかり思っていた。あの人が動いてくれたのだなんて、一度も考えたことはなかった)
けれど……もっと学びたい、と零したのは、あの人の前だけだった。
今思えば、タイミング的にもアルバート様が動いてくれたのかもしれない。
まだ幼く、王妃教育に追われる毎日だった私は、目の前の言葉を受け止めるだけで精一杯だった。
あの人が、その裏で何かしてくれているかもしれない——そんな発想にまで思い至る余裕など、あの頃の私にはなかった。
昨夜、トロン伯爵は平然と「女は男に従うものだ」と口にした。
だからだろうか。
今になって、あの日のアルバート様の言葉が、胸の奥で静かによみがえってきた。
アルバート様は不愛想で、最後まで私のことを嫌っていたのだと思っていた。
けれど……あの方が裏で立ち回り、私を一人の魔法使いとして、対等な人間として尊重し、道を開いてくれていたのかもしれない。
(あの人は……男尊女卑なんて愚かな考えはしてなかったのかもしれないわね)
◇
「……お嬢様」
温かい声に包まれて、ゆっくりと瞼を開ける。
視界に入ってきたのは、見慣れた宿の天井と、心配そうに私を覗き込むアンナの顔だった。
「……アンナ」
「お目覚めですか? うなされていらっしゃいましたが……大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫……ただの、昔の夢よ」
身体を起こすと、体の重さはすっかり消えていた。
私は窓から差し込む夕陽を眺めながら、静かに息を吐く。
アルバート様の真意は、もう確かめようもない。
私が公爵家を出た過去も、変わることはない。
それでも——
あの頃の私は、最後まで気づかなかった。
不器用なあの人なりの優しさが、そこにあったのかもしれないということに。
(……でも、もうどうでもいいことだわ)
思わず苦笑が漏れる。
あの方がどういうつもりだったのかなんて、今さら考えても仕方がない。
それに——もう終わったことだ。
過去を振り返るより、これからのことの方がずっと大切なのだから。
「アンナ、私……どれくらい眠っていたかしら?」
「七時間ほどお休みになっていらっしゃいましたよ。お身体の具合はいかがですか?」
「おかげさまで、もうすっかり元気よ」
大きく息を吸い、頭がすっきりと冴えてくると、昨夜の出来事が鮮明に脳裏によみがえってきた。
(そうだったわ……トロン伯爵を捕らえたところで意識を失ってしまったんだわ)
あの男は、領民を強制労働させている工場があると言っていた。
それに、街から消えた女性たちのことも……まだ何も解決していないのだ。
「アンナ、伯爵の件なのだけれど——」
「ご安心ください、お嬢様」
私が言いかけるより早く、アンナはふわりと可憐な笑みを浮かべた。
卓上へ湯の入った洗面器と清潔なタオルを用意しながら、何気ない口調で続ける。
「お嬢様がお休みになられている間に、伯爵様から事情を伺いました。伯爵様もご自身の非を深く反省されたようで、知っていることはすべて快くお話しくださいましたよ」
「えっ……伯爵が、ご自分から?」
「ええ。とても協力的でいらっしゃいました」
あの伯爵がそんなに素直になるものかしら、と一瞬だけ首を傾げた。
けれどアンナがそう言うのだから間違いないのだろう。
リオンも一緒だったのだろうし、きっと根気よく説得してくれたに違いない。
「伯爵様のお話によりますと、東の森の奥に隠された工場があり、そこで領民の方々を不当に働かせていたようです。また、攫われた女性たちの居場所や、協力者の名前が記された帳簿の隠し場所についても、すべて詳細は紙へ書きだしました」
「……そんなに詳しく?」
「はい。涙を流しながら、すべてを白状……いえ、教えてくださいました」
アンナはいつもの温かな笑みを崩さない。
少し言葉の端々に引っかかるものはあったけれど、あのアンナが言っているのだ。
きっと伯爵も、自分の犯した罪の重さにようやく気づいて反省したのだろう。
「そう……良かったわ。アンナ、手際よく調べてくれてありがとう」
「滅相もございません。お嬢様の手を煩わせるわけにはまいりませんから」
アンナから受け取った温かいタオルで顔を拭うと、心地よい温もりが肌に染み渡る。
「……よし」
パンっ、と軽く自分の頬を叩いて気合いを入れた。
「まずは、この街の騎士団支部に連絡を入れましょう。帳簿の回収や、屋敷に残された被害者の保護、そして伯爵の身柄の引き渡しは、正規の騎士団に任せるのが一番確実だわ」
「賢明なご判断かと存じます。では、手紙の手配は私からリオン様へ頼んでおきますね」
「ええ、お願いね」
私は窓の外、夕陽に染まる東の空へと視線を向けた。
「騎士団が動くのを待つのも一つの手だけれど……私は王都で与えられた役目をこなすことだけに精一杯だった。でもその間に、同じ国でこんなことが行われていたなんて……」
私はもう公爵令嬢ではない。
それでも、この国の高位貴族として生まれ、守られながら生きてきた事実は消えない。
知らなかった、では済ませられない。
だからせめて——今できることだけは、自分の手でやりたかった。
「今さら償えるとは思っていないけれど……せめて、私にできることだけはしたいの」
「お嬢様……」
「あの人たちを見捨てたままにはできないわ」
「では……」
「ええ。私たちが一足先に、その東の森の工場へ様子を見に行きましょう。状況を確認して、可能なら救出の下準備をしておきたいわ」
「畏まりました。すぐにお支度をいたしますね」
アンナは嬉しそうに深々と一礼すると、私の着替えを準備するために手際よく動き始めた。
過去の悔いや、あの日届かなかった想いは、もう胸の奥にそっと仕舞い込んだ。
今の私には、守りたい仲間がいて、為すべきことがある。
私は姿鏡に映る自分をまっすぐに見つめ、強く頷いた。
——もう、立ち止まってはいられない。




