第29話 容赦する理由はない
この男の言葉を聞いているうちに、胸の奥へ押し込めていたものが静かに顔を出していた。
——女だから。
——従うのが当然。
——逆らえば力でねじ伏せる。
その言葉は、前世で浴びせられた理不尽と、今世で「未来の王妃だから」と感情さえ押し込めて生きてきた日々を、容赦なく思い出させた。
「この領地では、美しい娘を見つけた者は領主へ報告する決まりになっております」
伯爵の話は、まだ続いていた。
誇らしげに語るその顔には、何の疑いもない。
「村人たちも皆よく理解しておりますからな。美しい女性は領主へ献上する。それがこの土地の慣習です。そのおかげで、こうして素晴らしい出会いにも恵まれるというものです」
そう言って伯爵は満足げに笑う。
その視線が、ゆっくりと私の髪から肩、そして全身へと這うように滑っていく。
品定めでもするかのようなその眼差しに、背筋へ嫌悪が走った。
「なるほど。噂以上ですな」
私は黙って伯爵を見つめていた。
その言葉を聞きながら、不思議なほど心は冷静だった。
——王妃教育では、領主とは領民を守る者だと教えられた。
権力は私欲のために振るうものではない。
力ある者ほど己を律し、弱き者を守る責務がある。
未来の王妃として、そのことは耳に痛くなるほど教え込まれてきた。
だからこそ、目の前の男の言葉は理解できなかった。
女性を集めることを誇り。
領民を従わせることを当然とし。
逆らう者には力で従わせればいいと笑う。
そんな考え方は、私が学んできた貴族の在り方とは何もかもが違う。
……いいえ。
前世の記憶を取り戻した今なら、なおさら受け入れられなかった。
男だから。
女だから。
そんな理由だけで、人の生き方を決める権利など誰にもない。
人は誰だって、自分の意思で生きる権利がある。
それなのに、この男は人を意思ある存在ではなく、自分の所有物としか見ていない。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに決まった。
——もう、容赦する理由はない。
何かを諭そうという気持ちは、もうどこにも残っていなかった。
私はゆっくりと男へ視線を向けた。
「……もう、言い残すことはない?」
穏やかな声だった。
あまりにも静かなその問いに、男は一瞬きょとんとした顔を見せる。
対して私は微笑みさえ浮かべていた。
「何ですと?」
「あなたのお話よ。もう十分聞いたわ」
男は何かを勘違いしたのか、満足そうに頷く。
「ようやく理解してくださいましたか。そうです、それで良いのです。女というものは——」
「いいえ」
その言葉を静かに遮る。
「理解したの。あなたが領主として失格であることを」
空気が凍りつく。
男の表情から笑みが消えた。
「……何だと?」
「領民を守るどころか私物のように扱い、女性を集めることを誇り、逆らう者を力でねじ伏せる」
私は一歩だけ男へ歩み寄る。
「そんな人が領主を名乗っていること自体、世の中にとって害でしかないわ」
男の額に青筋が浮かぶ。
「小娘が……!」
「そして」
私は男の怒声など気にも留めず、静かに続けた。
「私を十番目の妻に迎える、と言ったわね。……心の底から、ごめんだわ」
「貴様ぁっ!」
男の顔が怒りで真っ赤に染まる。
男が怒鳴ると同時に、私は反射的に魔力を巡らせようとした。
——しかし
「……?」
何も起こらない。
魔力が流れようとした感覚だけが、途中でぴたりと途切れた。
私はゆっくりと自分の手首へ視線を落とす。
細かな魔法陣が刻まれた銀色の腕輪が、淡く光を放っていた。
(……魔力封じ)
なるほど。
だから随分と余裕だったのね。
男は勝ち誇ったように口元を歪める。
「中には魔力がある奴もいますからな。さすがに何の備えもなく、捕らえるほど愚かではありません」
男は愉快そうに笑う。
「それは魔力封じです。魔法など二度と使えませんぞ」
「……そう」
私は腕輪をじっと見つめ、小さく呟く。
そしてゆっくりと、その腕輪へ手を添えた。
男は勝ち誇ったように笑う。
「その腕輪は王都の魔道具職人から手に入れた逸品です。どれほど魔力があろうと、魔法は使えません。これでようやく大人しく——」
そう言って、ゆっくりと私へ近付いてくる。
私は小さく息を吐いた。
「……勘違いしているわね」
「何?」
「私は魔法が使えないと、何もできないと思っているの?」
男の眉が怪訝そうに寄る。
私は腕輪へ視線を落とした。
体内を巡る膨大な魔力は確かに抑え込まれている。
けれど——
(この程度)
魔力を封じているというより、小川を板一枚でせき止めているような感覚だった。
レティシアはゆっくりと右手を持ち上げた。
「無駄ですよ。特別性の——」
男が言い終えるより早かった。
——バキィンッ!!
耳をつんざくような破裂音が部屋へ響く。
白銀の光を帯びた腕輪は、一瞬だけ抵抗するように激しく震え、そのまま粉々に砕け散った。
「なっ……!?」
男の顔から血の気が引く。
同時に、押さえ込まれていた魔力が一気に解き放たれた。
部屋中の空気が震え、床が軋み、壁が悲鳴のような音を立てる。
白銀の魔力は荒れ狂う吹雪のように室内を満たし、男は立っていることすらできず膝をついた。
「ば……馬鹿な……そんな、魔力封じを……」
「壊しただけ。こんなおもちゃで、私を止められると思った?」
伯爵は後ずさりながら震える手で魔法陣を展開した。
「くらえぇっ!!」
放たれた炎の槍は、白銀の魔力へ触れた瞬間、音もなく霧散する。
「……え?そんな……あり得ない……」
「終わり?」
伯爵の顔から血の気が失われた。
私は静かに見下ろした。
「その程度で、私を止められると思ったの?」
一歩、また一歩と近づくたびに魔力の圧が増していく。
男は息をすることさえ苦しそうに喉を押さえた。
「や、やめろ……!」
「やめない」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
怒鳴る必要なんてない。
もう、この人に伝える言葉は残っていなかった。
「女は従うもの?」
「ち、違……」
男は震えながら首を振る。
「領民は、お前の所有物?」
「わ、私は……」
「美しい娘は献上されるもの?」
返事は返ってこない。
……返せるはずもなかった。
私は静かに男を見下ろした。
もう怒りはない。
残っているのは、どうしようもない失望だけだった。
「……最低ね」
その一言が落ちた瞬間だった。
——ゴォォォォォッ!!
魔力が爆発的に膨れ上がる。
轟音が轟き、壁という壁へ無数の亀裂が走り、天井を支える梁が音を立てて砕ける。
「ひぃぃぃっ!!」
男は悲鳴を上げた、次の瞬間。
——ドォォォォンッ!!
凄まじい爆音とともに屋根が内側から吹き飛んだ。
木片と瓦礫が空高く舞い上がり、夜明けの光が一気に室内へ流れ込む。
髪が夜明けの光に照らされて眩く輝く。
瓦礫が崩れ落ちる音だけが辺りに響く。
崩れた瓦礫を踏み越え、一歩、男へ近づく。
視線の先では、男が床へ這いつくばり、恐怖に歪んだ顔でこちらを見上げている。
もう先ほどまでの尊大な態度は欠片もなかった。
「た、助け……」
「助ける?」
掠れた声が耳に届いた。
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「……お前は今まで、誰かを助けた?」
問い返しても、答えはない。
「泣き叫ぶ女性たちを。自由を奪われた領民を。工場へ送られた人たちを。……一人でも助けたの?」
男の唇が小刻みに震えている。
助けを乞いたいのだろう。
けれど、その言葉は喉の奥で詰まり、音にならない。
私は静かに目を閉じた。
胸の奥で渦巻く怒りを押し込めるように、一度だけ深く息を吐く。
……落ち着きなさい。
感情のまま力を振るえば、この人と同じになってしまう。
そう自分へ言い聞かせて、ゆっくりと目を開いた。
——もう迷いはなかった。
「殺してしまうのは簡単。でも、それじゃ足りないわ」
男の顔が恐怖に歪む。
さっきまで私を見下していた目は、今はただ怯えに揺れていた。
肩は震え、後ずさろうとしても瓦礫に阻まれ、逃げ場などどこにもない。
その姿を見ても、不思議と何も感じなかった。
「お前には生きてもらう。自分が何をしてきたのか。全部吐いて。全部償ってもらう。——それがお前への罰」




