第12話 消えた婚約者
アルバート視点+α続きます。
翌朝。
執務室へ向かおうとしたとき、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてくるのに気づき、足を止めた。
「殿下!」
勢いよく駆け寄ってきたのはルーカスだった。
普段ならどれだけ急いでいても周囲の目があるところでは最低限の礼儀は崩さない男が、髪を乱し、息を切らせている。
その異様な様子に、思わず眉をひそめた。
「ルーカス?どうした」
「姉上が……いません」
ルーカスは息を整える間もなく口を開く。
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……何だと?」
「屋敷にもどこにもおりません。侍女たちにも確認しましたが、昨夜のうちに出られたようです」
「昨夜……」
「それと……侍女のアンナも姿を消しております。荷物もなくなっていました。おそらく、自ら同行したものと思われます」
「……アンナまで?」
あの侍女は真面目で職務に忠実だった。
だからこそ、レティシアを一人で行かせるはずがない。
だとすれば、彼女は自ら同行したのだ。
……それがどれほど重い決断か、あの侍女なら分かっていたはずなのに。
胸の奥が嫌な音を立てた。
「馬を出せ。今すぐ——」
「お待ちください」
ルーカスは苦しげな表情で、一通の封筒を差し出した。
「姉上の部屋に、これだけが残されていました」
見慣れた文字だった。
震える指先で封を切り、中の便箋を開く。
『アルバート殿下
長い間、お世話になりました。
どうかお身体を大切になさってください。
殿下のこれからの人生が、幸せなものとなりますよう心よりお祈り申し上げます。
今まで、本当にありがとうございました。
レティシア・エトワール』
短い文章だった。
婚約者へ宛てた手紙とは思えないほど、あっさりとしていて、どこまでも丁寧で。
まるで、すべてを終わらせるためだけに書かれた手紙だった。
「……何だ、これは」
思わず呟きが漏れるが、それ以上に言葉は出てこない。
「帰って、くるんだろう……?」
誰に言い聞かせるでもなく口をついた言葉に、ルーカスは静かに首を横へ振った。
「違います。……姉上は、戻るつもりなんてありません」
その言葉が胸へ突き刺さる。
何も返すことができず、沈黙が落ちた。
手紙を握る手に力が入り、紙が小さく音を立てる。
「すぐに騎士団を動かせ。王都の門を封鎖しろ。王都から出る者は全員確認しろ!」
今ならまだ追いつける。
そう思い、一歩踏み出した、そのときだった。
控えていた側近が一歩前へ出る。
「殿下」
「何だ」
「本日は、例の子爵令嬢への聞き取りの日となっております」
眉間に皺がよっているのが自分でもわかる。
最近になって急速に周囲へ近づき始めた子爵令嬢。
その動向を探るよう王命が下り、自らも調査を進めている最中だった。
「今はそんなことをしている場合ではない」
「ですが、この件は陛下直々のご命令です」
「……っ」
拳を強く握り締める。
王太子である以上、王命には逆らえない。
頭では理解しているが、それでも——
今すぐ追いかけたい。
今ならまだ間に合うかもしれない。
それでも、自分は動けない。
その沈黙を破るように、ルーカスが一歩前へ出て口を開いた。
「殿下」
振り向くと、真っ直ぐな瞳がこちらを見つめていた。
「俺が行きます」
「ルーカス……」
「必ず姉上を見つけます」
しばらく何も言葉が出なかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……頼む。見つけてくれ」
「はい」
初めてだった。
ルーカスへ頭を下げるような気持ちになったのは。
ルーカスは力強く頷くと、そのまま踵を返した。
部屋へ残された俺は、静かに手紙へ視線を落とす。
『どうか、お幸せに』
その一文だけが、何度読み返しても胸を締めつけた。
◇
王城を出ようとした足を止め、ルーカスは一度だけ回廊を振り返った。
昨日の夕暮れに姉が見せた最後の笑顔が、何度も脳裏によみがえる。
あのときは違和感しかなかった。
何かを吹っ切ったような、どこか遠くへ行ってしまう人のような、優しすぎる笑顔だった。
それでも、自分は気づけなかった。
姉は昨日、もうこうすることを決めていたのだ。
だから殿下にも、自分にも笑った。
あれは、別れの笑顔だった。
ルーカスは拳を強く握る。
「……今度は、俺が姉上を迎えに行きます」
今度こそ。
今度こそ、一人にはさせない。
◇
あれから1ヶ月ほど過ぎた。
山のように積まれた書類へ目を通していたとき、控えめなノックの音に顔を上げた。
「失礼します」
部屋へ入ってきたのはルーカスだった。
ここ一か月、王都と地方を何度も往復していたせいか、その顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。
ノックが鳴るたび、胸が鳴る。
今日こそ見つかったのではないかと、期待してしまう自分がいた。
俺は立ち上がることなく静かに問いかけた。
「……何か分かったか」
その声には、自分でも気づかないほど期待が滲んでいた。
しかしルーカスは小さく首を横へ振る。
「姉上の居場所は、まだ分かりません」
また駄目だった。
胸の奥へ重いものが沈む。
諦めにも似た沈黙が流れたあと、ルーカスは何かを思い出したように口を開いた。
「ですが、一つだけ気になる噂を耳にしました」
「噂?」
「はい。王都から西へ向かう宿場町で最初に広まったものらしいのですが、今では辺境近くまで噂が広がっているそうです」
アルバートは静かに視線を向ける。
「『白銀の魔女』と呼ばれている女性がおります」
その言葉に、書類へ向けていた手が止まった。
「……白銀?」
「困っている町や村へ突然現れ、人知れず人々を助けては、何も受け取らず姿を消すそうです。井戸を直した、土砂崩れを元に戻した、など……噂ですから尾ひれは付いているでしょうが」
ルーカスは少し言い淀む。
「そして、その魔女は若い女性で……白銀の髪をしているそうです」
その瞬間、部屋の空気が止まったような気がした。
——白銀の髪。
その言葉とともに、脳裏へ浮かんだのは、月明かりの下に立つレティシアの姿だった。
昼間は陽光を受けて柔らかな金色に輝く髪も、夜になれば月の光を映し、白銀のような輝きを纏う。
幼い頃、その姿を見て、まるで月の女神のようだと思ったことがある。
そして、数日前の報告をふと思い出す。
西の街道で起きた土砂崩れの復旧に向かった役人たちが、不思議そうな顔で戻ってきたことを。
『現地へ着いた頃には、道はすでに元通りになっていました』
『工事の必要はありませんでした』
そんな報告を受け、自然現象だったのだろうと深く考えもしなかった。
だが——
今になって、その報告が胸の奥で静かに引っ掛かった。
(……まさか)
そんなはずはない。
レティシアが辺境で、人知れず誰かを助けて回るなど考えられなかった。
けれど、その否定とは裏腹に、心のどこかが強くその可能性を求めてしまう。
王都から西へ。
宿場町で始まり、噂は人から人へ伝わりながら辺境へと広がっている。
まるで、一人の旅路を追いかけるように。
偶然だと、そう思おうとしても一度浮かんだ考えは頭から離れてくれなかった。
「……殿下?」
気づけば、ルーカスが心配そうにこちらを見ていた。
無意識に胸元へ手を添えた。
制服の内側には、いつもあの手紙がある。
何度も読み返したそれは、端が擦り切れ始めていた。
「……そこに、いるのか」
誰にも届かない問いは、静かな執務室へ溶けるように消えていった。
読んでいただきありがとうございます!
次回からまたレティシア視点に戻ります。
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