第14話 森の異変
魔物がすべて倒れたことを確認すると、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
恐る恐る身を隠れていた人々は、安堵したように何度も頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「本当に助かりました……!」
次々とかけられる感謝の言葉に、私は小さく首を横に振った。
「私は本当にたまたま通りかかっただけです。皆さんがご無事で、よかった」
そう答えると、人々は顔を見合わせ、どこか困ったような笑みを浮かべる。
やがて、先ほど話をしていた老人が一歩前へ出た。
「旅のお方でしょうか」
「はい。この国を見て回りながら旅をしています」
老人は深く頷くと、少し申し訳なさそうに口を開く。
「お礼と言えるようなものは何もありませんが……。もしよろしければ、今夜だけでもこの村で休んでいってください」
周囲の人々も「ぜひ」「どうかお願いします」と口々に頭を下げる。
私がアンナへ視線を向けると、アンナは静かに微笑み小さく頷いた。
「今日はもう日も傾き始めています。この先の山道を進むより、一晩お世話になった方がよろしいかと」
確かに、このまま森へ入れば日が暮れてしまうだろう。
「……それでは、ご厚意に甘えさせていただきます」
そう答えると、人々の表情がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
「いえ、お礼を言うのは私たちの方です」
案内された家は決して大きくはなかった。
質素な木造の家屋はところどころ修繕した跡があり、長年大切に使われてきたことが分かる。
部屋へ荷物を置くと、夕食まで少し時間があるという。
「少し村を歩いてきてもよろしいですか」
「もちろんです。何もない村ですが、どうぞごゆっくり」
そう尋ねると、案内してくれた女性は嬉しそうに頷いた。
私はアンナと並んで村の中を歩き始めた。
畑はあるが、手入れが行き届いているとは言い難く、作物もどこか元気がない。
収穫量が多くないことは一目で分かった。
薪は少なく積まれ、井戸の周りには何度も水を汲みに来る人々の姿がある。
幼い子どもたちは痩せた犬と遊んでいたが、その笑顔とは裏腹に着ている服は何度も繕われていた。
私は胸の奥が少しだけ締めつけられる。
王妃教育では、辺境の村は物流が少なく、生活は決して豊かではないと学んだ。
けれど実際に目にすると、本に書かれた一文とは重みがまるで違った。
——知らなかった。
私は、この人たちの暮らしを何も知らなかったのだ。
◇
夕食は、村の集会所として使われている建物で振る舞われた。
並べられた料理は野菜の煮込みと固い黒パン、それに少しばかりの干し肉だけ。
決して豪華ではない。
それでも村の人々は「今日はご馳走なんですよ」と照れくさそうに笑っていた。
私は思わず胸が痛くなった。
きっと、この食事も無理をして用意してくれたのだろう。
「そんなに気を遣っていただかなくても……」
「命を助けていただいた恩に比べれば、こんなものは何でもありません」
そう口にすると、向かいに座っていた老人は穏やかに笑った。
周囲の人々も何度も頷く。
その笑顔を見ていると、それ以上は何も言えなくなった。
静かな夕食がしばらく続いたあと、私は昼間から胸に引っ掛かっていたことを尋ねる。
「先ほど、『これで終わればいいのですが』とおっしゃっていましたよね」
その言葉に、村人たちの表情が一斉に曇る。
老人はゆっくりと頷いた。
「ええ……。昔は、こんな村ではなかったんです」
少しの沈黙のあと、小さく息を吐く。
その一言に、私は自然と姿勢を正した。
「森には獣も多く、狩りをすれば食べるものには困りませんでした。薬草も採れましたし、木を切れば薪にも建材にもなりました。この村は森と共に生きてきたんです」
懐かしむように細められた目が、ゆっくりと暗くなる。
「ですが、半年前くらいから様子がおかしくなりましてな」
「半年前……」
「魔物が森から降りてくるようになったんです」
周囲の人々も重々しく頷いた。
「最初は一匹、二匹でした。騎士団へ知らせれば退治してもらえましたし、そのうち収まるだろうと思っていたんです」
老人は力なく首を振る。
「ですが、収まるどころか、数が増えていきました」
「今日のようなことが、何度も?」
「ええ」
今度は若い男性が苦笑する。
「騎士団も来てくださいました。魔物は倒してくださいます。でも……」
「数日もすれば、また現れるのです」
言い淀んでいたその先を、老人が静かに引き継いだ。
その言葉に、私は黙り込んだ。
今日倒した魔物も、また同じように現れるのだろうか。
「何か、きっかけになるような出来事はありませんでしたか?」
私が尋ねると、老人は腕を組み、記憶を辿るように目を閉じる。
「きっかけ…………。そういえば……」
しばらく考え込んだあと、はっとしたように顔を上げた。
その場にいた人々も老人へ視線を向ける。
「ちょうどその頃からでしたな。森の奥で、大きな音が聞こえるようになったのは」
「大きな音?」
「ええ。木が倒れるような音や、地面が揺れるような音です。最初は雷かと思いましたが、晴れの日でも聞こえてきましてな」
「森の奥へ見に行かなかったのですか?」
そう尋ねると、老人は寂しそうに笑う。
その笑みは、どこか諦めを含んでいた。
「最初は若い者が様子を見に行きました。ですが、その頃から魔物が増え始めたのです」
それ以来、誰も森の奥へは近づけなくなったという。
私は静かに俯く。
魔物が増えた。
森の奥から聞こえる大きな音。
それが偶然とは、どうしても思えなかった。
食事が終わり、それぞれが家へ戻ろうとしたとき、小さな男の子が私の服の裾をそっと掴んだ。
「お姉ちゃん」
振り返ると、六つか七つほどの少年が不安そうな顔で見上げている。
「また来てくれる?」
その無邪気な問いに、胸が詰まった。
今日は助けた。
でも私が旅立てば、この村はまた魔物に怯える日々へ戻ってしまう。
返事ができない。
そんな私の代わりに、老人が優しく少年の肩へ手を置いた。
「こら、困らせるものではないよ。お気になさらないでください」
そして私へ向き直り、穏やかに微笑んだ。
その言葉とは裏腹に、その瞳にはどこか諦めの色が浮かんでいた。
「今日助けていただけただけで十分です。……旅のお方ですからな」
一拍置いて、小さく続けられたその一言が、胸へ静かに突き刺さった。
私は今日、この人たちを助けることはできた。
けれど——この村を救えたわけではない。
その事実だけが、重く胸の奥へ沈んでいった。
◇
その夜。
借りた部屋の窓からは、昼間見た森が黒い影のように広がっていた。
虫の鳴き声だけが静かに響く。
私は窓辺へ立ったまま、その森を見つめ続けていた。
「……眠れませんか」
「……ええ」
後ろから、アンナの優しい声が聞こえた。
小さく頷いても、視線は森から離れなかった。
「今日のことを考えていたの」
魔物は倒した。
村の人たちは喜んでくれた。
それなのに、胸の中には少しも晴れやかな気持ちがなかった。
「助けられたはずなのに、不思議なの。……また魔物が現れたら、あの子たちはまた怯えながら暮らすのでしょう?」
夕暮れに出会った少年の顔が浮かぶ。
——また来てくれる?
あの一言が、何度も胸の中で繰り返される。
「私には、約束できなかった」
アンナは少しだけ黙ってから、隣へ並んだ。
「レティさんは、お優しいですね」
「……違うわ」
私は小さく首を振る。
優しいわけじゃない。
ただ。
「……見てしまったから」
一度知ってしまった。
この村の暮らしを。
あの子たちの笑顔を。
何も知らなければ、そのまま通り過ぎられたのかもしれない。
でも、もう知ってしまったのだ。
「だから、放っておけないのかもしれない」
「ええ。そういうお方ですから」
アンナは責めることも止めることもせず、ただ静かに微笑んだ。
「私も、困ったものね」
「私は、そんなお嬢様が好きですよ」
思わず笑ってしまった。
その言葉だけで、少し肩の力が抜ける。
窓の向こうでは、夜風に木々がざわめいていた。
昼間、老人が話していた言葉が脳裏によみがえる。
——昔は、こんなことはなかった。
——森の奥から、大きな音が聞こえるようになった。
偶然とは思えないが、確かめもせずに決めつけることもできない。
私は静かに森を見つめる。
「……明日もう少しだけ、この村にいてもいいかしら」
自然と、その言葉が口をついていた。
アンナは静かに頷く。
「もちろんです」
「……森のことが気になるの。本当に原因があるかも分からない。でも……」
老人の言葉や、少年の顔がどうしても頭から離れない。
「確かめずに、このまま立ち去ることはできそうにないの」
「はい」
「少しだけ様子を見に行ってみるわ」
アンナは驚くこともなく、小さく頷いた。
「はい。きっとそうおっしゃると思っていました」
その返事に、思わず笑みが零れる。
私が知りたいのは、この国のこと。
そして今、この森で何が起きているのか。
それを知らないまま、この村を後にすることはできそうになかった。
窓の外では、夜の森が静かに揺れている。
その静けさの奥で、今も何かが動いていることを。
そして、それがこの村だけの問題ではないことを。
夜風に揺れる森は、何事もなかったかのように静かだった。
だからこそ、その静けさが、ひどく不気味に思えた。
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