二度目のピンチ
故郷の町で一泊した翌朝、二人は再び旅路についた。
馬車が町を出ると、朝の光を受けた麦畑が両側に広がった。
百年前には、瘴気で何も育たなかった土地だ。
アイリスはしばらく窓の外を見ていたが、急に眉をひそめた。
「……ちょっと、止まってくれませんか?」
「どうされました?」
「ここ、瘴気が漏れています」
エヴァンの顔から、笑みが消えた。
「瘴気が?」
「ええ。そんなに濃くはないですけど」
普通の人には見えない。
けれど浄化のスキルを持つ者には、空気の中に溶け込んだ瘴気が、薄い煙のように見える。
アイリスは馬車を降りると、そのまま畑へ向かった。
「すみません。少しお話を聞かせてもらえますか?」
鍬を持った農夫が、怪訝そうにこちらを見る。
「なんだい、お嬢さん」
「この村で、最近体調を悪くしている人はいませんか? 原因がわからない頭痛や、だるさ、寝つきの悪さ、食欲不振とか」
農夫は目を丸くした。
「……なんでそれを」
「いるんですか?」
「ああ。ここ数ヶ月くらいかな。年寄りだけじゃないんだ。若い連中も、仕事の途中で急に具合が悪くなったりしてる」
隣で麦束をまとめていた女性も、話に加わった。
「医者には、疲れが溜まってるんじゃないかって言われましたけどね。収穫前で忙しいですし」
「ほかの村ではどうですか?」
「聞かないねぇ。具合を悪くしてるのは、うちの村ばかりだと思うよ」
アイリスは、わずかに眉を寄せた。
やはりそうだった。
アイリスは農夫たちには聞こえないよう、少し後ろに控えていたエヴァンのそばへ寄った。
「瘴気なのは間違いないですが、まだ初期段階なので大丈夫です。ちょちょっと浄化してきますから」
「待ってください」
いつものように笑ってはいない。
「浄化するというのは……また眠ってしまうということですか?」
「ああ、そのことですか」
アイリスは、なるべく軽く言った。
「この量なら、眠るといっても長くて一年ですよ」
「僕は嫌です」
エヴァンははっきりと言った。
畑にいた村人たちは、何か大変な話が始まったと察したらしい。遠巻きにこちらを見ている。
アイリスは、少し困って眉を下げた。
「でも、村の人たちは体調を崩しているんですよ。ほころびを閉じるだけでも、これ以上瘴気が増えることは止められますけど、土や空気に残った分を浄化しないと」
「一年も眠るんですよ!?」
「いや、私としては、もう百年眠っていたわけですし。一年も二年も、そんなに大きくは変わらないというか」
「絶対にだめです」
エヴァンの声は強く、いつもの穏やかな調子とはまるで違っていた。
「一年だろうと、二年だろうと……アイリス様がまた眠ってしまうことを、僕は受け入れられません」
アイリスは驚いて目を見開いた。
エヴァンが、ここまで感情をあらわにするところを初めて見た。
アイリスは、何も言えなくなった。
眠っている間は、何も感じない。目を閉じて、次に目を開けたとき、また時間が飛んでいるだけだ。
でも、待つ側は違う。
――とは言っても、たった一年よ? エヴァンにだって生きているうちにまた会える。
アイリスは、これ以上エヴァンに止められないように、なるべく穏やかな表情を作った。
「エヴァン様。ほころびを閉じるだけなら、体調に影響はありません」
「本当ですか?」
「はい。眠るとしたら、その後で残った瘴気をまとめて吸ったときです」
「……」
「とりあえず、ほころびを閉じましょう。あそこの崖の下が怪しいので、下に降りる方法を探していただけますか?」
アイリスが崖を指さすと、エヴァンはそちらを見た。
「危なそうなので、僕が一人で見てきますが。そこを動かないでくださいね」
「もちろんです」
「絶対ですよ」
「はいはい」
エヴァンは、疑わしそうな目でアイリスを見た。
けれど村人に崖へ降りる道を尋ね、しぶしぶその方向へ歩いていく。
エヴァンの姿が、麦畑の向こうへ消えた。
アイリスは農夫へ近づき、声をひそめた。
「何も言わないでくださいね」
「え?」
「この地を救いたいのなら」
農夫が戸惑った顔をするのを横目に、アイリスはその場を離れた。
そして、エヴァンから見えない位置まで来た瞬間。
全速力で走り出した。
「ほころびがあるのは、こっち。たぶん、あの山の上」
瘴気は、崖の下から出ているのではない。
もっと高い場所から、風に乗って村へ流れている。
山の中腹を駆け上がりながら、アイリスはポケットの中身を確かめた。
念のために持ってきた『瘴気吸い取るくん』。
百年前に、教会から渡されたものと同じ形をしている。
*****
目覚めた翌日。
アイリスがまだ王宮の暮らしに慣れず、広い部屋の中で所在なく座っていたときだった。
教会の神官が数人、神妙な顔で部屋へ入ってきた。
「よくぞお目覚めに……お待ちしておりました、大聖女様」
大神官が、床に膝をつき、深々と頭を下げる。
アイリスは、にこりともせずに答えた。
「はい。あなたたち教会に、使い捨ての駒にされた大聖女です」
神官たちの肩が、ぴくりと揺れた。
「大聖女様の尊い犠牲に、我々は心より感謝しております」
「はぁ……別にいいですよ。私も納得してやったことですから」
神官たちは互いに視線を交わしたあと、大神官が遠慮がちに口を開いた。
「その……大聖女様が再び世に戻られた今、教会としても相応しい形でお支えしたく存じます」
大神官は、後ろに控えていた者へ目配せした。
若い神官が、黒い布に包まれた細長い箱を差し出す。
「この神器をお持ちいただければ、大聖女様のご威光も、より多くの民に伝わるかと」
神官は箱の蓋を開けた。
「あ、瘴気吸い取るくん」
「神器『浄魔器セラフィエル』でございます」
神官が、すかさず訂正した。
箱の中には、百年前にアイリスが使っていたものと同じ形の器具が収められていた。
ただし、持ち手には銀細工が施され、側面には宝石らしき石まで埋め込まれている。
あの実用一点張りだった『瘴気吸い取るくん』を、無理やり豪華に飾り立てたもののようだった。
「でも、百年前に渡されたときは瘴気吸い取るくんって」
「神器『浄魔器セラフィエル』でございます」
「……はいはい、わかりました」
アイリスは呆れたように答えた。
百年も経つ間に、教会の誰かがこの神器の名前を格好よく整えたのだろう。
――教会も必死ね。
そう思いながら、アイリスは神器と呼ばれるものを手に取った。またどこかで使う機会があるかもしれないから。




