第13話 もうどうでもいい
王都を離れてから、一月ほどが過ぎた。
ここで大きい宿場町は最後だということで、旅に必要な品を買い足していた。
王都にいた頃は侍女たちがすべて用意してくれていたため、値段を比べたり、食料の日持ちを気にしたりするだけでも新鮮だった。
そんな中、野菜を並べる店先から、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「聞いたかい?王都じゃ平民出身の子爵令嬢が王太子妃になるって大騒ぎらしいよ」
「聞いたわ!恋愛結婚なんだってさ」
足がほんの少しだけ止まる。
けれど、それだけだった。
(……王都の話)
横を歩くアンナが、何度も私の様子を窺っているのが分かった。
けれど、街を行き交う人々の会話は、そんな私たちのことなど気にする様子もなく続いていく。
「王太子殿下も、その子に夢中だったらしいよ」
「婚約者なんて、もう見向きもしなかったんだって」
「やっぱり最後は愛なのねぇ」
その言葉に、アンナが小さく息を呑んだ。
以前の私なら、きっと胸を痛めていたのかもしれない。
なぜ私ではないのかと。
何が足りなかったのかと。
けれど今は、もう違った。
何度も期待して、何度も傷ついて。
いつしか、期待することそのものに疲れてしまったのだ。
「……そう」
口から零れた声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「きっと、殿下にとって大切な方なのでしょうね」
私は静かに微笑む。
それ以上、何かを考えることはなかった。
「レティさん……」
心配そうなアンナの声に、私は安心させるように微笑んだ。
視線の先では、雲がゆっくりと流れていた。
その広い空を眺めながら、小さく息を吐く。
「前だったら、きっと泣いていたかもしれないわ。でも不思議ね……今は、本当にどうでもいいの」
王太子のことも、婚約者という立場も、王妃になる未来も——もうすべて、自分とは関係のない話だ。
「……私は、もう自由なの」
「はい。レティさんは、もう自由です」
思わず零れた呟きに、アンナがそっと微笑む。
それにつられるように笑った。
「自由になったら、何をしたいのかしらって……考えていたの」
けれど、いざそう聞かれると、すぐには答えが浮かばなかった。
これまでの私は、いつも何かに追われていた。
王妃になるために。
公爵家の娘として恥じぬように。
何をしたいかなんて、自分自身に問いかけたことすらなかったのだ。
「大それたことをしたいわけではないの」
少し考えて、私は遠くへ視線を向ける。
そこで初めて気づいた。
私が望んでいたものは、もっと小さくて、もっと単純なものだった。
「ただ……もっと、この世界を自分の目で見てみたいわ」
胸の奥に浮かんだ願いを、そっと口にする。
誰かが用意した景色ではなく。
誰かが決めた道でもなく。
自分の足で歩いて、自分の目で見て、感じてみたい。
ただ、それだけだった。
王妃教育では、歴史も政治も経済も学んだ。
地図も暗記して各地の特産品も、税制も、人口も覚えた。
けれど、それはすべて紙の上の知識だった。
王都から一歩外へ出れば、知らないことばかり。
野菜一つ買うのにも値段を比べ、旅人は空模様を見て歩く道を決める。
そんな当たり前のことさえ、私は知らなかった。
「……私、頭でっかちだったのね」
思わず苦笑が零れる。
知っているつもりだった。
国のことも、民のことも、王妃になるために必要な知識はすべて学んできたつもりだった。
けれど、それは本の中で得た知識に過ぎなかったのかもしれない。
そんな私を見て、アンナは穏やかに首を横に振った。
「いいえ。お嬢様は、今こうして知ろうとなさっています。それだけで十分です」
その言葉が、胸の奥に優しく響く。
私は小さく笑って頷いた。
「……ありがとう、アンナ」
私は荷物の中から地図を取り出し、ゆっくりと広げる。
今までなら、目的地まで最短の道を選んでいた。
けれど、今は違う。
指先で地図をなぞりながら、私は小さく微笑む。
「急ぐ理由もないもの。少し遠回りをしながら、この国を見て回りましょう」
知らなかった景色を。
知らなかった人々の暮らしを。
そして、今まで見ようともしなかったものを。
「知らなかったことを、一つずつ知っていきたいわ」
それは、初めて自分自身で選んだ旅の目的だった。
◇
宿を出る頃、二人は次の行き先を相談していた。
アンナが街道を指差す。
「このまま進めば国境へ向かう街道です。途中には大きな町もいくつかあります」
さらに細い山道を示す。
「ですが、こちらへ入ると小さな集落ばかりですね」
私は地図を覗き込みながら頷いた。
「せっかくなら、こちらへ行ってみたいわ」
「山道の方ですか?」
「ええ。王都から離れるほど、人々の暮らしも違うのでしょう? 私は、もっとこの国を知りたいの」
王妃教育では学べなかったこと。
本の上では知っていても、実際に見たことのない景色。
そんなものを、自分の目で見てみたかった。
「では、少し遠回りになりますね」
「急ぐ旅でもないもの」
「はい。どこまでもお供します」
アンナは優しく笑った。
二人は人通りの少ない山道へ足を向けた。
そのときの私は、ただ遠回りを選んだだけだった。
けれど、その小さな寄り道が、思いもよらない未来へと繋がっていくことなど、まだ知らない。
◇
山道へ入ってから半日ほどが過ぎた頃だった。
突然、木々の間を抜ける風に混じって鋭い悲鳴が響き、思わず足を止める。
隣ではアンナも息を呑み、不安そうに音のした方へ顔を向けていた。
「……近いですね」
耳を澄ませると、ほどなくして再び悲鳴が聞こえてくる。
今度は聞き間違いではなかった。
この先で、何か良くないことが起きている。
そう感じた次の瞬間には、もう私の身体は駆け出していた。
「お嬢様……! ああもう、お止めしても無駄ですね!」
「ごめんなさい、アンナ!」
呆れたような声が背中から聞こえる。
けれど、その足音はすぐに私を追いかけてきた。
木立を抜けた先には、小さな集落が広がっていた。
その入口では数匹の魔物が暴れ回り、人々は幼い子どもの手を引きながら必死に逃げ惑っている。
「アンナは皆さんを安全な場所へ!」
「はい!」
返事を聞くより早く、私は魔物へ向かって駆け出した。
風が渦を巻き、大地が震える。
放たれた魔法は一瞬で魔物たちを飲み込み、抵抗する間も与えず沈黙させた。
静寂が戻る。
やがて恐る恐る身を隠していた人々が姿を現す。
安堵したような表情を浮かべる人々を見つめながら、私はほっと息をついた。
しかし、その輪の外で、一人の老人だけが険しい表情のまま森を見つめている。
その様子が気になり、そっと声を掛けた。
「……何か気になることがおありなのですか?」
「ええ……。これで終わればいいんですが」
老人は困ったように眉を下げ、小さく頷く。
「終われば?」
「最近なんです。何度追い払っても、また森から降りてくるようになってしまって……」
その言葉に、レティシアも老人の視線を追って森を見つめた。
魔物は倒れ、辺りにはようやく静けさが戻った。
安堵した人々の声があちこちから聞こえてくる。
それでも、不思議と私の胸には「終わった」という実感がなかった。
そのとき、森を見つめたまま老人がぽつりと呟く。
「……昔は、こんなことはなかったんですよ」
その一言に、私は思わず老人の横顔を見つめた。
——昔は、なかった。
つまり、どこかで何かが変わったということだ。
魔物が突然変わるとは思えない。
ならば変わったのは、森なのか。
それとも、この土地なのか。
私は静かに視線を森へ戻した。
木々の向こうは薄暗く、昼間だというのに奥までは見通せない。
風に枝葉が揺れるたび、まるで森そのものが何かを隠しているような気さえした。
——原因は、本当に魔物なのだろうか。
そんな予感だけが、胸の奥で静かに形を成し始めていた。




