第10話 淑女の護身術
気がつけば、私は二人の間へ踏み込んでいた。
振り下ろされる男の腕を片手で受け止める。
「なっ——」
男の目が大きく見開かれる。
その一瞬の隙を逃さず手首を軽く捻ると、男の体勢はあっけなく崩れ、次の瞬間には鈍い音を立てて床へ叩きつけられていた。
「ぐっ……!」
周囲にいた仲間たちが一斉に飛びかかってくる。
私は無駄な力を使わず、その攻撃を受け流し、いなし、重心だけを崩して次々と床へ転がした。
考えるよりも先に身体が動く。
王妃教育で、嫌というほど叩き込まれた護身術だった。
魔法だけに頼らず、いかなる状況でも身を守り、人を守れるように——
その教えは、今も身体に深く刻み込まれていた。
そして気づけば、すべては終わっていた。
それだけで男たちは全員床に伏し、誰一人として立ち上がれなくなっていた。
あまりにも一方的な光景に、食堂は水を打ったように静まり返る。
誰もが目の前で起きた出来事を理解できず、ただ息を呑んでいた。
床へ倒れ込んだ男が、悔し紛れに叫ぶ。
「女のくせに……!」
私は静かに男を見下ろした。
「それでは、その『女』に負けているあなた方は、何なのでしょうね」
男は言葉を失ったが、それを見据えながらも私は淡々と続けた。
「あなた方も、女性のお腹から生まれてきたのでしょう。その女性を見下す資格が、本当にあなた方にあるのですか」
その言葉に返せる者は、誰一人としていなかった。
私は男たちから視線を外し、震えたまま座り込んでいる女性へ歩み寄る。
「お怪我はありませんか」
そっと手を差し伸べると、女性は震える指先で私の手を握った。
「あ、あの……ありがとうございました」
「お気になさらず」
そう言って女性を立ち上がらせようとした、その時だった。
ふわり、と店内を風が吹き抜ける。
深く被っていた外套のフードが肩へ滑り落ち、白銀の髪がさらりと零れた。
揺れるランタンの灯りが髪を照らし、その淡いプラチナブロンドは、誰の目にも白銀のように映った。
静まり返った食堂の空気を一瞬でさらっていく。
女性は私を見上げたまま、小さく息を呑んだ。
「……きれい……」
思わず零れ落ちたような呟きだった。
その一言をきっかけに、周囲の客たちも我に返ったようにざわめき始める。
私はようやく自分のフードが外れていることに気づいた。
「……あ」
慌てて髪を隠すようにフードを被り直す。
店内にはまだどよめきが残っていたが、それ以上気に留めることなく、私は女性へ微笑みかけた。
(護身術も、こういう時のためだったのね)
誰かを傷つけるためではなく、誰かを守るため。
そう思うと、褒められることもなく繰り返してきた厳しい訓練が、初めて報われたような気がした。
◇
女性を立ち上がらせたところで、ようやく熱くなっていた頭が冷えた。
(……あ)
店内を見渡した私は、小さく息を呑んだ。
食堂は水を打ったように静まり返り、居合わせた客たちの視線が一斉にこちらへ向けられている。床には倒れた男たちが転がったままで、その光景を目にした瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
(……目立ってしまったわ)
王都を発つ時、アンナと約束したばかりではないか。
——できるだけ目立たないように、と。
ほんの少し前まで、その約束を守ろうと自分へ言い聞かせていたというのに、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
(あとでアンナに怒られるかもしれないわね……)
恐る恐るアンナの方へ視線を向ける。
けれど彼女は怒るでも呆れるでもなく、額へそっと手を当て、小さくため息をついただけだった。
その反応にかえって申し訳なさが募り、私は気まずさを覚えながら席へ戻ろうと踵を返す。
「見事だった」
低く落ち着いた声が聞こえた。
振り返ると、一人の旅装の男が壁にもたれ掛かるようにこちらを見ている。
黒い外套に身を包み、年齢は私とそう変わらないように見えるが、無駄のない引き締まった身体つきと、長年剣を握ってきた者特有の隙のない立ち姿が印象的だった。
旅人というには、不思議な威圧感がある。
(……誰かしら?)
男は床へ転がる男たちを一瞥すると、面白いものでも見つけたように口元だけ笑った。
「だが、もう少し手加減してやっても良かったんじゃないか?」
「いえ。普通に受け流しただけですが」
「……あれで、か?」
「?ええ」
強化魔法すら使っていない。
そんなことを胸の内で思いながらも私が即座に答えると、男は少しだけ目を細めた。
「はっ! あれで普通か」
「そうですが……」
私はそれ以上言葉を続けるつもりはなく、アンナのもとへ戻ろうと踵を返す。
「待て。……名前は?」
「……名乗るほどの者ではありませんので」
短く答えると、男は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「そうか」
それ以上呼び止められることはなかった。
私は今度こそ男を意識から外し、アンナのいる席へと戻った。
「……レティさん」
待っていたアンナが、少し困ったような、けれど優しい声で私を呼ぶ。
「ごめんなさい、アンナ。少しやりすぎたかしら」
「いえ。その件につきましては……もう諦めておりますので」
「え、諦めているの?」
アンナは何とも言えない表情で小さく息をつき、視線を伏せた。
そのときだった。
「あ、あの……!」
さっきの女性店員が、まだ少し震える声で私たちに駆け寄ってきた。
そして、床でよろよろと立ち上がり、そのまま逃げるように店の出口へと走っていく男たちの背中を見送ってから、深く、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました! あの人たち、酔うといつもあんな感じで、店の厄介者だったんです。誰も手が付けられなくて本当に困っていたので、助かりました」
「そうだったのね。……怪我がなくて良かったわ」
私が微笑むと、店員はハッとしたように顔を上げ、申し訳なさそうに手を擦り合わせた。
「でも、お客様をこんな騒ぎに巻き込んでしまって……。あの、せめてものお詫びと言ってはなんですが、今日のお食事代は結構です! こちらでご馳走させてください!」
「え? でも……」
「いいえ、お気になさらず! 周りの皆さんも、スカッとしたって顔をしていますから」
店員の言葉に促されて周囲を見渡すと、いつの間にか客たちもどこか安心したように頷き、それぞれの席へと戻っていくところだった。
「では……お言葉に甘えようかしら。ありがとう」
私が小さく礼を言うと、店員は嬉しそうに笑顔を浮かべて戻っていった。
中断されていた食事を再開しようと、私はスプーンを手に取る。
その時、ふと、先ほどの「お食事代は結構です」という言葉から、ある現実的な問題が頭をよぎった。
(……そういえば、私、お金の価値がよく分からないわね)
無意識に手を入れた懐の小さな布袋には、いくつかの宝石が入っているだけだ。
家を出るとき、とりあえず換金できそうなものを持ってくればどうにかなるだろう、と安易に考えていた。
が、そううまくはいかないらしい。
これまでの買い物はすべて屋敷に商人を呼んで済ませていたし、支払いのやりとりもすべてアンナがしていた。
私はただ、用意されたものを受け取っていただけ。
(どれくらいで、何が買えるのか……本当に何も知らないのだわ)
結局のところ、私は“知らなくても困らない環境”に守られていただけなのだと思う。
あまり深く考えないまま、勢いでここまで来てしまった。
アンナは最初からそれを見越して、今もお金の管理を一手に引き受けてくれているのだろう。
「レティさん、冷めてしまいますよ」
「ええ、そうね」
アンナに促され、私は温かなスープを口へ運ぶ。
その優しい味が、張り詰めていた心を少しだけ解きほぐしてくれた。
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