あの手を取っていたなら
アイリスは、ルークと旅をしていたころのことを思い出す。
「どんどん瘴気が濃くなっていますね。たぶんこのあたりにほころびがあります」
「普通の人間は瘴気が濃くなると体調が悪くなるらしいけど、俺は瘴気耐性持ちだから全然わからないよ。アイリスは、瘴気が目に見えるんだよね?」
「そうですよ。実際にほころびは見たことがないですが、何百年か前の聖女様の記録によれば、うずまきみたいな感じに見えるのだとか」
「ほころびを閉じるっていうのは、どうやるの?」
「それも伝承によると……手をかざして祈れば……。なんか自信なくなってきました」
「根拠はないけどさ、アイリスならきっとやれるよ」
ルークが軽く肩をポンと叩く。
「適当なこと言わないでください~!」
アイリスが声を上げると、ルークは可笑しそうに笑った。むっとした顔を作ってみせたものの、内心では、その適当な言葉が案外うれしかった。
「あっ、たぶんあそこです」
アイリスは森の手前を指さす。まがまがしい渦のような空間がそこに広がっているが、ルークの目には何も映っていないらしい。
「俺には何も見えないよ」
「手をかざして祈る……あ!本当にほころびが閉じていきますよ」
しばらく手をかざし続けたあと、アイリスはゆっくりと手を戻した。
「完了しました!意外と簡単です」
「何も変わったように感じないけど、アイリスが終わったというならそうなんだろ。それならもう街に戻れるのか?」
ほっとしたように息をつくルークに、アイリスは首を横に振った。
「……実はまだ任務は終わってません。というかここからが本番です」
「え?」
ルークの表情から、それまでの安堵が消える。
「本当は護衛の人にも最初に話す予定だったんです。でもあなただったから」
「ルークだから、楽しく旅をしたいなって思ってしまったんです」
ルークは、わけのわからないという顔でアイリスを見つめた。
好きだからそうしてしまった、とはさすがに言えなかった。最期に重いものを残していくのはさすがにかわいそうだ。
「たぶん、私はここで死んじゃいます」
その一言に、ルークの顔から一気に色が抜けた。
「このあたり、ほころびがあったところが一番瘴気が濃くて、遠くに行くに従って薄くなっていきます。だからここからありったけの瘴気を吸収して浄化するのが一番効率がいいって教会から言われています」
アイリスは荷物の中から小型の機械を取り出した。
「これ、教会から渡された『瘴気吸い取るくん』です。ふざけたネーミングですが」
「……大量の瘴気を吸い込んだら……死ぬっていうのか?」
ルークの声は、少しかすれていた。いつもの飄々とした調子はどこにもなく、どこか落ち着かない目で機械を見つめている。
「死ぬっていうか、眠るそうです。でもいつ目覚めるかはわかりません。数百年前の記録なので全く信用できないですが、昔の大聖女様は50年眠っていたけど無事に目が覚めたのだとか」
ルークはアイリスの持つ機械に手をかけた。まるでそれを取り上げようとするかのように。
「瘴気が流れ出しているほころびはもう閉じたんだろう?それならこのまま何もしなくてもそのうち瘴気は薄まるはずだ」
「自然に薄まるのを待つなら、それこそ100年単位で時間がかかっちゃいますねぇ」
アイリスは機械から手を離さなかった。
「それでもいいじゃないか」
ルークの声には、初めて聞くような焦りがにじんでいた。
「教会に言われたのもありますが、この地を去らなければいけなかった人たちが戻ってきて喜んでいるところを見たいんです。あ、私は眠ってるので見れませんが。それはルークも同じでしょ?」
「同じだが、それでアイリスが犠牲になる必要はないよ。教会の言うことなんて無視すればいい。一緒に逃げよう」
その言葉に、アイリスは思わず口をつぐんだ。うれしい、と思ってしまった自分に驚く。
——それって私が好きだから? それとも、ただの同情?
「決心が揺らぐことばっかり言わないでください。もうスイッチ押しますね」
「まっ……」
ルークが何かを叫んでいるようだったが、もうアイリスには聞こえなかった。大量の瘴気が体に流れ込んでくるのがわかる。不快な気分ではなく、案外心地よい。
アイリスは薄れゆく意識の中で、昔々の大聖女が残した研究を思い出していた。浄化のスキルは、正確には転化と呼ぶべきものであって、聖女の体の中で瘴気をエネルギーに変えていく。それゆえに、眠りながらも死なずに生命を維持することができるという。
——あぁ、もうだめ。あたたかくて、眠ってしまう……。
*****
がたん、と車輪が石を跳ねる音で、アイリスは意識を引き戻された。
馬車の反対側に座るエヴァンを、アイリスはまじまじと見つめる。垂れ気味の目元も、癖のある髪も、ルークとよく似ている。
自分があの手を取らなかった結果、いまこんなへんてこな状況になっているのだ。人生は本当にわからない。
もし、あのときルークの手を取っていればどうなっただろう。ほころびを閉じて、それで終わりにしていれば。彼の隣にいたのは私だったかもしれない。考えても仕方のないことだけど。
止めてくれたのが愛情からだったのか、同情からだったのかすらも、いまとなってはわからない。
「その顔は、またルークのことを考えてますね?僕、顔は似てるってよく言われるんですよ」
「似てるけど性格は全然違いますよ。ルークはどちらかというと無口だったし。でもあなたのおしゃべりなところ、私は嫌いじゃないですよ」
エヴァンは一瞬きょとんとしたあと、耳まで赤くして、嬉しさを隠しきれない様子で身を乗り出した。
「今、嫌いじゃないって言いました?」
「あくまで、『嫌いじゃない』ですよ。『好き』とは言ってませんよ」
「僕は一生忘れません」
大喜びのエヴァンを見て、アイリスはやれやれと肩をすくめたが、口元は少しだけ緩んでいた。




