第28話 十番目の妻
レティシアに戻ります。
ゆっくりと意識が浮かび上がっていく。
まず感じたのは、瞼の異様な重さだった。
まるで誰かに押さえつけられているかのように開きにくく、頭の奥には霞がかかったような鈍い感覚が残っている。
「……ん……」
小さく声を漏らしながら、ようやく瞼を持ち上げた。
目に飛び込んできたのは、見覚えのない木造りの天井だった。
(……ここは?)
ゆっくりと上体を起こそうとした瞬間、こめかみに鋭い痛みが走り、思わず息を呑む。
「……っ」
反射的に額へ手を当てながら、深く息を吐いた。
身体は鉛のように重く、頭もうまく回らない。
(落ち着いて)
焦っても状況は変わらない。
静かに目を閉じ、記憶を辿る。
村を出て次の街へ向かい、宿を紹介され、三人で夕食を取った。
そこまでははっきり覚えている。
だが、その先だけが綺麗に途切れていた。
(……思い出せない)
部屋へ戻った記憶も、眠った記憶もない。
胸の奥に嫌な違和感が広がる。
周囲を見回すと、簡素な家具が並ぶだけの部屋には、自分の荷物もアンナの姿も見当たらなかった。
「……アンナ?」
呼びかけても返事はない。
扉へ駆け寄り取っ手を回すが、固く鍵が掛けられている。
窓へ目を向ければ、外側には太い鉄格子がはめられていた。
(閉じ込められている……)
その事実を静かに受け止める。
知らない部屋に鍵の掛かった扉、鉄格子の窓。
そして、失われた昨夜の記憶。
最後に覚えているのは夕食だけ。
口にした食事の後から、意識が途切れている。
今も残る重い倦怠感と鈍い頭痛が、一つの答えを導き出した。
「……睡眠薬」
自然とその言葉が口をつく。
食事か飲み物へ混ぜられていたのだろう。
昨日の宿の女将のぎこちなさ。
村人たちのどこか落ち着かない様子。
紹介されたあの宿。
すべてが一本の線で繋がった。
その時、廊下の向こうから、ゆっくりと足音が近付いてくる。
重く、ゆったりとした足取りは迷うことなく部屋の前で止まり、続いて鍵が外される音が静かな室内へ響いた。
——ぎぃ。
軋む音とともに扉がゆっくりと開き姿を現したのは、でっぷり太ったお腹をした五十代半ばほどの中年の男だった。
上質な衣服を身にまとい、その立ち居振る舞いには長年貴族として生きてきた者らしい余裕が滲んでいる。
男は私の姿を認めた瞬間、その目を大きく見開いた。
「……レティシア様?まさか、エトワール公爵家のご令嬢とは……」
信じられないものを見るような声音だった。
(……トロン伯爵)
何度か王城で顔を合わせたことがある。
遠方の領地を治める伯爵で、王都へ姿を見せる機会は多くなかったけれど、その名は覚えていた。
王城で見かけた時は、物腰の柔らかな人物という印象だった。
……けれど今、目の前にいる男から感じるのは、その面影とはまるで違う。
しばらく呆然と私を見つめていた男だったが、やがて小さく息を吐く。
「療養に入られたとは耳にしておりましたが、このような場所でお会いできるとは思ってもおりませんでした」
——療養。
そういうことになっているのね。
少しだけ納得する。
行方知れずになった私を、公爵家はそう説明したのだろう。
伯爵は私をじっと見つめたまま、何かを考え込むように顎へ手を添えた。
その視線がゆっくりと私を値踏みするようなものへ変わっていく。
胸の奥に、小さな嫌悪感が広がった。
「……これは幸運でした。王太子殿下に見放されたと伺った時は、お気の毒に思っておりました」
伯爵の口元がゆっくりと歪む。
その言葉に、私は眉一つ動かさない。
伯爵はそれをどう受け取ったのか、満足そうに頷いた。
穏やかな笑みを浮かべたまま、一歩こちらへ歩み寄る。
「ですが、ご安心ください。私なら、そのような過去は気にいたしません」
……何を言っているのかしら。
違和感を覚えた、その次の瞬間。
「どうか、私の十番目の妻になっていただきたい」
「…………」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
十番目。
つまり、この人にはすでに九人の妻がいるということ?
伯爵は私の沈黙を了承と勘違いしたのか、機嫌良さそうに話を続ける。
「もちろん、貴女ほどのお立場です。表立って正妻として迎えることは難しいでしょう。王都ではあまりにも有名なお方ですからな。姿を見せれば、余計な詮索を招いてしまいます」
まるで当然のことのように言う。
それから、だから、と伯爵は笑みを深めた。
「屋敷で静かに暮らしていただければ結構です。不自由はさせません」
その言葉で、すべて理解した。
この男が欲しいのは私ではない。
エトワール公爵家の血筋。
王族にも匹敵すると言われる魔力。
ただ、それだけ。
「……お断りします」
「何と?」
静かに返した私の言葉に、低く押し殺した声が室内に落ち、伯爵の笑みがぴたりと止まった。
「十番目だろうと、一番目だろうと、お断りします」
はっきりと言い切ると、伯爵はしばらくの間、まるで値踏みするように私を見つめていた。
その沈黙は妙に長く、室内の空気だけがじわりと重くなっていく。
やがて小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「……そうですか。やはり王都育ちの令嬢は気位がお高い」
その瞬間、先ほどまで浮かべていた穏やかな笑みは跡形もなく消え去っていた。
呆れたように肩をすくめ、首を横に振る。
その仕草には、相手を理解しようとする気配は一切ない。
私は何も言わずに伯爵を見返す。
伯爵はその視線を意に介した様子もなく、淡々と続けた。
「ですが、それも最初だけです。女というものは、守られて生きる存在です。男に従い、家庭を守り、子を産む。それが女の役目でしょう」
まるで当然の結論を述べるかのような口調に、思わず眉が動くが、はくしはそれすらも見ていない。
その声には揺らぎがない。
まるで、それが世界の理であると信じて疑わないようだった。
胸の奥に、小さな違和感が積もっていく。
「最初は皆そうして反発します。しかし、教育すればきちんと理解するものです」
——教育。
その言葉が耳に残り、不快な重さを伴って沈んでいく。
伯爵はまるで良いことを語っているかのように、穏やかな声を続けた。
「屋敷へ来た女たちも最初は騒ぎましたが、今では皆おとなしくしておりますよ。それに、この領地では美しい娘を見つけた者は領主へ報告する決まりになっております」
そう言って、どこか誇らしげに胸を張る。
「村人も皆よく理解しておりますからな。美しい女性は領主へ献上する。それがこの土地の慣習です。おかげで、こうして素晴らしい出会いにも恵まれるというものです」
『おとなしくしている』、『理解』——
それは本当に「納得」なのか。
考えかけたところで、伯爵はふっと笑った。
「男というものは多少強引でなければ務まりませんからな。逆らう者には、身の程を教えてやる必要があります」
当然の理屈のように言い切った。
その笑みは、先ほどまでの穏やかさとはまるで別物だった。
人を導く者の顔ではない。
支配することを疑わない者の顔だ。
「もちろん男も例外ではありません」
伯爵は視線を窓の外へと向ける。
そこには領地の一部が広がっているのだろう。
「領主に歯向かった者は、見せしめとして工場へ送ります」
「……工場?」
「ええ。強制労働です。二度と逆らおうなどと思わなくなりますから」
まるで天候の話でもするかのような軽さだった。 その言葉で、ようやく確信した。
この男にとって、人は対等な存在ではない。
従うか、壊されるか。
そのどちらかしかないのだ。
私は静かに息を吐いた。
(……話し合いは無理ね)
理屈でも、感情でも、この男には届かない。
そもそも「対話する相手」として見ていないのだ。
そんな私の沈黙をどう受け取ったのか、伯爵はゆっくりと口角を持ち上げた。
その笑みは、先ほどよりも遥かに粘ついたものだった。
「もっとも、レティシア様にはそのようなことはいたしません。あなたほど価値のある女性を傷つけるのは、実にもったいない」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走る。
守ると言いながら、そこに優しさはない。
ただ「壊さずに所有する」という欲だけが、はっきりと見えていた。
その粘つくような視線を受けながら、私は静かに息を吐く。
(……もう十分ね)
この人とは、これ以上話す必要はない。
理屈も言葉も、この人には届かない。
——ならば。
次に取るべき行動は、一つだけだった。




