第15話 森に残された痕跡
夜が明ける頃には、村はもう動き始めていた。
家々の煙突からは細く煙が立ち上り、井戸では水を汲む人々の姿が見える。
昨夜と変わらない穏やかな朝だった。
けれど、その平穏がいつ破られるか分からないことを知ってしまった今では、その何気ない景色さえ胸に残った。
支度を終えて外へ出ると、昨夜お世話になった老人たちが見送りに集まっていた。
「もうお発ちになられるのですか」
「はい。長居をするわけにもいきませんから」
そう答えると、老人はどこか寂しそうに笑う。
「本当に助かりました」
「こちらこそ、一晩お世話になりました」
深く頭を下げると、周囲の人々も笑顔で手を振ってくれる。
その中から、小さな足音が駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん!また来てね!」
昨日の少年だった。
無邪気な笑顔に、私は少しだけ目を細める。
「ええ。元気でね」
そう言って頭を優しく撫でると、少年は嬉しそうにはにかんだ。
やがて村を出て、山道をしばらく歩く。
朝の森は静かで、鳥のさえずりだけが辺りに響いていた。
村が見えなくなった頃、私は静かに足を止めた。
アンナは私の横へ並ぶと、森へ視線を向けて微笑む。
「では、参りましょうか」
私は小さく頷いた。
「少し様子を見るだけ。それで何もなければ、そのまま旅を続けましょう」
「はい」
私はもう一度、森へ目を向けた。
昼間でもなお木々が深く生い茂り、その奥は薄暗く影を落としている。
昨夜は遠くから眺めることしかできなかったその場所が、今はまるで私を静かに招いているように見えた。
「……行きましょう」
小さくそう呟くと、アンナも黙って頷いた。
誰も足を踏み入れようとしない森の奥へ向かって歩き始める。
まだ、この先で何が待っているのかは分からない。
けれど胸に抱いた違和感の答えは、きっとこの森のどこかにある。
そう信じて、私は一歩ずつ木々の間へ足を踏み入れた。
朝の森は、思っていた以上に静かだった。
湿った土を踏みしめる音だけが耳に残る。
(……森とは、こういうものなのかしら)
森へ入る機会など、これまでほとんどなかった。
だから、本当におかしいのか、それとも私が知らないだけなのかは分からない。
それでも胸の奥には、小さな違和感だけが残っていた。
「……何か、変な気がするの」
「どうかなさいましたか?」
「うまく言えないの。でも、何かが引っかかって……」
アンナも辺りを見回す。
生き物の気配だけが、不自然なほど薄い。
嫌な胸騒ぎを覚えながら歩みを進めると、やがて木々の様子が変わり始めた。
「これは……」
思わず足元へ視線を落とす。
切り株だった。
それも一本や二本ではなく、辺り一帯の木が何本も切り倒されている。
しかも切り口は驚くほど滑らかで、風や魔物によるものとは到底思えなかった。
私はしゃがみ込み、切り株へそっと触れた。
「……これは、人の手かしら?」
切り口は驚くほど真っすぐで、誰かが意図して切り倒したものだと分かる。
アンナが切り株を見つめながら呟く。
「しかも、新しいようですね。まだ切り口が乾ききっていません」
私が頷いた、そのときだった。
「レティさん、こちらを」
土が不自然に乱れた跡と、何かを引きずったような痕跡が残っていた。
「これは何の跡でしょうか……」
「村の人は誰も森へ近づかないと言っていたわ」
「ええ。それなのに、人が出入りしていた形跡があります」
同じ場所が何度も踏み固められている。
ゆっくりと視線を巡らせると、倒木の陰に何かが引っ掛かっているのが目に入る。
拾い上げると、小さな布切れだった。
丈夫そうな濃紺の布で、端には見覚えのない刺繍が施されている。
「紋章……?」
首を傾げる。
王妃教育で国内の各貴族家と、近隣諸国の王家の紋章は学んだ。
けれど、これは記憶にない。
「ご存じありませんか?」
「見たことがないわ」
アンナに尋ねられ、静かに首を振る。
後で確かめようと布切れをしまおうとした、その瞬間だった。
ガサリ、と茂みが大きく揺れる。
次の瞬間、飛び出してきたのは、額に一本の鋭い角を生やした狼型の魔物——ホーンウルフだった。
森に生息する狼型の魔物で、群れで行動しその鋭い角と牙は脅威となる。
だが、本来は人里近くまで姿を現すことはほとんどない——王妃教育でそう学んでいた。
それが一匹、二匹ではない。
四匹、五匹と次々に茂みから姿を現し、一斉にこちらへ向かって駆け出してくる。
私は咄嗟に魔法を放った。
風がうなりを上げ、ホーンウルフたちを次々と吹き飛ばしていく。
だが、その群れの最後尾にいた一匹だけは様子が違った。
私たちへ牙を向けることなく、何度も後ろを振り返りながら、森の奥とは反対方向へ必死に駆けていく。
——まるで、何かから逃げるように。
私は思わず息を呑んだ。
「……違う」
「レティさん?」
「あのホーンウルフ……私たちを襲おうとしていたんじゃない」
胸の奥がざわめく。
怯えたように逃げていた。
それは何かから必死に逃げるようだった。
私は視線を森のさらに奥へ向けた。
そこには、人の手で切られた木々と、荷車の轍だけが静かに続いている。
風が吹き抜ける。
その先から、かすかに地面を打つような低い音が聞こえた気がした。
老人の言っていた言葉が脳裏によみがえる。
——森の奥から、大きな音が聞こえるようになった。
私は無意識に拳を握りしめる。
「……魔物だけが原因じゃない」
そう呟くと、アンナも静かに頷いた。
森の奥には、まだ誰にも知られていない何かがある。
その確信だけを胸に、私はさらに奥へと視線を向けた。




