第17話 できることだけ
森を抜けると、視界が一気に開けた。
長く続いていた木々のざわめきは遠ざかり、代わりに柔らかな風が頬を撫でていく。
振り返れば、先ほどまで歩いていた深い森が、まるで何事もなかったかのように静かにそこにあった。
目に見える景色は変わらない。
それでも、森を覆っていた重苦しい気配は跡形もなく消え去っていた。
私は小さく息をつく。
「これで、ひとまずは大丈夫かしら」
「はい。森もすっかり元の様子ですね」
あとは国家魔術師団が確認してくれればいい。
私は足を止めると、小さな紙を取り出した。
王妃教育で一度だけ教わった、緊急時の伝達用魔法だ。
短い文を書いた紙に魔力を込めると、指定した相手へ届けられる簡易的な通信魔法だ。
私は少し考え込み、それからペンを走らせる。
『国境付近の結界石に異常があります。至急ご確認ください』
差出人の名前は書かない。
確認してもらえれば、それで十分だ。
紙を丁寧に折り畳み、魔力を流し込む。
淡い光に包まれた手紙はふわりと宙へ浮かび、そのまま王都の方角へ飛び去っていった。
「これで大丈夫でしょうか」
アンナが静かに尋ねる。
「ええ。応急処置はしたつもりだけれど、本当に元へ戻ったかは分からないもの。あとは専門家に任せるのが一番だわ。……行きましょう」
私にできることは、もう終わったはずだ。
私たちは再び歩き始めた。
目的地は、国境沿いにある次の町だった。
山道を進み昼を少し過ぎた頃、遠くから人々のざわめきが聞こえてきた。
「……何かあったのでしょうか」
アンナが首を傾げる。
私たちが足を速めると、街道には荷馬車が何台も立ち往生し、多くの人々が困ったように集まっていた。
「これは……」
思わず足を止める。
街道に架かる石橋が、大きく崩れ落ちていた。
中央部分が完全に抜け落ち、向こう岸へ渡ることができない。
荷馬車を引いてきた商人たちは頭を抱え、兵士たちも険しい表情で橋を見つめている。
「橋が落ちたんだ」
近くにいた老人が肩を落とした。
「朝方、大きな音がしたと思ったらこの有様でね」
「迂回路はありませんの?」
私が尋ねると、老人は力なく首を振る。
「あるにはあるが、山を大きく回らなきゃならん。荷馬車じゃ数日は余計にかかる」
補給を担当しているらしい兵士も苦い顔で呟いた。
「砦への物資も止まってしまう……」
私は崩れた橋を見つめた。
その様子は、どこか不自然だった。
ただ崩れたというより、支えを失って落ちたようにも見える。
「原因は分かっているのですか?」
「いや……まだ調べている最中だ」
近くにいた男へ尋ねると、困ったように首を振った、その時だった。
「失礼します」
後ろから声が聞こえる。
振り返ると、作業着姿の中年の男性が一礼した。
「私はこの橋を管理している職人です」
日に焼けた大きな手には、長年仕事をしてきた跡が刻まれていた。
男は崩れた橋脚へ近づくと、しゃがみ込み、石を丹念に調べ始める。
やがて、その表情が険しくなった。
「……やはり」
「何か分かったのですか?」
私も近づいて様子を見ると、橋脚の継ぎ目だけが、不自然に削られていた。
「これは自然に崩れた橋ではありません。橋脚の継ぎ目だけを狙って削られています」
職人の低い言葉に、私は息を呑んだ。
「……人為的ということ?」
「ええ。ここは橋の荷重を支える大事な部分なんです。ここを弱らせれば、大きな荷馬車が通っただけでも崩れてしまう」
その言葉に、森で見た光景が脳裏をよぎる。
結界石と切り倒された木々、そしてこの橋。
(また……)
偶然ではない。
——誰かが意図して、少しずつ国を傷つけている?
そんな考えが頭をよぎる。
職人は崩れた橋を見つめながら苦笑しつつも言葉を続けた。
「ですが……。原因が分かっても、すぐには直せません」
「どうしてですか?」
「まず、この崩れた石材をどかさなければ橋脚まで近づけないのです」
見れば、大人が何十人いても動かせそうにない巨大な石が、橋の周囲を塞いでいた。
少し離れた場所では、砦のだろう兵士たちが数十人がかりで縄を掛け、声を張り上げながら岩を引こうとしている。
「せーの!」
「もう一度だ!」
太い縄が軋み、兵士たちの額から汗が流れる。
しかし、巨大な岩はぴくりとも動かなかった。
「駄目だ……」
「これでは日が暮れてしまう」
誰かが悔しそうに拳を握る。
職人はその様子を見つめながら、小さく首を振った。
「この大岩さえなくなれば、我々だけでも修復を始められるのですが……」
私は視線をその岩へ向けた。
橋を造ることはできない。
でも——
「職人さん」
「はい?」
「その岩がなくなれば、修復は進められるのですね?」
職人は少し驚いたように頷く。
「ええ。橋を造るのは我々の仕事です。しかし、この大岩だけは人力ではどうにもなりません」
「そう……」
私は小さく頷いた。
橋の造り方は知らない。
前世でも橋を渡ることはあっても、どう造るのか考えたことはなかった。
だから、そこに手を出すべきではない。
でも——邪魔なものを退かすくらいなら、私にもできる。
宿へ戻る道すがら、アンナが小さく笑った。
「レティさん」
「何?」
「今夜、お出かけになるのでしょう?」
私は少し照れくさそうに笑う。
「橋を直すことはできないもの。でも、橋を直す人のお手伝いくらいなら、できるでしょう?」
「はい」
アンナはくすりと笑い、小さく頷いた。
「それに、次の目的地は橋を渡った先にあるでしょう?だから私が通るためにも、早く直してもらわなきゃ」
「ふふっそうですね」
私のことはなんでもお見通しのアンナは、私の言い訳にも気づいているのだろう。
少しくすぐったく思いつつ、空を見上げた。
空には静かに星が瞬き始めていた。
◇
夜更け。
町の明かりが一つ、また一つと消え、人々が眠りについた頃、私はそっと宿の窓を開けた。
「行きましょうか」
「はい」
アンナと二人、人目を避けながら静かな街道を歩く。
昼間は多くの人で賑わっていた橋も、今は月明かりだけが照らしていた。
兵士たちの姿もない。
明日の作業に備えて休んでいるのだろう。
人気がないことを確認して、私は崩れた橋の前で足を止める。
橋そのものには触れない。
修復は職人たちの仕事だ。
私がやるのは、その邪魔になっているものを退かすだけ。
「これくらいなら……」
私は巨大な岩へ静かに手をかざした。
指先から溢れた白銀の魔力が淡く揺らめきながら岩を包み込む。
慎重に魔力を巡らせると、大地を震わせることもなく、巨大な岩は音もなくその場を離れ、月明かりの下をゆっくりと浮かび上がっていった。
「相変わらず、とんでもないですね……」
「そんなことないわ」
アンナが苦笑したが、私は首を振った。
「置く場所だけ、考えないと」
もし近くへ下ろせば、また通行の邪魔になる。
谷へ落とせば川を塞ぐかもしれない。
橋から離れた場所で、誰の迷惑にもならない場所——そう思い浮かべながら魔力を巡らせる。
私は昼間に見た地図を思い返した。
(この方向なら……何もなかったはず)
人気も建物もない、ただの荒れ地だったと記憶している。
「少し遠くへ」
小さく呟き魔力を流すと、岩はふわりと浮かんだまま夜空をゆっくりと滑っていく。
「行ってらっしゃい」
最後に軽く指先を動かすと、岩は闇の向こうへ吸い込まれるように飛んでいった。
遠くで、小さく——
ズゥン……。
地面を揺らすような鈍い音が響く。
「……これくらい離れていれば、大丈夫かしら」
「ええ。あちらには何もなかったはずです」
アンナもその方向を見つめたが、それ以上気にする様子はない。
「これで職人さんたちも作業しやすくなるはず」
橋を見れば、橋脚の周囲はすっかり片付いていた。
そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「帰りましょうか」
二人は誰にも気づかれることなく、その場を後にした。
月だけが、静かに二人の背中を照らしていた。




