時の流れは止められない
「窓から入ってくる風が涼しいですね。生き返ったって実感がわきます」
「喜んでいただけて僕もうれしいですよ」
馬車が緩やかな坂を上りきったところで、アイリスはふと首を傾げた。
「ずいぶん進んでいますが、今はどこに向かっているんですか?」
向かいに座るエヴァンは、すぐには答えなかった。窓の外へ一度視線をやり、それから言葉を選ぶように、わずかに眉を寄せる。
「それは、これからご相談しようと思っていました。窓の外をご覧ください」
促されるまま窓の外へ視線を向けた瞬間、アイリスは息をのんだ。
「……あれは」
なだらかな丘が、遠くに見える。昔、村の外れからいつも見上げていた丘だ。
春になると斜面に白い花が咲いた。子どものころは、あの丘の向こうへ行けば、どこか別の世界につながっているのではないかと思っていた。
「……あの丘は、たぶん私の故郷です」
エヴァンは静かに頷く。
「はい。ここから右へ少し進むと、アイリス様の故郷があります」
窓の外には、丘の手前に広がる町並みが見えていた。けれど、それはアイリスの記憶にある小さな村の姿とはまるで違う。
土の道は石畳に変わり、低い木造の家々が並んでいた場所には、二階建ての石造りの建物が建ち並んでいる。店先には色とりどりの布や果物が並び、荷車が行き交い、道端では子どもたちが走り回っていた。
「ただ……おそらく、アイリス様が覚えている姿とはまったく違うと思います」
エヴァンの声は、いつもより慎重だった。
「故郷を訪れたいお気持ちも、もちろんおありでしょう」
エヴァンはそこで言葉を切った。窓の外を見つめるアイリスの横顔をうかがい、続きが彼女を傷つけないか迷うように、わずかに視線を伏せる。
「ただ……アイリス様の記憶にあるものが、何も残っていなかったら。かえって寂しい思いをなさるのではないかと、考えていました」
膝の上で組んだ手を、エヴァンはそっと握り直した。
「ここから左へ行けば、百年前の景観を多少は保存している歴史都市があります。先にそちらをご覧になってからにすることもできますが……」
最後に彼は、まっすぐアイリスへ視線を戻す。
「アイリス様は、どうなさりたいですか?」
アイリスは、もう一度窓の外を見た。
見覚えのある丘と、その手前に広がる見知らぬ町。
「もちろん、見てみたいですよ」
アイリスは、あっさりと言った。
「百年経ってるんですから、変わってて当然でしょう? むしろ、変わってなかったら不気味です」
「……そうですね」
エヴァンは、少しだけ探るような目でアイリスを見た。
「わかりました。では、右へ」
御者へ指示が伝えられ、馬車は石畳の続く道へと入っていった。
近づくほどに、町のにぎわいがはっきりと見えてくる。かつては畑と古い井戸、それから領主の屋敷くらいしかなかった。市場が立つのは月に一度、行商人が来るときだけだった。
それが今は、常設の店が並び、人々の声が絶えず聞こえている。
「ずいぶん、栄えていますね」
「アイリス様の故郷ということで、観光客も来るようになりましたから」
「私、百年寝ていただけなのに、地元の名物扱いなんですね」
思わず漏れた言葉に、エヴァンが小さく笑った。
「大聖女様が生まれ、瘴気を浄化する旅に出た土地です。勇者ルークと大聖女アイリスの物語に憧れて、この町を訪れる人もいるのだとか」
「光栄ですね」
アイリスは、努めて明るく言った。
自分が犠牲を払った土地が、今は人の声で満ちている。それは間違いなく喜ぶべきことだ。眠りにつく前から、そうなってほしいと願っていた。
だから、これは想像していた通りの、良い結果でしかない。
そのはずだった。
*****
馬車が広場の脇で止まり、アイリスはゆっくりと降りた。
まず、懐かしい匂いを探した。
湿った土の匂い。干した麦の匂い。夕方になると家々から流れてきた、野菜の煮込みの匂い。
けれど、どれも少しずつ違う。
香辛料を利かせた肉料理の匂い、焼き菓子の甘い香り、店先で売られる果物の青い香り。百年前に知っていたものは、もうどこにもなかった。
かつて毎朝水を汲みに行った井戸があったはずの場所には、小さな噴水が作られていた。木の桶を抱えて歩いた細い道は広げられ、見覚えのない店が軒を連ねている。
「……あれは、領主様のお屋敷でしょうか? 昔はあそこにありました」
アイリスは、町を見下ろす小高い場所を指さした。
そこには今も、大きな屋敷が建っている。建物そのものは新しくなっていたが、周囲より少し高い土地にあるため、場所だけは間違えようがなかった。
「行ってみますか?」
「はい。何があるわけでもないと思いますけど」
二人で坂を上る。
屋敷の門の近くでは、七つか八つほどの子どもが、木の棒を剣代わりにして遊んでいた。
「勇者ルークだぞ!」
「じゃあ、俺は大聖女様!」
「大聖女様は男じゃないだろ!」
騒がしい声に、アイリスは思わず足を止めた。
百年前の自分たちが、子どもの遊びの中の英雄になっている。
あまりにも現実味がなくて、少し笑いそうになった。
その中に、一人だけ妙に見覚えのある顔立ちの男の子がいた。丸い目元と、笑うと片方だけにできるえくぼ。百年前の領主の息子も、たしかそんな顔で笑っていた。
アイリスは、ためらいながら声をかけた。
「ねえ。あなた、お名前は?」
木の棒を振っていた男の子が、きょとんとアイリスを見上げた。
「フェリクス・ヴェルダン!」
「ヴェルダン……」
やはり、同じ名字だった。
「ひいおじいさまのお名前は、知ってる?」
「ひいおじいちゃん?」
男の子は少し考えてから、勢いよく首を横に振った。
「わかんなーい!」
「そうよね」
アイリスは笑った。
「ひいおじいちゃんでもわからないなら、ひいひいおじいちゃんなんて、もっとわからないわよね」
男の子は意味がわからないらしく、不思議そうに首を傾げたあと、すぐに友達のところへ走っていった。
その小さな背中を見送りながら、アイリスはしばらく何も言わなかった。
手にしていたスカートの端を、無意識に指先でつまむ。その横顔を見たエヴァンが、周囲を見回してから、静かに問いかけた。
「アイリス様がお望みなら、今日中に次の街へ向かうこともできますよ」
アイリスははっとして、エヴァンを見上げた。
「気を遣わせてしまいましたか?」
「そういうわけでは」
「わかっていたことですから、大丈夫ですよ」
なるべく軽く言ったつもりだった。
けれど、エヴァンはすぐには頷かなかった。
アイリスは、先ほどの男の子が友達と剣を振り回している姿へ目を戻す。
「長い眠りにつくのなら、目が覚めたときにはもう誰もいないかもしれない。それくらい、やる前からわかってました」
「……アイリス様」
「むしろ、こうして村が栄えているのを見られただけ、私はラッキーですよ。後悔していません」
一度だけ息を吸い、アイリスは早口で続けた。
「最悪の最悪、あなたも、さっきの子も、私の知っている人の子孫だとわかる人間が、誰も残っていない時代に目を覚ます可能性だってあったんですから」
「……そうですね」
エヴァンの声は穏やかだった。否定も肯定も急がず、ただアイリスの言葉を受け止めるような声音だった。
アイリスは笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。
そんな彼女の手を、エヴァンがそっと取る。
「おこがましいかもしれませんが、僕が代わりにはなれませんか?」
「エヴァン様……」
「ご家族や、昔のご友人の代わりになれるとは言いません」
エヴァンは、握った手を強くしすぎないように、けれど離さないように包み込んだ。
「でも、これから先、アイリス様が知らない時代を進むときに。僕が隣を歩けたら、これ以上ない幸せです」
アイリスは、いつものように笑って受け流すはずだったのに、言葉が出てこなかった。
「嬉しいことがあったときも、寂しくなったときも、思い出を話したくなったときも。僕は聞きます。知らないものを見つけたら、一緒に驚きます」
エヴァンは、ためらうようにアイリスの手へ触れ、それからそっと指を重ねた。
胸の奥で、何かがほどけるような気がした。
百年前の故郷は、もうない。孤児院の友人も、ルークも、ここにはいない。
わかっていたはずの事実が、町を歩くたび、知らない匂いを吸い込むたび、少しずつ形を持って胸に積もっていたのだろう。
「……ずるいです」
「何がですか」
「そんなふうに言われたら、平気なふりができなくなるじゃないですか」
エヴァンは、少しだけ目を細めた。
「平気なふりをしていただかなくても、困りませんよ」
アイリスは、ためらいながらもぽつりとつぶやく。
「少しだけ、寂しかったです」
「はい」
「でも、それだけです。ちゃんと村が栄えているのを見られて、私は嬉しいんです」
「わかっています」
エヴァンは静かに頷いた。
「寂しいことと、嬉しいことは、同時にあっていいと思います」
アイリスは、握られた手を握り返した。
「では、もう少しだけ歩いてもいいですか?」
「もちろんです」
二人は並んで歩き出した。
石畳を踏むたび、つないだ手から伝わるぬくもりが、確かにそこにあるとわかる。
——今日はもう少しだけ、このぬくもりに包まれていたい。そんなことを思う自分がいるなんて、いったいどうしてしまったのだろう。




