第16話 少し強めに流してしまった
深い森の奥へと進むにつれ、周囲の空気は次第に重く、冷たくなっていった。
ホーンウルフたちが怯えて逃げ去った方角とは逆へ向かう。
何本もの木が不自然に折れ、森の中には誰かが意図的に残したような乱れた痕跡が続いていた。
「レティさん……こちらを見てください」
隣を歩いていたアンナが、足元を確かめるようにしながら声を上げた。
指差した先には、土が不自然に荒れた跡が続いていた。
足を止め、私は静かに周囲へ視線を巡らせた。
そこには、まるで誰かが意図して作り上げたかのような、不自然な空間が広がっていた。
鬱蒼と茂る森の中で、そこだけ木々が避けるように開けており、ひどく落ち着かない。
そして、その中心に、それはあった。
「……石碑?」
大人の背丈ほどもある巨大な石柱だった。
けれど、それは長い年月を経た遺跡というより、何者かによって無残に壊されたものに見えた。
真っ二つに割れた石碑の周囲には、乱暴に掘り返されたような跡まで残っている。
私はゆっくりと近づき、割れた表面へそっと手を伸ばした。
その瞬間、指先に冷たく、粘つくような魔力が触れた。
「……っ」
思わず眉をひそめる。
これは、自然に残った魔力ではない。
まるで誰かが意図的に、不快なものを染み込ませたかのような、ねっとりとした悪意を感じさせる魔力だった。
「レティさん?」
心配そうにこちらを見つめるアンナに、私は石碑へ視線を落としたまま答えた。
「……この石碑、見覚えがあるわ」
記憶を手繰る。
王妃教育の中で目を通した、古い資料の一節が脳裏に浮かんだ。
「国境付近に設置されている、魔物避けの結界石よ」
「結界石……」
「ええ。本来なら、この土地を守るためのもの」
私は壊れた石碑を見つめたまま、静かに言葉を続けた。
「でも……これは、ただ壊されただけじゃないわ。誰かが結界を壊したうえで、魔力そのものを汚している」
指先に残る嫌な感触が、まだ消えない。
そのせいで魔物が刺激され、森から人里へ降りてきたのだろう。
村で聞いた話とも、ぴたりと一致していた。
「直すことは……できるのでしょうか?」
「正しい修復方法は知らないわ」
アンナの問いに、私は小さく首を振った。
国家魔術師団が扱うような専門分野だ。
王妃教育で得た知識だけでは、到底足りない。
私はもう一度、石碑へと視線を戻す。
専門家ではない私に分かることなど限られている。
それでも、目の前の異変を見過ごすことはできなかった。
(……これは)
私は眉を寄せる。
魔力の流れが完全に途切れているわけではない。
むしろ、本来流れるはずの場所に、異物が入り込んでいるような感覚だった。
「……変ね」
「何がですか?」
アンナが心配そうに覗き込む。
「壊れていると思ったけれど……違うかもしれないわ」
「違う?」
「ええ。たぶんこれは……」
私は割れた石碑を見つめる。
前世でも、何度か似たような状況に陥ったことがある。
動かなくなったシステム。
山積みになった仕事。
原因を確認する暇も与えられず、ただ浴びせられた言葉。
『いいから、とにかく復旧して』
その言葉を思い出すだけで、胸の奥が少しだけ重くなる。
何が原因なのか。
どうしてこうなったのか。
そんなことを考える時間すら与えられない。
ただ一刻も早く元に戻せと、そう言われて残業して、休日も潰した。
でも原因を作った人は何も変わらない。
(……嫌なことを思い出したわね)
私は小さく息を吐いた。
「……詰まっているだけ、なのかもしれない」
「詰まっている?」
「ええ。水の通り道に泥が詰まったみたいに」
怯えながら暮らしていた村の人々の顔が、次々と脳裏に浮かぶ。
もう来ないのかと不安そうに尋ねてきた、小さな少年の声も思い出される。
「少なくとも、この嫌な魔力だけでも消せれば……」
私はそっと両手を石碑へ添えた。
直し方は分からない。
ならば、今できることをするしかない。
汚れてしまったものを、元の状態へ戻すように。
そんな気持ちで、ゆっくりと自分の魔力を流し込んだ。
かつては、理不尽に押しつけられた「復旧」だった。
でも、今は違う。
これは誰かの都合のためじゃない。
この先にいる人たちが、安心して暮らせるようにするためだ。
「……大丈夫。詰まっているものを、少し流すだけよ」
自分に言い聞かせるように呟き、石碑へ手を添える。
そうして、ゆっくりと魔力を送り込んだ。
——本来なら少しずつ、慎重に。
けれど、その時——
『早くしろ』
『まだ終わらないのか』
『結果だけ出せ』
前世で何度も浴びせられた言葉が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
その瞬間、少し強めに魔力を流してしまった。
「……あ」
しまった、と思った時には遅かった。
少しだけ……の、つもりだった。
すると——次の瞬間、森全体が白銀の光に包まれた。
「……っ」
あまりの眩しさに、思わず目を細める。
石碑を中心に、清らかな魔力が静かに広がっていく。
割れていた石の断面が淡い光を帯び、まるで時間を巻き戻すかのように、ゆっくりと一つへと戻っていった。
やがて、大地を覆っていた不快な気配は、嘘のように消え去っていた。
静かな風が森を抜けていく。
私はそっと手を離し、恐る恐る石碑を見上げた。
「……これで、大丈夫かしら」
結界石としての役目は戻ったように見えるけれど、と言いかけたところで、隣にいたアンナがしばらく石碑を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「お嬢様」
「何?」
「今のが……『少し』なのですね」
その声に、私は思わず首を傾げる。
「え?」
「いえ……なんでもありません」
アンナは深いため息をついた。
私は不思議に思いながらも、もう一度石碑へ目を向けた。
森を覆っていた重苦しい空気は、もうどこにもない。
それなら、それでいい。
そう思った途端、ふと空腹を自覚する。
「……お腹が空いたわね」
「はい?」
「気づけばもうお昼だもの」
私が何気なくそう言うと、アンナは困ったように、それでもどこか安心したように笑った。
「お嬢様らしいです」
森は何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。
◇◇◇
数日後のある屋敷の一室では、緊迫した空気が漂っていた。
「報告します!」
息を切らした兵士が、慌ただしく部屋へ駆け込んでくる。
「フィオーレ王国辺境の結界石破壊作戦についてですが……」
「成功したのだろう?それは知っている」
指揮官は満足げに口元を歪めた。
しかし、裏腹に兵士の顔は青ざめていた。
「それが……破壊したはずの結界石が……復活しました」
「……何?」
「しかも、我々が施した妨害術式ごと消滅しています」
その場に、ぴんと張り詰めた沈黙が落ちる。
そんな雰囲気の中、指揮官が低く呟いた。
「そんな馬鹿な……我が国でも選りすぐりの魔術師が、時間をかけて施した術式だぞ」
「ですが……魔物の様子が落ち着いていたため、確認しに行ったところ……」
兵士は震える声で続ける。
「まるで、汚れを洗い流したように綺麗な……以前よりも遥かに強固な結界が張り直されておりました」
「なんだと……?」
「破壊することは、もう不可能かと……」
その言葉を聞いた瞬間、指揮官の顔から余裕が消えた。
「……しかし、理解できません」
兵士が震える声で続ける。
「結界石だけではありません。我々が以前仕掛けた工作も……すべて失敗に終わっています」
「……あの件もか」
指揮官の表情が険しくなる。
「あれは王都まで流れる重要な水脈だ。あれが断たれれば、フィオーレ王国は内側から混乱するはずだった」
「はい。しかし、土砂崩れが起きたのは確実ですが、その数日後に何事もなかったかのように……。すべて、こちらの想定通りには進んでおりません」
指揮官は考え込む。
ことごとく作戦が、うまく行っていない状況が理解できない。
全ては綿密な計画のもと、そう簡単には直すことができない仕掛けのはずだった。
「一体……誰がやった」
「……直接関係あるかはまだ確認は取れてませんが……今フィオーレ王国では『白銀の魔女』の噂がまことしやかに囁かれております。タイミング的に考えると、無関係ではないと……」
「——は?」
「白銀の髪をした女性が、困ってる町や村に現れては問題を解決しているという話です」
「何だそれは……」
その報告に、部屋の隅で静かに耳を傾けていた青年が、ゆっくりと顔を上げた。
「……白銀の髪」
低く呟いたその声には、好奇心が滲んでいた。
彼の脳裏に浮かんだのは、以前見かけた少女の姿だった。
ただの平民には見えない。
けれど、貴族だと言い切れるほど高圧的でもない。
不思議な雰囲気を持った、白銀の髪の女。
「……あの?」
部下が戸惑ったように呼びかける。
青年は何も答えず、静かに立ち上がった。
「……俺が行く」
「しかし……」
「報告だけでは分からない」
窓の外へ視線を向けながら、青年は淡々と言った。
「それに……少し、確かめたいことがある」
わずかに目を細める。
あの時に感じた違和感。
彼女がただの女ではないという、拭いきれない直感。
もし、本当に彼女なのだとしたら——
「白銀の魔女……か」
青年は小さく呟いた。
そこにあったのは恐れではなく、むしろ強い興味だった。
あの不思議な白銀の髪の女が、本当に噂の魔女なのか。
その答えを、自分の目で確かめたかった。




