第22話 拍子抜け
レティシア視点に戻ります。
橋を渡ると、それまで賑わっていた人の流れは、それぞれの目的地へ向かってゆっくりと散っていった。
荷馬車を連ねた商人たちは、西方の砦へ続く街道を進み、旅人たちもその後を追うように歩いていく。
そんな人々の背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
「さて……私たちはどうしましょうか」
「このまま街道を進めば、西方の砦へ向かえますが……」
隣でアンナが地図を広げ、視線を落としたものの、私はゆっくりと首を横へ振った。
「せっかくですもの。もう少し国内を見て回りたいわ」
王都の景色しか知らないままでは、この国を知ったとは言えない気がした。
街道から少し外れた場所にも、小さな村や集落が点在していると聞いている。
そこで暮らす人々がどんな生活を送り、どんなことで困り、何を喜んでいるのか——それを自分の目で見てみたかった。
「急ぐ旅でもありませんし、寄り道をしてみましょう」
「はい」
そう告げると、アンナも穏やかに微笑み、小さく頷く。
私たちは街道を離れ、森へ続く細い脇道へ足を向けた。
木々の隙間から差し込む陽光が柔らかな木漏れ日となって地面を照らし、小鳥たちの澄んださえずりが静かな森へ響いている。
風が枝葉を揺らすたび、さらさらと葉擦れの音が耳に心地よかった。
「気持ちのいい場所ね」
「ええ。本当に」
思わず呟くと、アンナも空を見上げながら頷く。
都会の喧騒とは違う、ゆったりとした時間が流れていた。
その穏やかな空気を楽しんでいた時だった。
近くの草むらが、かさり、と小さく揺れる。
「……?」
視線を向けると、葉の隙間から白い小さな生き物がぴょこんと姿を現した。
丸い耳に、雪のように真っ白な毛並み。
つぶらな黒い瞳が、こちらをじっと見つめている。
その愛らしい姿に、思わず頬が緩んだ。
「まあ……かわいい」
思わず一歩近づくと、その小さな生き物は逃げる様子もなく、その場でこちらを見つめ続けている。
「うさぎかしら?」
「森におりますし、野うさぎでしょうか。人をあまり怖がらないのですね」
「そうね……」
アンナも少し首を傾げながら答えた。
私は自然としゃがみ込み、驚かせないようにゆっくりと手を伸ばす。
「大丈夫よ」
優しく声を掛けたその瞬間、それまで愛らしく揺れていた小さな耳が、ぴくりと動く。
次の瞬間——丸く可愛らしかった口が、不自然なほど大きく裂けた。
鋭い牙が幾重にも覗き、つぶらだった黒い瞳は赤く濁っている。
「……あら?」
思わず小さく声を漏らした、その時だった。
胸の奥で、何かがふっと揺れた気がした。
すると目の前の生き物は、飛びかかってくるどころか、びくりと身体を震わせる。
「キュ……ッ!?」
耳を伏せ、全身の毛を逆立てると、怯え切ったように後ずさりした。
「……?」
首を傾げた次の瞬間、生き物は勢いよく身を翻し、一目散に森の奥へ逃げ出してしまう。
さらに、それを合図にしたかのように周囲の茂みが一斉に揺れ始めた。
がさり。
がさがさっ。
鳥たちが一斉に飛び立ち、小動物たちも何かから逃げるように森の奥へ消えていく。
ほんの数瞬前まで穏やかだった森は、あっという間に静まり返ってしまった。
私は取り残されたように辺りを見回し、小さく呟く。
「……驚かせてしまったのかしら」
「急に近づかれたので、びっくりしたのかもしれませんね」
少し寂しくなってそう言うと、アンナも困ったように微笑みながら頷いた。
そんな私たちの前へ、一人の青年が勢いよく駆け込んできた。
黒い外套を翻し、今にも剣を抜こうとしていたその足が、目の前の光景を見た途端、ぴたりと止まる。
勢い余って半歩踏み出したまま固まり、剣へ掛けた手もそのまま動かない。
森の奥へ逃げていく小さな魔物と、私とを何度も見比べている。
「……?」
(……どうしたのかしら)
私は首を傾げた。
青年は何か言おうとしているらしいが、言葉にならないのか、深く被った外套の奥で口元だけがぱくぱくと動いていた。
(……変な人。……ん?変な人?)
ふと既視感を覚える。
一か月ほど前、宿の食堂で話しかけてきた旅人と、少し雰囲気が似ている気がした。
でも、外套を深く被っていて顔はほとんど見えない。
(……気のせいかしら)
旅人なんて、どこにでもいるものね。
そう結論づけると、私はそれ以上考えるのをやめた。
「……嫌われてしまったのかしら」
少し寂しく呟くと、アンナも困ったように微笑む。
「次は、もう少し離れたところからご挨拶なさると良いかもしれません」
「そうね……。残念だわ、もう少し近くで見てみたかったのだけれど」
青年の肩がぴくりと震える。
外套の奥で何か言いたそうに口が動いたものの、結局何も言わなかった。
(……おかしな人ね)
青年はしばらく何も言わなかった。
ただ、私の顔を見つめたまま固まっている。
「あの……?」
何かあったのだろうか。
恐る恐る声を掛けると、青年はようやく我に返ったように肩を震わせた。
そして——
「……っ、は、ははっ……!」
「……?」
小さく息を漏らしたかと思うと、堪えきれなくなったように笑い出した。
突然笑われる理由が分からず、思わずアンナと顔を見合わせる。
アンナも困ったように首を傾げていた。
「……何か、おかしかったでしょうか」
尋ねると、青年は笑いを堪えながら何度か首を振る。
「いや……悪い。こんなに拍子抜けしたのは初めてだ」
「……拍子抜け?」
そう言いながらも口元はまだ緩んだままだった。
意味が分からず首を傾げると、青年はまた肩を震わせた。
青年は何度か笑いを堪えようとしたものの、諦めたように小さく息を吐いた。
「……悪い。笑うつもりじゃなかった」
そう言うと、彼はゆっくりと外套のフードへ手を掛ける。
さっと布が外れ、陽光を受けて現れたのは濃紺の長い髪だった。
腰近くまで流れるその髪が風に揺れ、木漏れ日の中で深い青に艶めく。
少し日に焼けた肌に、鋭さを宿しながらもどこか余裕を感じさせる、鮮やかなエメラルドグリーンの瞳。
旅人とは思えない堂々とした体格に、整った顔立ちをしており、その場の空気まで変えてしまうような、不思議な存在感を纏っていた。
私は思わず瞬きをする。
(……旅人、という雰囲気ではないわね)
そんな私を見つめたまま、青年は苦笑を浮かべる。
「一つ、聞いてもいいか」
「……はい?」
青年は一度だけ森の奥へ目を向け、逃げていった魔物の方へ視線を流した。
そして、どこか信じられないものを見るような顔で私へ問い掛ける。
「君は……今、何が起きたと思っている?」
「え?」
突然の質問に首を傾げてしまう。
「ええと……うさぎっぽいものに、嫌われてしまったのだと」
「…………」
青年は数度瞬きをした。
それから額へ手を当て、大きく息を吐く。
「……違う」
「違うのですか?」
「違う。そこは断言する」
もう一度きっぱりと言い切った。
それでも口元だけは押さえ切れないように僅かに緩み、肩が小さく震えていた。
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