間話④ 侍女の秘め事
「げほっ……げほっ……!」
濡れた布が顔から外された途端、トロン伯爵は激しく咳き込みながら床へ水を吐き出した。
肩を上下させ、必死に空気を貪る。
たった数秒息ができなかっただけだというのに、その表情にはすでに余裕など欠片も残っていなかった。
そんな男を見下ろすアンナの瞳は、どこまでも静かだった。
「もう一度、お伺いいたします」
怒鳴りも脅しもしない、柔らかな声だった。
それでも、その一言だけで伯爵の身体はびくりと震えた。
「私たちに盛られた薬は、どちらで手に入れられましたか?」
「し……知らん……!」
「そうですか」
絞り出すような返答に対して、アンナは小さく頷いただけだった。
再び濡れた布が男の顔を覆う。
「ま、待っ——」
その言葉が最後まで続くことはなかった。
容赦なく冷水が注がれ、部屋に響くのは布越しに押し殺された苦悶だけ。
数秒後、布が外されると、伯爵は激しく咳き込みながら涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして喘いだ。
アンナは濡れた手を布で拭いながら、もう一度だけ穏やかに問い掛ける。
「もう一度、お聞きします」
その声音は、まるで世間話でもしているかのようだった。
だからこそ恐ろしい。
部屋の隅で腕を組むリオンは、黙ったままその様子を見つめていた。
(……怒鳴りもしねぇのか)
暴力を振るっているはずなのに、怒りをぶつけているようには見えない。
ただ必要なことを、必要なだけ淡々と行っている。
その異様さが、何よりも背筋を寒くさせた。
伯爵は震える唇を必死に動かす。
「ひ……東の森だ……!」
その一言で、アンナはようやくペンを取った。
「何がですか?」
「こ、工場だ……っ!」
「そこで薬をつくってると?」
「そ……そうだ……!」
「薬の効果は?」
「ただの睡眠薬のはずだ!全部そこに……!」
さらさらと紙へ書き留める音だけが静かな部屋に響く。
アンナは顔を上げることなく、次の質問へ移った。
「工場では何を?」
「さ、作業だ……」
伯爵は荒い息を繰り返しながら目を泳がせる。
アンナのペンが止まる。
「……具体的に」
「鉱石を……掘らせていた……」
「誰にですか?」
「…………」
伯爵は口を閉ざしたまま視線を逸らす。
アンナはその沈黙を咎めることなく、小さく頷いただけだった。
そして、ごく自然な動作で濡れた布へと手を伸ばす。
まるで次の工程へ移るだけ、と言わんばかりの淡々とした所作に、伯爵の喉がひくりと鳴った。
「ま、待て!しゃ、喋る! 喋るから!」
伯爵が悲鳴のような声を上げ、アンナは手を止めた。
「どうぞ」
「逆らった領民だ! 命令に従わない奴を工場へ送って働かせてた!」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の隅で腕を組んでいたリオンの眉がぴくりと動いた。
「強制労働か……」
「命令を聞けば戻してやるって言えば、みんな大人しくなるんだ……!」
「戻したことは?」
「…………」
「ありませんね?」
「……ない」
アンナは静かに視線を上げると、伯爵は観念したように項垂れた。
部屋に重たい沈黙が落ちた。
アンナは何事もなかったかのように紙へ書き込む。
『領民を工場へ送り強制労働』
その文字だけが、やけに力強かった。
アンナはそのまま質問を続ける。
「女性たちは?」
「若い女は屋敷へ……」
「全員ですか?」
「いや……」
アンナの視線に耐え切れず、伯爵は震える声で口を開いた。
「気に入った奴だけだ……」
「では、気に入らなかった方々は?」
「……売った」
リオンが思わず目を細めた。
「売った?」
「……人買いだ」
短い返答だった。
だが、その二文字だけで、この男が積み重ねてきた罪の重さは十分すぎるほど伝わる。
アンナは無言のままペンを走らせ、『人身売買』と静かに書き記した。
部屋の空気が、音もなく冷え込んでいく。
それでもアンナは眉一つ動かさなかった。
まるで今の告白が最初から予想の内だったかのように、静かに視線を紙から上げると、淡々と次の質問を口にした。
「昨夜、攫わせた女性は?」
伯爵は乾いた笑みを浮かべようとした。
「あの娘は——エトワー……」
パァンッ!!
乾いた破裂音が部屋へ響き、伯爵の顔が勢いよく横へ弾かれた。
アンナは笑顔だったが、その瞳だけは凍りつくほど冷たい。
「余計なお話は結構です。質問にだけ、お答えください」
伯爵は唇を震わせる。
「じ、十番目の妻に……する予定だった……」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が音もなく凍りついたような気がした。
アンナは静かに手を止め、記録していたペンを机の上へそっと置く。
「……そうですか」
穏やかな声音で返されたのは、たったそれだけの一言だった。
しかし次の瞬間——
バキッ。
「ぎゃああああああっ!!」
鈍い音が響き渡る。
伯爵の右手を踏みつけていたアンナは、華奢な踵へ静かに体重を乗せていた。
骨が砕ける感触が足裏へ伝わる。
「申し訳ございません。少々、感情的になってしまいました」
「どこが少々だよ……」
思わず漏れたリオンの呟きは、アンナには届いていない。
伯爵は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫ぶ。
「ゆ、許してくれぇぇ!!」
「許す?」
アンナは小さく首を傾げた。
「薬を盛り。攫い。恐怖を与えた。……私がお許しする理由が、どこにございますか?」
伯爵は声も出せず震え続ける。
アンナはもう一度だけ微笑んだ。
「続きをどうぞ」
その笑顔こそが、この部屋で最も恐ろしいものだった。
「あ、あとは……っ!きょ、協力者は帳簿だ! 屋敷の瓦礫の下、隠し金庫にある! 全部書いてある!」
「わかりました。では最後です」
伯爵の身体がびくりと跳ねた。
「あなたの背後にいる方のお名前を」
「な、なぜ…………」
「一伯爵の仕業とは思えません。……どなたですか?」
静かな声で問いかけると、伯爵の顔から一気に血の気が引いた。
「い……言えない……」
「なぜですか」
「言ったら……」
伯爵は震えながら天井を見上げる。
「殺される……」
「誰に?」
「見てる……!ずっと……見てる……!」
焦点の合わない目で誰もいない空間を見つめたまま、全身を震わせ、取り憑かれたように叫び始めた。
「許してくれ! 頼む! 俺は喋ってない! だから殺さないでくれぇぇぇ!!」
やがて口から泡を吹き、そのまま白目を剥いて気絶した。
部屋に静寂が戻る。
アンナはしばらく男を見つめ、それから静かにペンを置いた。
「……ここまでですね」
リオンは倒れ伏した伯爵を見下ろす。
強制労働、人身売買、そして、この男すら怯える『誰か』。
思っていた以上に根は深い。
リオンは、ちらりとアンナへ視線を向けた。
先ほどまで冷酷な表情で尋問を続けていた彼女は、もういつもの穏やかな侍女の顔へ戻っていた。
まるで何事もなかったかのように、書き留めた紙を丁寧に揃えている。
(……やっぱり)
リオンは心の中で静かに結論を下した。
この女だけは、絶対に敵に回したくない、と。
そう強く思いながらも、不思議と安心感も覚えていた。
少なくとも——
レティの味方である限り、この侍女ほど頼もしい存在はいないのだから。




