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もうどうでもよくなったので、私に関わろうとするのはご遠慮ください  作者: はな


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第31話 あとは私が



 伯爵の瞳から、すっと光が消えた。

 恐怖に歪んだ表情を張りつかせたまま、糸が切れた人形のようにその場へ崩れ落ちる。


 もう立ち上がる気配はない。

 辺りは、しんと静まり返っていた。


 先ほどまで荒れ狂っていた白銀の魔力も、主の感情に呼応するように少しずつ勢いを失い、朝焼けに染まり始めた空へ静かに溶けていく。


 その静寂を破ったのは、背後から飛んできた鋭い声だった。


「レティ!」


 反射的に振り返ると、森の方から、一人の青年が息を切らしながら駆けてくるのが見えた。


「……リオンさん?」


 ようやく追いついたリオンは、崩れ落ちた屋敷と気絶した伯爵、そして白銀の余韻を纏う私を一瞬だけ息を呑むように見つめ、すぐに私へ視線を戻した。


「……怪我は」

「ありません」


 短い問い掛けに、私も同じように短く答える。

 その返事を聞いたリオンは、目に見えて肩の力を抜いた。


 けれど安心したのも束の間、何かを思い出したように続ける。


「アンナなら無事だ。眠らされていただけだ。呼吸も脈も問題ない」

「……そう」


 その言葉に、胸の奥で張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだ。


 ——良かった。


 そう思ったはずなのに、その言葉だけでは胸の奥に残る不安は消えなかった。


 自分の目で確かめるまでは、まだ心のどこかが信じ切れていない。


 私は静かに伯爵へ視線を落とす。

 リオンもその視線を追うように男を見下ろし、側へしゃがみ込んだ。


「気を失っているだけだな」


 そう呟くと腰から縄を取り出し、慣れた手つきで伯爵の両腕を背中へ回して拘束していく。


 あっという間だった。


 驚くほど無駄のない動きで、伯爵は瞬く間に縄で縛り上げられ、完全に身動きの取れない姿になってしまう。


(……手際がいいわね)


 思わず感心してしまうほど慣れた手つきだった。

 野営や盗賊への備えなどで、こうしたことにも慣れているのかもしれない。


(旅をしていると、こういう技術も身につくのね)


 少し勉強になった、などと場違いなことを考えながらその様子を眺めていた。


 その視線に気づいたのか、リオンは淡々と言い放つ。


「逃げられると面倒だからな」


 そう言って縄を締め終えると、伯爵の襟首を掴み、そのまま容赦なく引きずり始めた。


 私はその背中を見つめ、小さく頭を下げる。


「ありがとうございます」

「礼は後でいい。宿へ戻るぞ」

「はい」


 振り返ることもなく返されたその一言に、私は小さく頷いた。


 崩れ果てた屋敷を最後にもう一度だけ振り返る。

 屋敷に伯爵以外の気配がないことは、魔力を放つ前に確認している。


 けれど、領民たちのことや強制労働の工場のこと……まだ終わってはいない。


 それでも今は、それよりも先に確かめたいことがあった。


 私はリオンの後を追い、静かに歩き出した。



 宿へ戻る頃には、東の空はすっかり朝焼けに染まり始めていた。


 入口の扉をくぐった、その瞬間だった。


「お嬢様!」

「アンナ!」


 二階から響いたその声に、思わず顔を上げる。


 慌ただしい足音とともに階段を駆け下りてきたアンナと、目が合った。

 少し顔色は悪い。

 それでも自分の足で立ち、いつものように私へ駆け寄ってくる。


 その姿を見た瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸が、ぷつりと静かな音を立てて切れた。


(……本当に、無事だった)


 リオンから聞かされていたけれど、こうして自分の目で見て、触れられる距離にいることで、初めて胸の奥から本物の安堵が込み上げてくる。


 その途端、今まで無理やり押さえ込んでいた疲労が、堰を切ったように全身へ押し寄せた。


 寝不足。

 張り詰め続けた緊張。

 怒りに任せて解き放った膨大な魔力。


 そのすべてが、一気に身体へ重くのしかかる。

 

 視界がふっと揺らぎ、膝から力が抜ける。

 倒れかけた身体を、アンナが慌てて抱き留めた。


 そこで初めて、自分の身体が限界だったことに気づいた。


「お嬢様!?」

「……少し、疲れたわ」


 その一言が自然と口をついて出た瞬間、自分でも少し驚いた。


 誰かの前で弱音を吐くなんて、いつ以来だっただろう。


 アンナは一瞬だけ目を見開き、それから泣きそうなほど優しい笑みを浮かべた。


「はい。もう何もご心配なさらなくて結構です。後のことは、すべて私にお任せください」


 そう言って、アンナは力の抜けた私の体を優しく抱きかかえる。

 そのまま慣れた手つきで私を支えながら、ゆっくりと階段を上がり、二階の部屋のベッドへと連れて行ってくれた。


 柔らかい寝床に横たわらせてくれ、そっと毛布が掛けられる。


 いつもと変わらない丁寧で温かい手つきに、心底ホッとする。


「どうぞ、ゆっくりお休みください」


 穏やかな声が耳へ届く。

 その言葉を聞いた瞬間、ようやく心の底から肩の力が抜けた。


 ——もう大丈夫。


 そう思えた途端、重くなった瞼がゆっくりと閉じていく。


 ふかふかのベッドの感触と安心感に身を委ねるように、私は静かに意識を深い眠りへ沈めた。


◇◇◇


「……お休みなさいませ、お嬢様」


 すやすやと心地よさそうな小さな寝息が聞こえてきて、口元が自然と緩む。


 眠っているレティシアの寝顔は、驚くほど穏やかだった。

 公爵家にいた頃は、笑顔を見せることも少なく、倒れるまで自分を追い詰めていた。


 弱音や後ろ向きな言葉など、一度だって口にしたことがなかったのだ。


 そんなお嬢様が、今「疲れた」と自分に甘えてくれた。


(…… ようやく、甘えてくださいました)


 愛おしそうに眠る横顔を見つめ、アンナは誰にも聞こえない声で呟いた。


「後のことは……私がすべて片付けますから」


 静かに部屋の扉を閉めた瞬間、アンナの穏やかだった瞳から温度が消えた。


 アンナが静かに部屋の扉へ鍵を掛ける。

 リオンはその様子を見ながら眉を寄せた。


「……一人で寝かせておいて大丈夫なのか?」

「鍵も掛けましたし」


 アンナは小さく鍵を揺らして見せる。


「それに……もう、この宿の方々は大丈夫でしょう」

「ずいぶん言い切るな」

「ええ」


 にこり、とアンナはいつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「少しお話をしただけです」

「話?」

「『目の前にいない伯爵様と、今ここにいるお客様。皆様はどちらを優先なさるべきでしょう?』と、お尋ねしただけですよ。皆様、とても親切な方ばかりでした。快く、お客様を優先すると仰ってくださいました」

「…………そうか。なら、いい」

「はい。皆様、とても賢明なご判断をしてくださいました」


(……何をしたら、そんな短時間で全員が寝返るんだ)


 リオンは何とも言えない表情でアンナを見つめる。

 にこやかに頷くアンナを見ながら、リオンは理由の分からない寒気だけを覚えていた。


「では早速ですが。レティさんに何があったのか、一つ残らずお聞かせください」


 その迫力に一瞬圧倒されつつも、リオンは知っている事情をかいつまんで話した。


「……なるほど。状況は理解いたしました。では、あの男からすべて吐き出させましょう」


 淡々と頷いたアンナの瞳に、冷ややかな光が宿る。



 宿の一室。


 トロン伯爵は頑丈な縄で厳重に縛り上げられ、床へ転がされていた。


 その目の前へ椅子を引き寄せたアンナは、優雅な所作で静かに腰を下ろす。


 部屋の隅では、リオンが腕を組みながら無言でその様子を見守っていた。


 リオンが知っているアンナは、レティの「仲間」であることくらいだ。


(……何をするつもりだ?)


 するとアンナは、何を思い立ったのか持っていたタオルをドアの隙間へぎゅうぎゅうと念入りに詰め始めた。


 タオルを一枚。

 もう一枚。

 念のため、さらにもう一枚。


 ドアの隙間へ丁寧に詰め終えると、アンナは満足そうに小さく頷いた。


「……おい、何やってんだ?」

「お嬢様のお休みを妨げないための防音処理です」


 真顔で返したアンナは、振り返ると無造作に伯爵の前へと歩み寄った。


 パシィンっ!!!


 静寂な部屋に、容赦のない乾いた破裂音が響き渡る。


「ぶふっ!?!? ひ、ひいっ……!?」


 頬を張られた衝撃で無理やり意識を引き戻された伯爵が、白目をむきかけながら跳ね起きた。


 急激な痛みと覚醒に呼吸を乱す男を見下ろし、アンナはにっこりと微笑む。


「では、始めましょうか。難しいことではありません。ご存じのことを、そのままお話しいただくだけですので」


 歌うような優しい声。

 だが、その瞳の奥には恐ろしいほどの闇が宿っていた。


「お、俺は何も知らん……! 誰が吐くか!」

「そうですか。では——少し『質問の仕方』を変えましょう」


 数秒後。


「んぐぐぐぐっ!?!? ぐぁぁぁぁぁっっっ!!??」


 口を塞がれ、ドアの防音壁を抜けて微かに漏れ出てくる絶望の悶絶声。

 怒鳴り散らすわけでもなく、静かに、けれど確実に男のプライドと精神を粉砕していくアンナの手際を、リオンは目の前で見ていた。


(……おいおいおい、マジかよ……)


 背筋に冷たい汗がつつーっと伝う。

 先ほどまでレティシアを優しく介抱していた女と同一人物とは到底思えない。


(……レティは、この女の本性を知っているのか?)


 いや、あの様子は知らないだろう。

 世の中には知らない方が幸せなことがある。

 これはそのひとつだろう。


 レティが眠っていて、本当に良かった。

 むしろ、眠っているからこそ、この光景が始まったのかもしれない。


 そんなことを考えながらも、リオンが最後にたどり着いた結論はただ一つだった。


 ——絶対に、この女だけは敵に回してはいけない。


 ……いや。敵に回したくない。


 防音処理された部屋の中で必死に泡を吹く伯爵を見下ろしながら、リオンは心の中で固く、深く誓うのだった。




 

 

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