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もうどうでもよくなったので、私に関わろうとするのはご遠慮ください  作者: はな
番外編 もうひとつの物語

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第4話 次の約束



 旧施設から王城へ戻ると、私たちはひとまず午後の会議が行われる部屋へ向かった。


 午後の会議に出なければならないと言っていたリオンは、道中で何度も時間を確認していた。

 けれど、結局は予定より少し遅れてしまったらしい。


 会議室の前では、文官が静かに待っていた。


「殿下」

「分かってる」

「十五分ほど遅れております」

「分かってるって」

「皆様、お待ちです」

「今行く」

「今すぐお願いいたします」

「……お前ら、最近ダリオに似てきてねぇ?」

「光栄です」

「褒めてねぇ」


 そう言いながらも、リオンは足を止めなかった。

 けれど、扉へ入る直前になって、ふいに振り返る。


「レティ。今日はもう無理すんなよ」

「分かっているわ」

「本当か?」

「約束したでしょう?」

「……ならいい」


 それでもまだ少し疑わしそうな目をしてから、リオンはようやく会議室へ入っていった。


 その背中を見送り、私は隣に立つアンナへ目を向ける。


「そんなに信用がないのかしら」

「……お嬢様、何かなさいました?」

「どうしてそうなるの?」

「リオネル殿下があれほど念を押していらっしゃいましたので」

「…………」


 否定できなかった。


 私は小さく息を吐くと、調査担当の術師たちとともに別の部屋へ向かった。


◇


 旧施設で確認した術式は、やはり一つだけではなかった。


 地下水路の古い図面、現在は使われていない施設、そして王城地下で以前見つかった巨大術式。

 それらを一つずつ重ねていくと、いくつかの地点が不自然に繋がっていることが分かった。 


 私は地図の一点を指差した。


「……ここも以前は何があった場所ですか?」

「旧貯水施設です。今は閉鎖されていますが、かつては王都南部へ水を送っていました」

「では、こちらは?」

「旧兵舎です。地下に備蓄庫があります」

「こっちは?」

「……以前使われていた礼拝所ですね」


 どれも地下に大きな空間を持つ古い施設だった。

 そしてかつては、王都の主要な場所と地下水路や搬入路で繋がっていたらしい。


「……偶然ではなさそうね」

「私もそう思います。以前の事件で使われた王城地下の術式を中心として、王都中に網のように広がっていた可能性があるのでは?」

「ええ」


 私は地図を見つめた。


 以前見つけた巨大術式は、多くの人間から魔力を集めるためのものだった。

 けれど、今回見つかったものは、その逆だ。

 中心から外へ向かっている。


「もしかすると……集めるためだけの術式ではなかったのかもしれない」


 室内の視線が一斉に集まった。


「以前の術式で集めた魔力を、一度王城へ集約する。そのあと必要に応じて、王都の各所へ流す」

「では、この施設は……」

「魔力を配るためのもの」


 私は地図の上を指先でなぞった。


「王城だけで完結する術式ではなく、王都全体で一つの術式だったのだとしたら?」


 誰もすぐには答えなかった。

 けれど、その可能性は高いように思えた。


 以前の事件は止め、中心となっていた術式も改変したはずだった。

 けれど、周囲に残されていた中継地点までは、すべて把握できていなかったのだ。


「最近魔力が流れた形跡があるということは……まだ生きている部分がある?」

「そういうことになると思うわ」

「危険ではないですか?」

「今すぐ発動するような状態ではないと思います。ただ……」


 私は、旧施設で突然起動した術式を思い出した。


「刺激を与えれば、残っている術式同士が反応するかもしれません」

「では、早急にすべて確認を」

「ええ。でも、無闇に壊さない方がいいと思います」

「なぜです?」

「一つだけ切れば、別の場所に負荷が集中するかもしれないから」


 以前の術式もそうだった。

 複雑に繋がった魔法式は、一箇所だけを壊せばいいわけではない。

 全体の流れを見なければならない。


「まず、残っている中継地点を全部把握しましょう。そのうえで、一度に流れを切る」

「できますか?」

「一人では無理です」


 そう答えてから、自分でも少し驚いた。


 以前なら、できるかどうかより先に、自分がやる方法を考えていた気がする。


 けれど今は違う。


「ヴァルガードの術師の方々に協力していただければ――できます」


◇


 調査には、その後三日を要した。


 古い記録を洗い出し、王都各所に残る施設を確認する。

 そのたびに、同じ系統の術式が見つかった。


 全部で六箇所。

 そのうち二箇所はほとんど機能を失っていたけれど、残り四箇所は今も僅かに魔力を通せる状態だった。


 そして四日目の朝、私たちは王城地下の術式を中心に、六箇所すべてを同時に封じることになった。


 各地点にはヴァルガードの術師が配置され、私は王城に残って全体の魔力の流れを確認することになった。


 その準備を進めていると、リオンが当然のように私の隣へ立った。


「俺もここにいる」

「リオンは術師ではないでしょう?」

「分かってる」

「でしたら、ここにいても――」

「国の王太子だぞ。王都全体に関わる術式を止めるのに、何も知らずに別の部屋で待ってろって?」

「それは……」

「それに……約束しただろ」

「何を?」

「一人でやらないって」

「……今回は最初から皆さんにお願いしているわ」

「知ってる」

「では?」

「俺もいるって言ってんだ」

「リオンに魔力制御は頼めないけれど」

「別に魔法だけが仕事じゃねぇだろ」


 そう言って、リオンは机の上に置かれた連絡用の魔道具を指した。

 あらかじめ対になる魔道具を設置しておけば、王都内程度の距離なら声を届けられるらしい。


 各地点の状況を確認し、異常があればその場で対応を決める。

 必要なら、周辺住民を避難させる判断もしなければならない。

 確かに、それはリオンにしかできないことだった。


「……そうね」

「だろ?」

「頼りにしているわ」


 軽い気持ちでそう言うと、リオンが一瞬黙った。


「何?」

「いや……今それ言うか?」

「今だから言ったのだけれど」

「……そっかよ」


 なぜか顔を逸らされた。

 最近、リオンは時々こういう反応をする。

 理由はよく分からない。


 けれど、開始の時間が来ると、それ以上考えている暇はなくなった。


「――始めます」


 私は術式へ魔力を流した。


 王城地下に残されていた術式には、以前、自分で改変した痕跡もまだ残っている。

 その跡を確認しながら、そこからさらに外へ伸びる線を、一つずつ慎重に辿っていった。


 そのとき、魔道具から声が響いた。


「南部、準備完了です」

「西部も問題ありません」

「旧兵舎、準備できています」


 各地点から、次々と準備完了の報告が届く。

 離れた場所にいる術師たちの声が、連絡用の魔道具を通して途切れることなく響いていた。


「全部揃った。――レティ」

「ええ」


 私は術式へ視線を戻し、気持ちを落ち着けるように深く息を吸った。


「――皆さん、お願いします」


 その声を合図に、各地点から魔力が流れ込んだ。


 王都の地下を走る古い術式が、一瞬だけ強く光る。

 以前とは違い、魔力を集めるのではなく、残っていた繋がりそのものを浮かび上がらせるための光だった。


「……見えた」


 六本の線が、王城から伸びている。


 私はそのすべてへ、自分の浄化魔法を流した。


 一人で全部を押さえ込むのではない。

 各地点から、それぞれの術師が流れを支えてくれている。


「一番、切断!」


 合図と同時に、王城から伸びていた一本目の光が途切れた。

 続いて二番、三番と、各地点からの報告に合わせるように光が一つずつ消えていく。


 張り巡らされていた六本の線は、確実にその数を減らしていった。


 そして――最後の一本だけが残る。


 それは一瞬だけ、抵抗するように強く光った。


「レティ!」

「大丈夫!」


 そう言いかけて、私は少しだけ考え直した。


「……今はまだ大丈夫。でも、少し強い!」

「何が必要だ?」

「北東の術師に、もう少し魔力を弱めるよう伝えて!」

「聞こえたな!」


『はい!』


 魔道具の向こうから返事が響き、流れが弱まった。


(今だ!)


 私は白銀の魔力を一気に流し込み、最後に残っていた一本の繋がりを断ち切った。

 それを合図にするように、王城地下を覆っていた魔法式も、ゆっくりと光を失っていく。


「…………」


 しばらく、誰も動かなかった。


 私は慎重に魔力の残滓を確認する。

 流れも、残された繋がりもない。


 完全に断ち切れていた。


「……終わったわ」


 小さく呟いてから、もう一度確かめる。


「全部、切れています」


 室内から、安堵の息が漏れた。

 魔道具の向こうでも、歓声が上がっている。


 


「やったな」

「ええ」


 隣から聞こえた声に顔を向けると、リオンが笑っていた。

 リオンの笑顔につられるように、私も笑った。


 今回は、一人ではなかった。

 けれど、それが以前よりもずっと心強く感じられた。


◇


 その日の午後、必要な報告をすべて終えた私は、部屋へ戻ろうとしていた。


 ヴァルガードへ来てから、もう一週間近くが経っている。

 予定していた調査期間は二週間だったけれど、今回の件について大きな問題は解決した。


 残っているのは、資料の整理と今後の管理方法について話し合うことくらいだ。


 廊下を歩いていると、向こうから声がかかった。


「レティ」


 振り返ると、リオンがこちらへ歩いてくる。


「もう仕事は終わったの?」

「ああ。今日はな」

「珍しい」

「お前、俺を何だと思ってんだ」

「いつも仕事に追われている人?」

「間違ってねぇのが腹立つ」


 思わず笑ってしまう。

 そんな私を見て、リオンも口元を緩めながら私の前で足を止めた。


「――で。これからの時間、空いてるか?」

「今日?」

「ああ」

「もう仕事はないけれど」

「じゃあ行くぞ」

「どこへ?」

「忘れたのか?」


 首を傾げると、リオンは「本当に忘れたのか」とでも言いたげな顔をした。


「菓子屋」

「あ」

「あと変な置物」

「まだあるの?」

「昨日確認させた」

「わざわざ確認させたの?」

「だってなくなってたら困るだろ」


 ――何をしているのだろう、この王太子は。


「仕事で確認させたわけではないでしょうね?」

「……護衛が近く通ったついで」


 少し間があった。どうにも怪しい。


 けれど――


「行きたいわ」


 そう答えると、リオンがぱっと笑った。

 いつもの余裕のある笑い方ではなく、思わず喜びがそのまま顔に出てしまったような、どこか少年っぽい笑顔だった。


「じゃあ決まりだな」


◇


 以前ヴァルガードを訪れたときも、この王都には来ている。

 けれど、あの頃は事件を追うことに必死で、城下町をゆっくり歩く余裕などなかった。

 王都へ入る途中に眺めただけだった街を、こうして何の心配もなく歩くのは初めてだった。


 王城から少し離れるにつれ、店の数が増えていく。

 大通りには多くの人が行き交い、露店からは香辛料の匂いが漂っていた。


「この辺、手紙に書いていたところ?」

「ああ。もう少し先に、例のやつがある」

「例の?」

「何の動物か分かんねぇ置物」


 思い出して、私は少し笑った。


 手紙に書かれていたのだ。

 城下で妙な置物を見つけたけれど、何の動物なのか最後まで分からなかった。


 私が見たら絶対笑うと思う――そんな内容だった。


「本当にそんなものがあるの?」

「あるって」

「リオンが大げさに書いただけじゃない?」

「見れば分かる」


 しばらく歩くと、リオンが一軒の雑貨店の前で足を止めた。

 どうやら、ここが例の場所らしい。


「これ」

「…………」


 思わず黙り込んでしまった。


 店先に置かれているのは、小さな石像だった。

 四本足で、長い耳と太い尾がある。

 そして、嘴のような口までついている。


「…………」

「な?」

「何これ」

「分かんねぇだろ?」

「本当に何かの動物なの?」

「だから分かんねぇんだよ」

「犬?」

「俺も最初そう思った」

「でも嘴があるわ」

「ある」

「耳も長い」

「ある」

「角まであるわよ」

「あるんだよ」


 改めて見ても、やっぱり何の動物なのか分からない。

 その妙な姿がおかしくて、堪えきれずに笑ってしまった。


「本当に変ね」

「だろ?」


 私につられるように、リオンも笑った。


 手紙の中で何度も読んでいたものを、今こうして二人で見ていることが、なんだか少し嬉しかった。


「次は――」

「まだあるの?」

「菓子屋」

「ああ」


 店を離れながら、私はもう一度だけ置物を振り返った。


 本当に、何の動物だったのだろう。


◇


 菓子屋は小さな店だった。

 扉を開けて中へ入ると、甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。


 棚には色とりどりの焼き菓子が並び、思わず足を止めて見回した。


「いろいろあるのね」

「気になるのあったか?」

「まだ入ったばかりでしょう?」

「それもそうか」


 少し笑ったリオンが、店内を見渡してから一つの棚を指した。


「手紙に書いたのは、これだ」


 そこには、丸い焼き菓子が並んでいた。

 表面には砂糖が薄くまぶされている。


「手紙に書いていたもの?」

「ああ。甘すぎるやつ」

「そんなに?」

「食えば分かる」


 リオンは店員に声をかけると、迷うことなく例の焼き菓子を一つ頼んだ。

 代金を支払い、そのまま私へ差し出す。


「ほら」

「リオンは食べないの?」

「前食った。俺には甘すぎる」

「そうだったわね」


 受け取った焼き菓子からは、ふわりと甘い香りが漂っている。

 私は表面に薄くまぶされた砂糖を眺めてから、一口かじった。


「…………」

「どうだ?」

「おいしい」

「甘いだろ」

「そう?」

「そう? じゃねぇよ」

「これくらい普通でしょう?」

「甘い」

「リオンが甘いものに弱いだけじゃない?」

「お前が強すぎるんだよ」


 そこまで言われると、本当にそこまで甘いのか分からなくなってくる。

 私はもう一口かじり、改めて味を確かめた。


「やっぱりおいしいわ」

「よく平気で食えるな」

「そんなに言うなら、もう一度食べてみる?」


 焼き菓子のまだ口をつけていない端を小さく割り、指先でつまんでリオンへ差し出す。


「どうぞ」

「…………」


 なぜか、リオンが一瞬だけ黙った。

 差し出された菓子と私の顔を見比べるように視線を動かし、それから何かを決めたように目を細めた。


「いらない?」

「……いや」


 そう答えたかと思うと、リオンは菓子を手で受け取らず、そのまま私の指先へ顔を寄せた。


「……え?」


 差し出していた菓子を、そのまま口に入れた。

 ほんの一瞬、指先に吐息が触れた気がして、私は瞬きをした。

 リオンは何も言わず、しばらく私を見る。


「…………」

「どう?」

「……何が?」

「甘さ。前と同じ?」

「…………」


 なぜか、リオンが少しだけ遠い目をした。

 何かを期待していたのに、まったく違う答えが返ってきたような顔だった。


「……甘ぇよ」

「やっぱり?」

「ああ。すげぇ甘い」


 そう言って顔を逸らしたあと、なぜか少し遅れて耳が赤くなっていった。


「リオン?」

「何でもねぇ」


 また、それだ。


 私は首を傾げながら、残っていた焼き菓子をもう一口食べた。


「まだ食べられるわよ?」

「やめとけ」

「どうして?」

「夕飯食えなくなるだろ」

「子ども扱いしていない?」

「お前、放っとくと仕事しながら飯忘れるだろ」

「……そこまでではないわ」

「信用ねぇ」

「また?」


 そんなことを言い合いながら店を出ると、外はもう随分と日が傾いていた。


「そういえば。今度フィオーレへ来たら、私もお店を案内する約束だったわね」

「ああ」

「覚えていたの?」

「覚えてる」

「では、次に来たときね」


 何気なくそう言うと、リオンが少しだけ目を細めた。

 口元もわずかに緩んでいて、嬉しそうに見える。


「次、か」

「?」

「いや、楽しみにしとく」

「ええ」


 ――次、また会える。


 それが、いつの間にか当たり前のことのようになっている。


 半年前は、次にいつ会えるかも分からなかった。

 けれど手紙を書いて、リオンがフィオーレへ来て、今度は私がヴァルガードへ来た。

 そして今、また次の話をしている。


「リオン」

「ん?」

「手紙も楽しかったけれど……こうして直接話せる方が、やっぱりいいわね」


 リオンの足が、ほんの少しだけ遅くなった。

 何かを言いかけたように見えたけれど、すぐには言葉が続かない。


「……お前さ。今日、何回俺のこと殺す気だ?」

「……何の話?」

「分かんなくていい」

「そう?」

「ああ」


 またよく分からない。

 けれど、リオンが笑っているので、悪い意味ではないのだろう。


◇


 王城へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。


 アンナの待つ部屋へ戻る途中、長い廊下をリオンと二人で歩く。

 護衛たちは少し離れた後ろにいた。


「今日は楽しかったわ」

「ああ」

「手紙に書いてあった場所を実際に見られたし」

「まだ案内してねぇところ、いっぱいあるぞ」

「そうなの?」

「次来たらな」

「ええ。楽しみにしているわ」


 また、次に会う約束ができた。

 それが少し嬉しくて、自然に笑みがこぼれる。


 すると、今度はリオンが黙り込んだ。


「……何?」

「いや」

「またそれ?」

「お前に言われたくねぇよ」


 少し笑いながら歩き、部屋へ続く廊下の角まで来たところで、私は足を止めた。


「じゃあ、ここで」

「ああ」

「今日はありがとう」

「別に。俺が連れていきたかっただけだし」

「それでも……リオンと一緒にいると、楽しいわ」

「…………」


 また、リオンの動きがぴたりと止まった。

 さっきまで普通に歩いていたのに、今度は本当に不意を突かれたような顔をしている。


「リオン?」

「……お前」

「なに?」

「本当に分かって言ってねぇよな」

「何を?」

「…………」


 リオンは困ったように額を押さえ、そのまま深く息を吐いた。


 しばらく何かを言いたそうにしていたけれど、結局諦めたように首を振る。


「何?」

「いや、俺が悪い。分かってた、お前がこういう奴だって」


 ますます分からない。


「……説明してくれる?」

「したら困るの俺だから嫌だ」

「どういう意味?」


 尋ねながら一歩近づくと、リオンが一歩、後ろへ下がった。


「……?」

「レティ。それ以上来るな」

「どうして?」

「いいから」

「でも、声が小さくて……」


 私はさらに一歩近づいた。


 その瞬間、リオンがふいに足を止める。

 肩へ軽く手を添えられたかと思うと、身体の向きが入れ替わり、気づけばすぐ後ろに壁があった。


「……え?」


 リオンの手が、私の肩のすぐ横へ伸びる。

 掌が壁に触れた音が、やけに近く聞こえた。


 気づけば、目の前にリオンの顔がある。


「リオン?」

「……だから来るなって言っただろ」

「どうして?」

「お前、本当に……」


 少し低い声だったけれど、怒っているわけではない。


 それなのに、なぜか心臓が一度、大きく鳴った。

 顔を上げると、リオンがすぐ目の前で私を見つめている。


 いつもより近い。

 緑色の瞳の中に、自分の姿がはっきりと映っているのが分かって、妙に目を逸らせなくなった。


「好きだの、会えたら嬉しいだの」

「……?」

「今日も頼りにしてるとか、直接話せる方がいいとか、楽しいとか」


 一つずつ並べられていく言葉は、どれも確かに私が口にしたものだった。


「……本当に思ったから言ったのだけど」

「それが問題なんだよ」

「どうして?」

「…………」


 リオンは目を閉じ、一度、深く息を吐いた。

 それから、もう一度私を見た。


「……俺がどれだけ我慢してるか、分かってんのか?」

「……我慢?」

「まぁ、分かってねぇよな」

「何を我慢しているの?」


 今度は、リオンが本気で困ったように眉を寄せた。

 どう答えればいいのか分からないというより、答えたくても答えられないような顔だった。


「そこまで聞くか?」

「聞かなければ分からないでしょう?」

「分からなくていい」

「でも――」

「レティ」


 名前を呼ぶ声が、先ほどまでとは少し違った。

 どこか掠れたような響きに、胸の奥がまたざわつく。


「――俺、お前のこと好きだって言ったよな」

「ええ」

「今も変わってねぇ」

「……ええ」


 もちろん、知っている。

 忘れていたわけではない。


 リオンが私を好きだということは、ずっと分かっていたはずなのに――こうして改めて言われると、なぜか胸の奥が落ち着かない。


「だから」


 リオンの顔が、ほんの少しだけ近づいた。

 反射的に息を止める。近すぎる距離に耐えきれず、思わず目を逸らしかけた、そのときだった。


「――逸らすな」


 すぐ近くで落とされた低い声に、動きを止めた。


「……リオン?」

「散々煽っといて、今さら逃げんな」

「煽ってなんて――」

「そういうとこだよ。何も分かってねぇくせに、俺のことばっか煽りやがって」

「…………」


 さらに、ほんの少しだけ距離が縮まった。

 けれど、そこで止まる。 


 触れそうで触れない距離を残したまま、リオンはしばらく私を見つめていた。


 やがて、静かに口を開いた。


「……これ以上は駄目だ」


 そう言って、リオンはゆっくりと身体を離した。

 急に二人の間へ戻った距離が、なぜか妙に遠く感じられる。


「リオン?」

「まだ、返事もらってねぇから」

「…………」

「嫌ならちゃんと振れって言ったけど――返事もらう前に勝手なことする気はねぇよ」


 リオンは少し笑った。

 けれど、離れてしまった距離を意識した途端、胸の奥が妙にざわついた。

 さっきまで近くにあった体温が、急に遠くなったからだろうか。


「でも――俺が男だってことくらいは、忘れんな」

「……忘れてはいないわ」

「いや。たぶん忘れてる」

「失礼ね」

「じゃあ、もう少し警戒しろ」

「リオンを?」

「ああ」

「どうして?」

「……もういい。……本当にお前と話してると疲れる」

「ひどい」

「誰のせいだよ」


 けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。


 それを見ていると、さっきまで胸の奥に残っていたざわつきが少しだけ和らいでいく。

 なぜか私まで可笑しくなって、つられるように笑った。


「じゃあ、おやすみ」

「ええ」


 部屋へ向かおうとして数歩進んだところで、ふと足を止め、私は一度だけ振り返った。


「リオン」

「ん?」

「明日も会える?」


 口にしてから、なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。


 同じ王城にいて、まだ仕事も残っている。

 会おうと思えば明日も会えるはずなのに、それでも、そのことを確かめておきたかった。


 リオンは少し目を見開いたあと、ゆっくり笑った。


「ああ」

「よかった」

「…………」

「おやすみなさい」

「おう。おやすみ」


 今度こそ部屋へ向かって歩き出したものの、胸の鼓動はなかなかいつもの速さに戻らなかった。


 扉を閉めて一人になってからも、さっきまでの出来事が妙に胸の奥に残っている。


 どうしてこんなに落ち着かないのか、その理由を、私はまだうまく言葉にできなかった。





【おまけ】

「……ダリオ様」

「何だ」


 少し離れた場所で護衛に立ちながら、若い騎士が声を潜めた。


「殿下、攻めました」

「……ようやくだな」

「え?」

「何でもない」


 視線の先では、リオンがレティシアの肩の横へ手をついている。


「おお……距離が近いです」

「静かにしろ」

「これはかなりいいところまでいくのでは?」

「……どうだろうな」


 二人揃って、遠巻きに様子を窺う。

 やがて――リオンが身体を離した。


「あっ、引きました!」

「……殿下らしいな」

「レティシア様は……ほぼノーダメージです!」

「それも想定内だ」

「殿下にはかなり入ってます!」

「それも想定内だ」


 さらに少しすると、リオンがどこか気まずそうに視線を逸らす。


「……ダリオ様」

「何だ」

「殿下、自分で攻めておいて照れてます」

「…………」

「耳も少し赤いです」

「……そこは言ってやるな」

「やっぱり照れてるんですね」

「長い付き合いだからな」


 若い騎士は妙に感心したように頷いた。

 やがてレティシアが部屋へ向かって歩き出す。


「終わりましたね」

「ああ」


 ところが、数歩進んだところで彼女が振り返った。


『明日も会える?』

「…………」

「…………」


 リオンの表情が、明らかに緩んでいる。


「殿下にクリティカルヒット!」

「……入ったな」

「ものすごく嬉しそうです!」

「ああ」

「さっきまで攻めていたのは殿下なのに!」

「やはり、レティシア様は強いな」


 若い騎士が興奮気味に頷く隣で、ダリオは満足そうに腕を組んだ。

 やがてレティシアの姿が部屋の向こうへ消えても、リオンはしばらくその扉を見つめていた。


「……よし」

「ダリオ様?」

「何でもない」


 それから少しして、ようやくリオンがこちらを振り返った。

 二人と目が合い、リオンが僅かに目を細めた。


「お前ら……何も見てねぇよな?」

「「もちろんです!」」


 返事だけは、見事に揃った。


「ならいい」


 そう言って歩き出すリオンの後ろで、若い騎士がそっとダリオを見る。


「……絶対、分かってましたよね」

「言うな」


――後輩騎士くん、察する技術を少し間違った方向で磨き中……



※次回、最終話です!



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