未来に向かって
その後も、アイリスはエヴァンとともにいくつかの街を見て回った。
そして最後に、アイリスが眠った場所、つまりかつての瘴気の中心へたどり着いた。
そこは、どこまでも続く花畑になっていた。
風が吹くたび、色とりどりの花が波のように揺れる。あの日、すべてを飲み込もうとしていた瘴気の痕跡は、もうどこにも残っていなかった。
しばらく花畑を眺めていたアイリスへ、エヴァンが一通の手紙を差し出した。
「勇者から大聖女への手紙として代々王家で保管されていたものです」
「中身は、まだ誰も見ていません」
エヴァンはそれだけ告げた。
アイリスは封筒を受け取り、宛名に目を落とした。
見覚えのあるルークの筆跡だった。
けれど封筒の紙は、端が少し黄ばんでいた。何度も持ち運ばれたのか、折り目には細かな傷もある。
アイリスにとっては、あの日のことはつい昨日のようだった。
それなのに、この手紙だけが、彼女の知らない年月を静かに示していた。
アイリスはエヴァンから少し離れ、一人になれる場所で封を切った。
*****
アイリスへ
あの日、私は君を背負って教会へ戻った。
目を覚まさない君を前にして、何度も自分を責めた。君をあの場所へ連れて行ったことも、君の決意にまったく気づかなかったことも。
教会は、何百年経とうとも君を保護すると約束してくれた。
その代わりに、俺は教会の求めに応じて王位につくことになった。国をまとめる象徴として、「勇者」が都合よかったらしい。
即位してからは、復興だけを考えてきた。ほかのことを考える余裕はなかった。それが、君への感謝を示すことにもなると思ったからだ。
だが、年齢を重ねるにつれて、結婚を求める声が強くなった。
王には世継ぎが必要だ。俺が倒れれば、国はまた揺らぐ。そう言われれば、否定はできない。
だが、それだけではない。
俺自身も、ひとりで生きることに耐えられなくなってきた。
すまない。
たとえ俺が生きている間に君が目覚める見込みがほとんどないとしても、君を待っているつもりだった。だが、君を待ち続けることはもうやめようと思う。
いつか君が目を覚ましたとき、その先の人生が幸せに満ちたものであることを、心から祈っている。
*****
アイリスは、手紙を読み終わってもしばらく見つめていた。
紙は古びて黄ばんでいるのに、ルークの字だけは、昨日書かれたもののように目に焼きつく。
何度も見たはずの筆跡だった。野営の当番を決めるときも、食料の残りを数えるときも、彼はいつも少しだけ右上がりの字を書いた。
「……すまないって、何」
口にすると、思ったよりも間の抜けた声になった。
アイリスは短く息を吐いた。笑いそうになったけれど、うまく笑えなかった。
手紙を胸元へ下ろし、花畑の向こうで待つエヴァンのもとへ歩いていく。
「エヴァン様」
「はい」
「王家のお墓は、どちらですか?」
エヴァンは問いの意図を測りかね、不思議そうにアイリスを見た。
「ここは王都ですので……方角としては、あちらです」
アイリスは、エヴァンの示した方向を確かめるように見た。遠く離れたところに小高い丘が見えた。
「じゃぁ、ちょっと叫びますけど、気にしないでくださいね」
そう言って息を大きく吸い込む。
「謝んなよ、バカヤロー!」
突然の声に、エヴァンが目を丸くした。
アイリスは両手を振り上げ、遠くの丘へ向かって叫んだ。
「好きな人の幸せを願わない女だと思ったかー! あなたの幸せが私の幸せに決まってるだろー!」
言い切った瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、少しだけほどけた。
涙が出そうだった。
だからアイリスは、泣く代わりに手紙を細かく破った。
一枚、また一枚。
ルークの字が、指先の間で小さな紙片に変わっていく。
風が吹き込み、アイリスの手のひらから紙片をさらっていった。
ひらひらと舞い上がったそれらは、空へ溶けるように散っていく。
「……すっきりした」
アイリスがそう言うと、エヴァンは心配そうに彼女の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫ですか」
「元気いっぱいですよ」
そう答えながら、アイリスは目元を指先でぬぐった。泣いたわけではない、と言い張るには少し遅かったかもしれない。
「伝えられている曾祖父の人柄からすると、真面目な内容の手紙だったのだと思っていましたが……まさか『バカヤロー』と言われるとは」
「真面目な内容でしたよ。それでも、バカヤローと言いたいときはあるんです」
エヴァンは少し迷うように黙り、それから咳払いをした。
「……こんなことになるとは思っていませんでしたが」
「はい?」
「その手紙をお見せして、それから改めて伝えようと思っていたんです」
エヴァンはまっすぐにアイリスを見た。
「どうか僕と、この先の人生を一緒に歩んでください」
アイリスは一度だけ目を伏せ、それから小さく苦笑した。
「それなら、もう何度も伝えてもらっています」
アイリスは、まだ空を舞っている紙片を見上げた。
「前向きに考えます。今は、そのくらいでいいですか?」
「もちろんです」
迷いのない返事だった。
その瞬間、エヴァンの表情がぱっと明るくなった。隠しきれない喜びが、そのまま顔に出ている。
そんな彼を見て、アイリスも笑顔になる。
「私は平民生まれで、平民育ちです。いきなり王妃になるなんて、簡単に答えを出せませんからね」
それから、風に乗って遠ざかる紙片へ目を向ける。
「エヴァン様は、あなたに少し似ている人」
エヴァンに背を向けて、小さくつぶやいた。
「でも、あなたの代わりじゃないよ」
目元をぬぐい、アイリスは小さく笑う。
「……天国でまた会えたら、愛する人のひいおじいさまとしてご挨拶させてくださいね」
風に散る紙片は、もうほとんど見えない。
「あなたのひ孫は、ずいぶん強引でおしゃべりです。でも、とても優しい人でしたって」




