第30話 白銀の魔女 ◆
リオン視点です。
重い眠りの底から、ゆっくりと意識が浮かび上がっていく。
瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れない宿の天井だった。
窓の外はまだ薄暗く、夜明けまではもう少し時間がありそうだ。
「……寝過ぎた」
小さく呟きながら身体を起こした瞬間、頭の奥に鈍い重さが残っていることに気付く。
身体も妙にだるく、思うように力が入らない。
普段なら物音一つで目を覚ます。
まして旅先で、これほど深く眠り込むなどあり得なかった。
(……薬か)
胸の内でそう結論づけた瞬間、表情がわずかに険しくなる。
昨夜の夕食までは覚えている。
だが、その先の記憶だけが綺麗に途切れていた。
意識がゆっくりと底へ沈んでいくような感覚だけが、妙にはっきりと残っている。
嫌な予感が胸をよぎる。
躊躇うことなく寝台を降りると、そのまま勢いよく部屋を飛び出した。
廊下へ飛び出すと、宿の中は不気味なほど静まり返っていた。
胸騒ぎを覚えながら真っ先に向かったのは、レティたちへ用意された部屋だった。
「……レティ」
小さく呼びかけるが、返事はない。
嫌な予感を振り払うように扉を開けると、室内は綺麗に整ったままだった。
荷物はそのまま残されているのに、人の姿だけがない。
「……っ」
思わず息を呑み、すぐ隣の部屋へ駆ける。
「アンナ!」
勢いよく扉を開くと、アンナが床に静かに横たわっていた。
一瞬眠っているだけかと思ったが、その表情はあまりにも深い眠りに落ちたまま動かない。
(違う……眠らされている)
嫌な予感が確信へ変わる。
「アンナ!」
肩を掴んで何度か揺さぶるが、反応は返ってこない。
呼吸は規則正しく、脈も乱れてはいない。
それでも、意識だけが戻る気配はまったくなかった。
(睡眠薬か……)
胸の奥へ込み上げた苛立ちを、舌打ち一つで押し殺す。
このまま床へ倒れた姿勢で放っておくわけにもいかない。
慎重に身体を抱き起こすと、ベッドへ寝かせ直し、乱れた毛布をそっと掛ける。
「悪い。少し待っていろ」
短くそう言い残すと、踵を返し、再び部屋を飛び出した。
◇
階段を駆け下り、一階へ降り立つ。
人の気配はある。
だが、宿の中は妙なほど静まり返っていた。
「……誰かいるか」
低く呼びかけても返事はない。
舌打ちを飲み込み、カウンターの奥へ回り込むと、小さな物音が聞こえた。
樽の陰で身を縮めていた宿の主人と目が合う。
「ひっ……!」
「レティはどこだ」
挨拶も前置きもない。
低く抑えた声で問いかけると、主人は一瞬、何を言われたのか分からないというように目を瞬かせた。
「え……?」
「昨夜泊まっていた女二人のうちの1人だ」
その瞬間、主人の顔色が目に見えて変わった。
「し、知りません」
「そうか」
短く返すと、主人はその一言に安堵したように小さく息を吐いた。
——その瞬間だった。
ドンッ、と鈍い音が宿の中へ響く。
主人のすぐ横にあった柱へ、剣が深々と突き刺さっていた。
「ひっ……!」
あと数寸でもずれていれば、その刃は主人の首を貫いていただろう。
主人は腰を抜かし、その場へ崩れ落ちる。
俺は静かに柱から剣を引き抜いた。
「もう一度聞く」
声を荒げる必要はない。
静かな口調のまま、ただ剣先を主人へ向ける。
「どこだ」
「し、知ら……」
「三」
主人の身体がびくりと震えた。
「ま、待ってください……!」
「二」
剣先がわずかに持ち上がる。
「い、言います……!」
「一」
「べ、別荘です!! 伯爵様の別荘です!!」
悲鳴のような叫びだった。
主人は床へ額を擦りつけるように頭を下げながら、必死に言葉を吐き出す。
「伯爵様の別荘です! 村外れの森を抜けた先にあります!」
「何故だ」
短く問い返すと、主人は震える唇を押さえながら、涙声で答えた。
「美しい娘は……伯爵様へ献上する決まりなんです……!」
「決まり?」
「逆らえば……家族が連れて行かれるんです!」
その言葉に、眉がわずかに動く。
「連れて行かれる?」
「工場です……!帰ってきた者は……一人もおりません」
主人は嗚咽を堪えるように声を震わせた。
それだけ聞けば十分だった。
この街で何が行われているのか、おおよその事情は理解できた。
何も言わず踵を返すと、背後から縋るような声が飛んだ。
「ま、待ってください!どうか……家族だけは助けてください……!」
その願いに答えることなく、宿を飛び出した。
今は、一秒でも惜しかった。
◇
森の中を全力で駆けていた。
枝葉をかき分け、木の根を飛び越えるたびに、胸の奥を締めつけるような嫌な予感だけが膨らんでいく。
(間に合え……!)
伯爵の狙いはまだ分からない。
だが、あの男が女を力で従わせる人間だということだけは十分だった。
そんな男が、レティを無事なまま帰すはずがない。
自然と足へ力が入り、速度はさらに増していく。
木々の隙間から覗く空は、いつの間にかゆっくりと白み始めていた。
(くそっ……!)
夜明けが近い。
焦燥だけが胸を焼き、鼓動は嫌になるほど速くなる。
その時だった。
——ドォォォォンッ!!
腹の底まで響くような轟音が、森全体を激しく揺るがした。
衝撃に驚いた鳥たちが一斉に木々から飛び立ち、草むらへ潜んでいた獣たちも我先にと森の奥へ逃げ出していく。
木々の向こうには、土煙が空高く舞い上がっていた。
「……っ!」
間違いない。
あの方向だ。
息を呑むと、迷うことなく爆音のした方角へ駆け出した。
(……あそこか)
夜明けが迫る森を一気に駆け抜ける。
木々が途切れ、視界が開けた瞬間——思わず足が止まった。
「……何だ、これは」
そこにあったはずの別荘は、もはや原形を留めていなかった。
屋根は跡形もなく吹き飛び、壁は無残に砕け散り、周囲には瓦礫が無数に転がっている。
その中心に、一人の少女が静かに立っていた。
東の空から昇り始めた朝日が、彼女のプラチナブロンドを受けて白銀のような輝きを放つ。
吹き抜ける朝風に長い髪が揺れ、その姿は、この惨状とはあまりにも不釣り合いなほど幻想的だった。
瓦礫の向こうでは、一人の男が地面へ這いつくばり、恐怖に歪んだ顔で少女を見上げている。
少女は怒鳴りも、感情を荒げることもせず、ただ静かに男を見下ろしているだけだった。
それなのに、彼女を中心に溢れ出す白銀の魔力が、この場のすべてを支配していた。
空気は震え、大地は低く軋む。
呼吸をするだけで肺を押し潰されそうになるほど濃密な魔力だった。
(これほどの……)
思わず息を呑む。
今まで数多くの強者を見てきた。
それでも、これほどの威圧を感じたことは一度もない。
本能が告げていた。
——近付くな。
——一歩退け。
その時、少女の静かな声が朝焼けの中へ溶けるように響く。
「お前には生きてもらう。自分が何をしてきたのか。全部吐いて。全部償ってもらう。——それがお前への罰」
男は声にならない悲鳴を漏らした。
俺は一歩も動けなかった。
それでも、その光景から目を離すことだけはできなかった。
崩れ果てた屋敷。
恐怖に支配された男。
今なお辺りを満たす圧倒的な白銀の魔力。
本来なら目を背けたくなるような惨状のはずなのに、不思議と視線は少女から逸らせなかった。
——恐ろしい。
だが、その恐ろしささえ飲み込むほど神々しい。
夜明けの光を背に静かに立つその姿は、まるで神話の一場面を切り取ったかのように美しく、相反する感情が胸の奥で激しく渦を巻く。
そして、その瞬間。
森で感じた一瞬の威圧。
食堂で見た圧倒的な体術。
各地で耳にした”白銀の魔女”の噂。
そのすべてが、一つの答えへと繋がった。
「……そうか」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど静かだった。
「お前が——白銀の魔女だったのか」
読んでいただきありがとうございます!
次回からまたレティシア視点に戻ります。
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