第11話 伝わらない想い
アルバート視点です。
時は少し遡り——。
建国記念祝賀会が終わり、自室へ戻った俺は、首元を締めつけていた正装の襟を緩めながら、小さく息を吐いた。
「……疲れた」
貴族たちとの挨拶そのものは苦ではない。
王太子として生まれた以上、それもまた務めの一つだと理解している。
だが、今日一番気を遣った相手は彼らではなかった。
脳裏に浮かぶのは、祝賀会で隣に立っていた婚約者——レティシアの姿だった。
昨日、倒れたと聞いたばかりだというのに、何事なかったような表情をしていた。
しかし今日も彼女の顔色は決して良いとは言えなかった。
だからこそ、少しでも負担を減らしたかった。
自分の隣にいれば、次から次へと貴族が挨拶に訪れる。
婚約者として共に応対するだけでも疲れるだろうと思い、あえて距離を置いた。
ほんの少しでも休めれば——そんなつもりだった。
……それだけだったのだ。
その静寂を打ち破るように、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「殿下!!」
「……ルーカスか」
聞き慣れた声に、思わず眉間を押さえる。
幼い頃から共に過ごしてきたルーカスは、今では側近というより身内のような存在だ。
だからこそ遠慮がない。
とくに最近は、レティシアのこととなると苦言の回数が目に見えて増えていた。
その顔を見ただけで、これから何を言われるのか大体察してしまい、小さく肩を落とした。
「姉上へのあの態度は何なんですか!」
部屋へ入るなり、ルーカスが机を叩く勢いで声を張り上げた。
やはり始まったか、心の中で小さくため息をつく。
「始まったか」
「始まりました!」
ずかずかと遠慮なく歩み寄ってくる姿は、側近というより説教をしに来た兄のようだ。
……年下なのに。
「祝賀会でも姉上を放っておいて!昨日倒れたばかりなんですよ!少しは気遣えないんですか!」
「……だから気遣った」
「…………は?」
ルーカスの動きがぴたりと止まる。
「人が集まれば疲れる。だから、俺から離れた」
言葉の意味を理解するまで少し時間がかかったのだろう。
ルーカスは何度か瞬きを繰り返した。
「……そのため、だったんですか?」
「ああ」
「姉上を休ませようとして?」
「ああ」
しばらく部屋に沈黙が落ちた。
やがてルーカスは額を押さえ、そのまま大きく息を吐く。
「殿下……」
「何だ」
「それは………言わないと伝わりません」
一拍間を置いて、ルーカスはきっぱりと言った。
思わず眉をひそめる。
「……伝わらないのか?」
「当たり前です!姉上から見たら、殿下は自分を置いて令嬢たちと楽しそうに話してるようにしか見えません!」
「…………」
そう、見えるのか。
そんなつもりは、一度もなかった。
「……少し調べたいことがあって話していただけだ」
「そんな事情、姉上が知るわけないでしょう!殿下が何を考えているかなんて、口にしなければ誰にも分かりません!」
ルーカスの声が部屋中に響いた。
言われてみれば、その通りだった。
しかし——
「……近くにいる方が問題なんだ」
「はい?」
思わず本音が口をついた。
ルーカスはきょとんとした顔で瞬きを繰り返す。
「近くにいると……」
「何です?」
真っ直ぐ見返されると、ますます言葉が出てこない。
どう説明すれば伝わるのか、自分でも分からなく、しばらく黙り込んだ。
けれど誤魔化したところで、この男は納得しないだろう。
「……可愛い」
「はい?」
「近くにいると、目が合うだろう」
ルーカスは怪訝な表情をしながらも、黙って続きを促す。
「目が合うと、何を話せばいいのか分からなくなる」
「…………」
「変なことを言って呆れられたくない」
そこまで口にすると、小さく息を吐いた。
「……とても、可愛い」
しばらく沈黙が流れた。
やがてルーカスはゆっくりと天井を仰ぎ、力なく呟く。
「……重症だ」
「何がだ」
「全部です」
何が問題なのか分からなかった。
可愛いものは可愛い。
ただ、それだけの話だ。
七歳で婚約した頃のレティシアは、小さく、どこか危なっかしい少女だった。
それでも誰より真面目で、王妃教育が始まると、一つひとつを懸命に吸収しようとしていた。
泣き言一つこぼさず、誰にも弱音を見せず、ただひたすら前だけを向いて努力を重ねる。
気づけば、その小さな少女は、誰もが目を奪われるほど美しい淑女へと成長していた。
だが、中身だけは昔と何も変わらない。
真面目で、不器用で、誰かのためなら自分を後回しにしてしまう。
誰より努力していることを、俺は知っている。
だからこそ、無理をしている姿を見るたび胸が締めつけられた。
そんなところまで変わらないからこそ、放っておけない。
そして見れば見るほど胸が落ち着かなくなり、まともに顔を合わせることさえ難しくなってしまった。
不思議だった。
政治の席でも、外交でも、初対面の貴族相手でも笑って話せる。
なのにレティシアの前だけは駄目だった。
目が合うだけで胸が騒ぎ、何を話せばいいのか分からなくなる。
だから少し距離を置いた。
少しでも平常心で話せるようになると思って。
「……だから距離を置いたんだ。自然に接するために」
建国記念祝賀会で見たレティシアは、いつにも増して美しかった。
淡いプラチナブロンドの髪も、正装に包まれた姿も、思わず息を呑むほどだった。
隣に立つだけで胸が落ち着かず、まともに目を合わせることさえ難しかった。
……あのまま傍にいれば、平静を保てる自信はなかった。
しかしその言葉を聞いた瞬間、ルーカスは勢いよく机を叩いた。
「全部逆です!」
部屋に響いた音に、思わず目を瞬かせる。
「姉上は!殿下に嫌われてると思ってますよ!」
「は………」
「他の人には普通に笑って話せるのに、姉上の前だけあんな態度なんですから」
その言葉が理解できずに固まってしまう。
「……何?」
「だから、嫌われてるって思ってるんです」
「俺が?」
「はい」
「そんなはず……」
思わず否定しかけて、言葉が止まる。
ルーカスはじっと俺を見据えた。
「姉上以外には普通に笑えるくせに……」
「……仕方ないだろう」
「何がですか」
「レティシアは、特別なんだ」
その言葉は、考えるより先に口をついて出た。
自分でも、あまりにも自然だったことに驚く。
ルーカスはしばらく口を開けたまま固まっていた。
「……それ、自覚あったんですか」
「何がだ」
「姉上が特別だってことです」
「……当たり前だろう」
それ以上、どう説明すればいいのか分からない。
最近、確かにレティシアから話しかけられることは減った。
茶会の回数も少なくなった。
いや、減らしたのは自分だ。
いつも顔色が悪いレティシアの負担を少しでも軽くしたいと思っていた。
その方が彼女のためになると、本気で信じていた。
「……そんなふうに思われていたのか」
「……全部裏目なんですよ。姉上は殿下に避けられていると思っていますよ」
ルーカスは深いため息をつき、呆れたように肩を落とした。
衝撃が大きく、返す言葉も思いつかずに沈黙が落ちる。
「……どうして、そこまで姉上なんですか」
ふと、ルーカスが少しだけ真面目な声で尋ねた。
その問いに、しばらく答えられなかった。
少しして静かに口を開いた。
「……王城へ戻ってから、皆、同じことを言った」
「同じこと?」
「『可哀想なお方だ』『お辛かったでしょう』と」
その言葉には、どこか苦い諦めが滲んでいた。
「誰も、生き延びた俺を見ようとはしなかった」
部屋に静かな沈黙が落ちる。
遠くを見るように目を細め、小さく息を吐いた。
「……でも、レティシアだけは違った」
あの日のことを思い返すだけで、胸の奥が静かに熱を帯びる。
あの言葉だけは、誰にも話したくなかった。
「あの人だけは、俺を『可哀想な王子』じゃなく、一人の人間として見てくれた。……だから、気づけば特別だった」
恋だったのかは分からない。
ただ、失いたくないと思った相手は、後にも先にもレティシアだけだった。
幼い頃、レティシアの婚約者になったときから決めていた。
彼女の隣に立って恥ずかしくない男になる、と。
剣も、政治も、魔法も、王として必要なすべてを学び続けてきたのは、そのためだった。
レティシアにふさわしい男になりたかった。
ただ、それだけだった。
それなのに——嫌われている?
しばらく黙り込んだまま、答えを探すように視線を落とす。
「……分からない」
「本当に……」
ルーカスは額に手を当て、大きくため息をつく。
「政治も、剣も、魔法も完璧で、『理想の王太子』なんて呼ばれているのに……どうして恋愛だけは、こうなんですか」
「…………」
何も答えられなかった。
ルーカスの呆れた声も、もう耳には入っていなかった。
ただ頭の中で何度も繰り返されるのは、一つの言葉だけだった。
——姉上は、殿下に避けられていると思っています。
そんなふうに思わせていたのか。
少しでも休んでほしいと願っていた。
そのために選んできたことが、すべて彼女を傷つけていた。
胸の奥が、鈍く締めつけられる。
(……明日こそ)
明日こそ、ちゃんと話そう。
そう強く心に決めた。
◇
翌日。
王城の回廊を歩きながら、頭には昨夜のルーカスの言葉が何度も浮かんでは消えていた。
——言わないと伝わりません。
その通りなのかもしれない。
今までレティシアのためを思ってしてきたことが、すべて逆効果だったというのなら、もう黙っているわけにはいかなかった。
(今日はちゃんと話そう)
体調はどうだ、と。
昨日は眠れたか、と。
無理はするな、と。
たったそれだけのことなのに、これまで一度も口にできなかった。
今度こそ、自分の言葉でちゃんと伝えよう。
そう決意した、そのときだった。
回廊の向こうから、傾き始めた陽光を受け、淡い金色の髪を揺らしながら歩いてくる少女の姿が目に入った。
レティシアだった。
自然と足が止まる。
向こうもこちらに気づいたようで、静かに歩みを止め、いつものように優雅な一礼をした。
その姿を見た途端、心臓がどくりと跳ねる。
(言え。今だ。体調はどうだと、ちゃんと聞け)
頭の中では何度も言葉を並べているのに、いざ目の前に立たれると喉が締めつけられたように声が出ない。
ようやく口を開いた。
「……レティシア」
よし、ここからだ。
(昨日は眠れたか?無理はするな。昨日は心配した)
言え。
そう自分に言い聞かせながら、ようやく絞り出した言葉は——
「……授業は終わったのか」
(違う)
心の中で思わず頭を抱える。
俺は何を言っている。
「はい。本日も無事、終えることができました」
「……そうか」
(違う。そうじゃない!もっと言うことがあるだろう)
しかし、続きを紡ごうとすればするほど、喉の奥で言葉が絡まり、結局何一つ出てこなかった。
気まずい沈黙だけが二人の間に流れる。
やがてレティシアは静かに一礼すると、小さく微笑んだ。
「それでは、失礼いたします」
横を通り過ぎ、そのまま歩いていくかと思ったそのとき、ふと彼女が振り返った。
夕陽を受けた淡い金色の髪が柔らかく揺れ、その唇に淡い笑みが浮かんだ。
どこまでも優しく、そしてどこか儚い微笑み。
その一瞬だけ、時間が止まったような錯覚を覚えた。
(……綺麗だ)
昔から美しい人だと思っていた。
けれど今日の笑顔は、それまで見てきたどの笑顔よりも胸を締めつけた。
息をすることすら忘れ、その背中をただ見送ることしかできない。
やがて夕陽を受けた淡い金色の髪は回廊の向こうへ消え、その姿も見えなくなった。
隣でルーカスが深いため息をつく。
「……殿下。今の笑顔……気づきましたか?」
「……ああ」
まだ彼女が去っていった方向を見つめたまま、小さく頷いた。
「久しぶりに、あんな穏やかな笑顔を見た」
その言葉に、ルーカスは何とも言えない表情で俺を見つめる。
「……なんだ?」
「……いえ、何でもありません」
ルーカスは何か言いたげに口を開きかけたが、結局小さく首を振った。
どこか引っかかるような表情を浮かべていたが、何を思ったのかまでは分からない。
俺はまだ知らない。
あの微笑みが、自分ではなくルーカスへ向けられたものだったことも。
そして、それがレティシアの最後の別れの微笑みだったことも。




