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もうどうでもよくなったので、私に関わろうとするのはご遠慮ください  作者: はな


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第18話 当たり前ではなかったこと



 朝、宿の外がいつもより騒がしいことに気づき、窓を開けると人だかりができていた。


「おい、本当に消えてるぞ!」

「昨日まであったでかい岩が……!」


 私はアンナと目を合わせ、小さく苦笑する。


「……行きましょうか」

「はい」


 二人で何事もない顔をして橋へ向かう。

 橋の前では、旅人も商人も兵士も入り混じり、橋脚を指差しながら口々に驚きの声を上げていた。


「誰が運んだんだ……」

「人の力じゃ無理だぞ」

「まるで最初からなかったみたいじゃないか」


 私は何食わぬ顔でその様子を眺める。


 誰にも気づかれていないことに、小さく胸を撫で下ろした。


 職人たちは「これで橋脚を調べられる」と言いながら、慌ただしく崩れた橋へ向かっていった。


 橋を直せるのは、あの人たちだ。

 私は岩を退かしただけ。

 それ以上は私の役目ではない。


「行きましょうか。……お腹が空いたわ」


 アンナは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑う。


「昨夜、あれだけ魔力を使われましたから」

「ああ……そうだったわね」

「まずは朝食にいたしましょう」

「ええ。腹が減っては何とやら、だもの」

「ふふっなんですかそれは」


 前世ではよく口にしていた言葉だけれど、この世界でも案外間違ってはいないらしい。


 私はアンナとともに、その場を後にした。



 橋の修復には数日かかるらしい。


 その間、この町には行き場を失った商人や旅人が留まることになった。


 宿はどこも満室で市場には荷車が並び、普段よりずっと多くの商人が声を張り上げていた。

 行き交う人の肩が何度も触れ合うほどの賑わいだ。


「随分賑やかですね」

「橋が通れないもの。皆さん足止めされているのね」

「人が多いからこそ紛れられますが、油断は禁物です。フードは外されませんよう」

「そうね。わかったわ」


 アンナが周囲を見回す。

 私は露店を眺めながら、ゆっくり歩いていたその時だった。


「ほら、ここに名前を書けばいい」


 聞き慣れない強い口調に思わず足を止める。

 見ると、一人の行商人が年配の男性へ紙を差し出していた。


「これで麦は全部買い取ってやる」

「そうかい。なら助かるよ」


 老人は紙を受け取ったものの、中身を確かめる様子もなく頷いた。


(……確認しないのかしら)


 王妃教育では契約書を読む訓練まであった。

 内容を確かめず署名するなど考えられない。


 違和感が胸をよぎる。


「少し、いいかしら」


 私は一歩近づき、紙へ視線を落とした。

 そこに書かれていた文章を読み、眉がぴくりと動く。


 これは売買契約ではない。


 借金の返済が滞った場合、土地を譲渡するという内容だった。


「これは……」


 私の声に商人がぎくりと肩を震わせる。


「な、何ですかな、お嬢さん」

「この契約は、麦を買い取る契約ではありません」

「え?」

「土地を譲る契約になっています」


 老人が目を丸くし、周囲が一斉にざわめいた。


「土地だって?」

「そんな話じゃなかったぞ」


 商人は慌てて紙を取り返そうとしてくる。

 私はそれを避けるように一歩身を引き、もう一度文章へ目を落とした。


「勘違いです!」

「いいえ。ここに、そう書かれているわ」


 私は静かに首を振った。

 商人は顔色を変えると、人混みを押し分けるように走り去ってしまった。


 老人は呆然と立ち尽くしている。


「危なかった……」


 周囲の人々も安堵したように息をついた。


「助かったよ、お嬢さん」

「文字が読める人がいてよかった」

「皆さん……読めないのですか?」


 私は思わず首を傾げる。

 周囲の人々は顔を見合わせた。


「自分の名前くらいなら書けるさ。でも、こんな難しい字は読めん」

「契約書なんて役人か商人くらいしか読めないよ。この辺りじゃ教えてくれる人もいないからな」

「子どもも畑や家の手伝いがある。勉強してる余裕なんてないさ」


 私は返す言葉を失った。

 そんな世界があることを、私は知らなかった。


 王都では読み書きは当たり前だった。

 幼い頃から教えられ、王妃教育でも当然のように求められていた。


 ……それだけじゃない。


 前世でも、文字は幼い頃から覚えるものだった。


 絵本を読み、文字を書く練習をして、誰もが自然に身につけていく。


 だから私は、自分の名前しか書けないまま大人になる人がいることを、一度も考えたことがなかった。



 宿へ戻る途中も、その言葉が頭から離れなかった。


「地方では学校もありませんから。教えられる人がいない以上、文字を知らないまま大人になる方も多いそうです」

「……そうだったのね」


 アンナが静かに言う。

 私は小さく呟く。


 文字を知らない。

 ただ、それだけで騙されてしまう。


 知らなかったでは済まされない。

 でも、知らないこと自体は、その人たちの責任ではない。


 教わる機会すらなかったのなら、それを責めることなどできない。


 もし私がこの土地で生まれていたら、同じように文字を知らないままだったのかもしれない。




 夜、机に向かった私はぼんやりと指先で机をなぞった。


「……そういえば」


 最初に文字を覚える時、文字を順番に並べた見本のようなものがあった。


 名前までは思い出せないけれど、あれなら子どもたちにも教えやすいのではないだろうか。


「お嬢様?」


 不思議そうなアンナへ向き直る。


「紙は貴重でしょう?」

「はい」

「だから……木の板でも借りられないかしら」

「板、ですか?」

「ええ。まずは文字を書いた見本を一枚作っておけば、それを見ながら地面にも書けるでしょう?」


 アンナは少し驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと優しく笑った。


「きっと、皆さん喜ばれます」


 私は照れくさく首を振る。


「まだ教えるって決めたわけじゃないわ。ただ……少し、気になっただけ」


 けれど、その言葉とは裏腹に、私の頭の中では、どんな順番で文字を並べれば覚えやすいだろうかと、もう考え始めていた。


 本当に教えられるかなんて分からない。

 役に立たないかもしれない。


 それでも、何もしないまま忘れてしまうには、あの老人の顔が頭から離れなかった。







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