第18話 当たり前ではなかったこと
朝、宿の外がいつもより騒がしいことに気づき、窓を開けると人だかりができていた。
「おい、本当に消えてるぞ!」
「昨日まであったでかい岩が……!」
私はアンナと目を合わせ、小さく苦笑する。
「……行きましょうか」
「はい」
二人で何事もない顔をして橋へ向かう。
橋の前では、旅人も商人も兵士も入り混じり、橋脚を指差しながら口々に驚きの声を上げていた。
「誰が運んだんだ……」
「人の力じゃ無理だぞ」
「まるで最初からなかったみたいじゃないか」
私は何食わぬ顔でその様子を眺める。
誰にも気づかれていないことに、小さく胸を撫で下ろした。
職人たちは「これで橋脚を調べられる」と言いながら、慌ただしく崩れた橋へ向かっていった。
橋を直せるのは、あの人たちだ。
私は岩を退かしただけ。
それ以上は私の役目ではない。
「行きましょうか。……お腹が空いたわ」
アンナは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑う。
「昨夜、あれだけ魔力を使われましたから」
「ああ……そうだったわね」
「まずは朝食にいたしましょう」
「ええ。腹が減っては何とやら、だもの」
「ふふっなんですかそれは」
前世ではよく口にしていた言葉だけれど、この世界でも案外間違ってはいないらしい。
私はアンナとともに、その場を後にした。
◇
橋の修復には数日かかるらしい。
その間、この町には行き場を失った商人や旅人が留まることになった。
宿はどこも満室で市場には荷車が並び、普段よりずっと多くの商人が声を張り上げていた。
行き交う人の肩が何度も触れ合うほどの賑わいだ。
「随分賑やかですね」
「橋が通れないもの。皆さん足止めされているのね」
「人が多いからこそ紛れられますが、油断は禁物です。フードは外されませんよう」
「そうね。わかったわ」
アンナが周囲を見回す。
私は露店を眺めながら、ゆっくり歩いていたその時だった。
「ほら、ここに名前を書けばいい」
聞き慣れない強い口調に思わず足を止める。
見ると、一人の行商人が年配の男性へ紙を差し出していた。
「これで麦は全部買い取ってやる」
「そうかい。なら助かるよ」
老人は紙を受け取ったものの、中身を確かめる様子もなく頷いた。
(……確認しないのかしら)
王妃教育では契約書を読む訓練まであった。
内容を確かめず署名するなど考えられない。
違和感が胸をよぎる。
「少し、いいかしら」
私は一歩近づき、紙へ視線を落とした。
そこに書かれていた文章を読み、眉がぴくりと動く。
これは売買契約ではない。
借金の返済が滞った場合、土地を譲渡するという内容だった。
「これは……」
私の声に商人がぎくりと肩を震わせる。
「な、何ですかな、お嬢さん」
「この契約は、麦を買い取る契約ではありません」
「え?」
「土地を譲る契約になっています」
老人が目を丸くし、周囲が一斉にざわめいた。
「土地だって?」
「そんな話じゃなかったぞ」
商人は慌てて紙を取り返そうとしてくる。
私はそれを避けるように一歩身を引き、もう一度文章へ目を落とした。
「勘違いです!」
「いいえ。ここに、そう書かれているわ」
私は静かに首を振った。
商人は顔色を変えると、人混みを押し分けるように走り去ってしまった。
老人は呆然と立ち尽くしている。
「危なかった……」
周囲の人々も安堵したように息をついた。
「助かったよ、お嬢さん」
「文字が読める人がいてよかった」
「皆さん……読めないのですか?」
私は思わず首を傾げる。
周囲の人々は顔を見合わせた。
「自分の名前くらいなら書けるさ。でも、こんな難しい字は読めん」
「契約書なんて役人か商人くらいしか読めないよ。この辺りじゃ教えてくれる人もいないからな」
「子どもも畑や家の手伝いがある。勉強してる余裕なんてないさ」
私は返す言葉を失った。
そんな世界があることを、私は知らなかった。
王都では読み書きは当たり前だった。
幼い頃から教えられ、王妃教育でも当然のように求められていた。
……それだけじゃない。
前世でも、文字は幼い頃から覚えるものだった。
絵本を読み、文字を書く練習をして、誰もが自然に身につけていく。
だから私は、自分の名前しか書けないまま大人になる人がいることを、一度も考えたことがなかった。
◇
宿へ戻る途中も、その言葉が頭から離れなかった。
「地方では学校もありませんから。教えられる人がいない以上、文字を知らないまま大人になる方も多いそうです」
「……そうだったのね」
アンナが静かに言う。
私は小さく呟く。
文字を知らない。
ただ、それだけで騙されてしまう。
知らなかったでは済まされない。
でも、知らないこと自体は、その人たちの責任ではない。
教わる機会すらなかったのなら、それを責めることなどできない。
もし私がこの土地で生まれていたら、同じように文字を知らないままだったのかもしれない。
夜、机に向かった私はぼんやりと指先で机をなぞった。
「……そういえば」
最初に文字を覚える時、文字を順番に並べた見本のようなものがあった。
名前までは思い出せないけれど、あれなら子どもたちにも教えやすいのではないだろうか。
「お嬢様?」
不思議そうなアンナへ向き直る。
「紙は貴重でしょう?」
「はい」
「だから……木の板でも借りられないかしら」
「板、ですか?」
「ええ。まずは文字を書いた見本を一枚作っておけば、それを見ながら地面にも書けるでしょう?」
アンナは少し驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと優しく笑った。
「きっと、皆さん喜ばれます」
私は照れくさく首を振る。
「まだ教えるって決めたわけじゃないわ。ただ……少し、気になっただけ」
けれど、その言葉とは裏腹に、私の頭の中では、どんな順番で文字を並べれば覚えやすいだろうかと、もう考え始めていた。
本当に教えられるかなんて分からない。
役に立たないかもしれない。
それでも、何もしないまま忘れてしまうには、あの老人の顔が頭から離れなかった。




