まだ知らないことがたくさん
「アイリス様、何かやりたいことはありますか?」
「う~ん、なんでしょう?すぐには思い浮かばないですね」
アイリスは、広場の向こうに広がる市場へ視線を向けた。
「100年も眠っていて何も経験できていない……それが残念ではありますが、具体的に何をしたいか聞かれると困ってしまいますね」
エヴァンは少し考え込んだ後、口を開いた。
「過ぎてしまった時間はどうしようもないので」
エヴァンは足を止めた。
繋いでいたアイリスの手をそっと引き、まっすぐ自分のほうへ向かせる。
アイリスの目を正面から見つめて、エヴァンは続けた。
「今からでも、たくさん思い出を作りましょう」
そして、アイリスがこれまでに見たことがないほど晴れやかな笑顔を浮かべた。
「……急に、どうしたんですか?」
「まずは買い物をしましょう」
「市場に、串焼き屋さんがありました。あと、焼き菓子のお店も。百年前にはなかった物を食べて、百年前にはなかった物を見て、できれば百年前にはなかったくらい変なものも見つけましょう」
アイリスは、しばらく黙ってエヴァンを見つめた。
串焼き。焼き菓子。それから、百年前にはなかったくらい変なもの。
ふと想像すると、少しだけ胸が軽くなった。
「貴族なのに買い食いですか? あなたが突飛なのにはもう慣れましたが」
「その提案は……最高ですね!」
エヴァンは一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を輝かせた。
「気に入っていただけてよかったです」
「そういえば」
アイリスは、繋いだ手をわずかに持ち上げると、いたずらを思いついた子どものように笑った。
「エヴァン様のスキルの『幸運』って、こういう場所で一番役に立つんじゃないですか?おいしいお店を見つけたりとか」
エヴァンは少し意外そうに目を丸くした。
「なるほど。それは確かに、腕の見せどころかもしれません」
エヴァンは真面目な顔で言った。
アイリスは、その顔を見て笑ってしまった。
「では、案内していただけますか?素敵なものを探しに」
「お任せください」
エヴァンは嬉しさを隠せないまま、アイリスの手を引いて歩き出した。
広場へ戻る途中、アイリスはもう一度、故郷の町を振り返った。
ここに、自分の知っている人はいない。
帰る家もない。
けれど、今の自分が初めて知るものは、まだいくらでもありそうだった。
市場へ戻ると、エヴァンは本当に楽しそうに串焼きの屋台へ向かった。
「まずは、こちらです。豚肉を甘い果実酒のたれで焼いた串だそうですよ」
店主から串を受け取ったアイリスは、慎重にひと口かじった。
香ばしく焼けた肉に、甘酸っぱいたれが絡んでいる。思ったより濃い味だったが、後から果実の爽やかな香りが追いかけてきた。
「……おいしいです」
「本当ですか?」
「ええ。昔なら、肉といえば塩を振って焼くだけでしたから」
ふと、百年前の旅を思い出した。
人影のない荒野を歩き続ける旅の途中、二人は教会から持たされた保存食だけで何日も過ごしていた。
ある夜、荷物に入れていた塩漬け肉を焚き火で炙って食べていたときのことだ。アイリスが自分の分を節約していることに気づいたルークは、何も言わずに自分の肉を半分にして差し出した。
「明日も歩くんだから」
ただそれだけ言って、ルークは少ないほうを自分の手元に残していた。
「……旅の食事は質素だったけど、ルークも王になってからは、おいしいものをたくさん食べたのかしら」
「またルークのことを思い出していましたか?」
エヴァンの声に、アイリスははっと顔を上げた。
「すみません。せっかくエヴァン様と市場を歩いているのに」
「謝らないでください」
エヴァンは少しだけ寂しそうに笑った。けれど視線をそらさず、まっすぐアイリスを見つめている。
「たくさん思い出してください」
「え?」
「アイリス様がルークと過ごした時間も、ルークを大切に思っていたことも、僕には消せません」
エヴァンは、串焼きを持つ手とは反対の手で、そっとアイリスの手に触れた。
「だから、忘れてほしいとは言いません。たくさん思い出してください。それでも僕を選んでほしいから」
アイリスは、返事をすることができなかった。
エヴァンの見た目はルークによく似ている。
けれど今、自分を見つめるその瞳は、ルークのものではない。
自分の気持ちをためらわず言葉にして、アイリスに届けようとするエヴァンという青年のものだった。
エヴァンは、気まずそうに一度だけ視線をそらした。
「……すみません。少し、格好つけすぎました」
「今のは、忘れてください。次の店に行きましょう」
エヴァンに手をひかれて、市場のあちこちの店を巡った。
焼き菓子や果物の砂糖漬け、見たこともない形の揚げ菓子まで、エヴァンは気になるものを見つけるたびに足を止めた。
気づけば、二人の手には食べきれないほどの包みが増えていた。
不思議なことに、エヴァンが隣にいてくれたから、さっきまで胸に広がっていた寂しさは、少しだけ薄れていた。
大聖女ではない、今ここにいるただのアイリスと一緒に、串焼きが美味しいだの、焼き菓子を買いすぎただのと笑ってくれる。
——さみしくなったり、楽しくなったり、忙しい一日だったわ。
アイリスは歩みを止め、隣を歩くエヴァンを振り返った。
「今日は一緒に歩いてくれて、本当にありがとうございます」




