もう眠らない
「山を一気に登ったから……息が切れる……」
アイリスは、木の根を踏み越えながら山道を駆け上がった。
息が苦しい。
脚も重い。
それでも、足を止めることはできない。
こんなにも必死になってしまうのは、なぜだろう。
もう自分は、教会に仕える大聖女ではないはずだった。誰かに命じられているわけでも、犠牲を求められているわけでもない。
それでも、村人たちの苦しむ姿を思い浮かべるだけで、胸の奥がひどく落ち着かなくなる。
——長年の聖女教育が、こんなところまで染みついているのかもね。
アイリスは、その答えを深く考える余裕もないまま、ただ足を動かし続けた。
「あ、あった」
木々が途切れた先。
岩肌の目立つ山頂に、黒い渦が浮かんでいた。
空間そのものがねじれたような、禍々しい渦。
「まずは、これを閉じて」
アイリスは渦へ両手をかざし、浄化の力を流し込んだ。
淡い光に包まれた黒い渦は、ほどけるように縮み、間もなく消えた。
「よし。二回目だし、完璧ね」
アイリスは肩を落として、その場で少しだけ呼吸を整えた。
だが、ほころびを閉じただけでは足りない。
すでに漏れた瘴気が、山や畑や、村人の身体に残っている。
アイリスはポケットから、銀色の神器を取り出した。
「あとは、瘴気吸い取るくん、じゃなかった。浄魔器セラフィエルで……」
「何、やってるんですか?」
背後から聞こえた声に、アイリスの手が止まった。
振り返る。
そこには、肩で激しく息をしながら立つエヴァンがいた。
髪は乱れ、旅装には草の葉がついている。崖の下を探していたはずなのに、こちらまで走ってきたらしい。
「エヴァン様!?」
「何を、やっているんですか」
再度問いかけたエヴァンは、さっきよりもずっと怖い顔だった。
アイリスは反射的に、神器を背中側へ隠した。
「何って……私の勘違いでした。ほころびは崖の下ではなく、こちらにあったみたいです」
「その手に持っているものは?」
「ええと」
「アイリス様」
エヴァンが近づいてくる。
アイリスは一歩だけ後ずさった。
けれど、すぐに手首をつかまれた。
強くはない。
でも、逃がすつもりがないことは伝わった。
「さっき言った通りです」
アイリスは、なるべく平然とした声で言った。
「いまさら一年二年眠ったところで、変わりませんから」
「僕は絶対に嫌ですから」
「でも」
エヴァンは、アイリスの手から神器を取り上げた。
「ほころびはもう閉じたのでしょう。なら、瘴気がこれ以上増えることはない。まず村人を瘴気が濃い場所から隔離します。具合の悪い人には王宮から医師を呼ぶ。教会にも使いを出して、ほかにも浄化のスキルを持っている人を呼びます」
「でも、浄化のスキル持ちはほとんど生まれないので……」
「わかっています。だから前から探していました」
エヴァンは、息を切らしながらも早口で続けた。
「スキル判定は高額ですし、庶民は強いスキルなんて持っていないと思って受けないことが多いでしょう? なので王宮の費用で無料判定の仕組みを作って、領主にも協力を頼んで国中から探しています。封印のスキル持ちも数人見つけています。見つからなければ、空気ごと瘴気を閉じ込める結界を作ればいいのです」
アイリスは、思わず目を見開いた。
「……前から、そこまで?」
「アイリス様が、もう一度眠らなくて済むようにです」
その言葉に、アイリスは黙り込んだ。
「これは、僕が勝手に始めたことではありません」
「勇者ルーク様が残した遺言です。次に災いが起きたとき、浄化の力を持つ誰か一人へ、同じ役目を背負わせてはならないと」
アイリスは息をのんだ。
百年前の自分は、瘴気を見つければ自分が浄化し、村が苦しめば自分が眠るものだと思っていた。
大聖女なのだから。
ほかに方法を探すことは、逃げることだとさえ思っていた。
けれど、ルークは違った。
アイリスが眠ったあとも、次に同じ困難が訪れたときのために道を探していたのだ。
その道を今も、エヴァンが継いでくれている。
——ルークが差し出してくれた手を、本当は取りたかった。今度は、そうできる。
アイリスはその場にへたり込んだ。
「私も本当は……もっといろんなことがしてみたいと思っていました」
声が、震えていた。




