その執着は何なの?
「アイリス様、こちらへどうぞ」
侍女たちに促されるまま、アイリスは豪奢な部屋に通された。数人がかりで衣装棚が開けられ、見たこともないような布地のドレスが次々と並べられていく。
「ちょ、ちょっと待って。私、ほんとただの平民なんで、こんな大層なものは」
「アイリス様は大聖女様であらせられます。どうぞご遠慮なさらず」
辞退しようとする声は、慣れた手つきの侍女たちにあっさりとかき消された。あれよあれよという間に着替えさせられ、髪を結われ、鏡の前に立たされる頃には、アイリスはすっかり諦めの境地に達していた。
鏡の中の自分は、まるで知らない誰かのようだった。銀色の髪は複雑に結い上げられ、身にまとうドレスは、生地一枚だけで平民の一年分の稼ぎを軽く超えそうな代物だ。
——こんなの、着たことなかったな。
物心つく前に孤児院に引き取られたアイリスは、浄化のスキルを持つと判明した十歳の頃から「聖女候補」として特別扱いされてきた。とはいえ、その生活は華やかさとは無縁で、庶民の暮らしとほとんど変わらなかった。
朝は経典と祈祷の型を叩き込まれ、昼は浄化の力を制御する鍛錬に汗を流し、夜は歴代聖女がどのように瘴気を祓ってきたかという記録を、寝る間も惜しんで勉強していた。粗末な麦のパンとスープが定番で、装飾品や菓子が入り込む余地などなかった。
教会の重鎮は「清貧の中でこそ力が研ぎ澄まされる」とよく口にしていたが、その裏で自分たちだけはこっそりと上質な酒や毛皮を取り寄せていることに、アイリスは薄々勘づいていた。
旅に出た後も、装いは常に簡素な聖衣一枚だった。荒野を歩く任務に、ひらひらしたドレスなど邪魔にしかならない。だから今、鏡に映る姿は、生きてきたどの瞬間にも存在しなかった異質なものだった。
「アイリス様、いかがでしょうか。とてもお似合いです」
「あ、はい……自分じゃないみたいで落ち着かないですが」
正直に漏らすと、侍女たちは顔を見合わせて微笑んだ。
「アイリス様の時代はこのような装いではなかったのですか? すぐに慣れますよ」
——いや、そうじゃなくて。私、本当の本当に庶民なんだけどな~。孤児院育ちの勉強漬けの人間が『大聖女』なんて普通思わないか……。
そう思いながらも、説明するのも面倒で、アイリスは曖昧に笑ってやり過ごすことにした。
*****
「エヴァン様はすでにいらっしゃっています」
ドレスに着替えたアイリスが侍女たちに案内された食堂には、すでにテーブルにつくエヴァンの姿があった。アイリスの姿を見た瞬間、彼は椅子から立ち上がり、大げさなほど目を輝かせる。
「なんて美しいんだ……いえ、あなたは元々お美しいのですが、その装いがまた一段と」
「はぁ……まぁ、ありがとうございます」
質素な服しか着たことがなかったが、侍女たちに髪を整えられ、上等なドレスを着せられてみると、鏡の中の自分はいつもより少しだけましに見えた。
——もしかすると、ちょっとくらいはかわいいのかもしれない。だからといって、彼があそこまで目を輝かせる理由にはならない気がする。
アイリスの気のない返事にも構わず、エヴァンは席を勧めながら熱心に語り続ける。
「僕はずっと、あなたにお会いできる日を夢見てきました。物心つくくらいのころから、あこがれ続けていたんです」
その言葉には迷いも照れもなく、まっすぐすぎて逆に落ち着かない。アイリスは食前酒のグラスを口元に運びながら、げんなりした表情を隠しきれなかった。
——このやり取り、いつまで続くの! もう、はっきりきっぱり言ってしまいたい!
この数日、似たような言葉を何度もかけられてきたが、その度にアイリスは「そうですか」とだけ返して聞き流してきた。今日も同じように最初は受け流していたが、さすがに我慢の限界だった。
アイリスは小さく息をついてから、グラスを置き、おずおずと切り出した。
「あの……なぜそんなに私のことが好きなんでしょうか? お会いしたことは、当然ありませんよね?」
エヴァンは口元をほころばせると、まるでその質問を待っていたかのように姿勢を正した。「よく聞いてくれました」と言わんばかりに、瞳をきらきらと輝かせる。
「実は……子どもの頃の話なんです」
彼はゆっくりと語り始めた。
「僕のスキルは『幸運』でした。日常生活で、ちょっといいことが起きるというだけの……。王族としてはずいぶん華のないスキルだと、幼い頃はよく悩んだものです。周りの従兄弟たちは剣術や魔法の才に恵まれていて、僕だけが何も持たない気がしていました」
落ち込むたびに、人目を避けるように聖堂に足を運んでいたのだという。誰もいない、静かな棺の前だけが、当時の彼にとって唯一安心できる場所だった。
「ある日、いつものように棺の前でぼんやりしていて、つい口に出してしまったんです。『幸運って言うなら、僕が生きている間にこの人が起きればいいのに』って。それで、こっそりガラスの覆いを開けて頬に触れたら」
エヴァンは懐かしむように目を細めた。
「アイリス様が、ほんの少し微笑んだように見えたんです。気のせいかもしれません。でも、初めて見たときよりも血色がよくなっている気がして、近いうちに目覚めるんじゃないかって、勝手に予感したんです」
それからというもの、彼の中で一つの夢が生まれた、らしい。
アイリスはその話を黙って聞いていた。幼いエヴァンにとって、眠り続ける大聖女が心の支えになっていたことは理解できる。自分の目覚めを願ってくれていたことも、悪い気はしなかった。
けれど、それは本当に「アイリス」を好きだったということになるのだろうか。
エヴァンが知っているのは、棺の中で眠っていた大聖女の姿と、王家に語り継がれた伝説だけだ。孤児院の麦粥に飽きていたことも、教会の重鎮たちを内心で胡散臭いと思っていたことも、荒野で何日も歩かされると口が悪くなることも、彼は何ひとつ知らない。
——むずむずする……もう言っちゃえ!
せっかく侍女たちが整えてくれたドレスのスカートを、膝の上で無意識に握りしめながら、アイリスは俯きがちに口を開いた。
「それ、全然うれしくないです」
エヴァンの笑みが、ぴたりと止まった。
「……え?」
「だって、エヴァン様は私のことを知って好きになってくれたわけじゃないですよね。好きなのは、眠っていた大聖女とか、昔の伝説の中の私で……今ここにいる私ではないんじゃないですか」
言ってしまってから、さすがに言い方がきつかったかもしれないと思う。相手はこの国の王子。一方自分は目覚めたばかりで今の時代のことは右も左もわからない身だ。アイリスは慌てて視線を伏せた。
「その、責めたいわけではなくてですね。貴族の方がどういうふうに結婚を決めるのかは知りませんけど、庶民は恋愛結婚が多いんです。だから私も、私のことをちゃんと知って、それでも好きだって言ってくれる人がいい……んです」
言葉を重ねるにつれて、アイリスの声はだんだんと小さくなっていった。
最後まで言い切ると、アイリスはおそるおそるエヴァンの反応をちらりとうかがった。
なろう異世界ファンタジーフェス! 2026用なので、10月13日までに完結予定です。
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