第7話 弟
その日の朝。
ココアは、
いつもと違う音で目を覚ました。
廊下を走る足音。
何人もの使用人が、
慌ただしく行き交っている。
「……?」
ベッドの上で身体を起こす。
また。
パタパタパタ――。
誰かが走っていった。
「ヒルダ?」
返事はない。
いつもなら、
そろそろ部屋へ来る時間だった。
ココアはベッドから降りる。
寝間着のまま、
扉を少しだけ開けた。
右を見る。
左を見る。
使用人が、
大きな布を抱えて廊下を急いでいる。
「どうしたの?」
「あっ。」
使用人が足を止めた。
「コ、ココア様。」
「おはようございます。」
「おはよう。」
「みんな走ってる。」
「何かあったの?」
「それは……。」
使用人が困ったように笑う。
「もう少々、お待ちくださいませ。」
「?」
教えてくれない。
ココアは首を傾げた。
その時。
廊下の向こうから、
ヒルダが歩いてきた。
「ココア様。」
「ヒルダ!」
ココアが駆け寄る。
「どこ行ってたの?」
「奥様のお側へ。」
「お母様?」
「はい。」
ヒルダが膝を折り、
ココアと目線を合わせた。
いつもより、
少しだけ表情が柔らかい。
「ココア様。」
「なに?」
「弟君がお生まれになりました。」
「……。」
ココアが瞬きをする。
「おとうと?」
「はい。」
「ココア様は今日から、お姉様でございます。」
「……。」
数秒。
意味を理解するまで、
少し時間がかかった。
そして。
「見たい!」
ヒルダは思わず笑った。
「まずはお着替えをいたしましょう。」
「今!」
「お着替えが先です。」
「ちょっとだけ!」
「駄目です。」
「……。」
「そのお顔をされても駄目でございます。」
「はーい……。」
◇
着替えを終えたココアは、
ヒルダに手を引かれ、
母の部屋へ向かっていた。
「走ってはいけません。」
「走ってないよ。」
「先ほどから、ほとんど走っております。」
「早歩き。」
「もう少しゆっくりお願いいたします。」
「はーい。」
返事とは裏腹に、
足は速い。
やがて、
母の寝室へ着く。
ヒルダが扉を開けた。
「失礼いたします。」
部屋の中には、
柔らかな朝の光が差し込んでいた。
ベッドには、
母が横になっている。
その腕の中。
白い布に包まれた、
小さな赤ん坊。
「……。」
ココアの足が止まった。
さっきまでの勢いが、
嘘のように消える。
「ココア。」
母が微笑んだ。
「いらっしゃい。」
ココアは、
ゆっくり近付いた。
「お母様。」
「ええ。」
「この子?」
「そうよ。」
「あなたの弟。」
ココアは、
そっと覗き込んだ。
「……小さい。」
母が笑う。
「あなたも、このくらいだったのよ。」
「私も?」
「ええ。」
「こんなに?」
「こんなに。」
ココアは、
信じられないという顔で赤ん坊を見る。
小さな顔。
閉じた瞼。
さらに小さな手。
時折、
指がぴくりと動く。
「触っていい?」
「優しくね。」
「うん。」
ココアは、
恐る恐る人差し指を近付けた。
小さな手へ、
そっと触れる。
その瞬間。
きゅっ。
「……!」
赤ん坊の指が、
ココアの人差し指を握った。
「お母様!」
「握った!」
「ふふ。」
「お姉様だと分かったのかもしれないわね。」
「ほんと?」
「どうかしら。」
ココアは、
握られた指をじっと見る。
小さい。
弱い。
なのに、
ちゃんと力がある。
「……。」
そして。
いつものように、
意識を向ける。
弟の身体にも、
元素がある。
水素。
炭素。
酸素。
窒素。
数え切れないほどの元素が、
複雑に結び付いている。
けれど。
「……すごい。」
「どうしたの?」
母が尋ねる。
「いっぱい……。」
言いかけて。
ココアは口を閉じた。
ヒルダを見る。
目が合う。
ヒルダは、
何も言わなかった。
けれど。
その視線だけで思い出す。
自分に見えているものは、
他の人には見えていない。
「なんでもない。」
ココアは、
もう一度弟へ視線を戻した。
石とも違う。
水とも違う。
落ち葉とも違う。
あまりにも複雑で。
絶えず変化している。
知りたい。
純粋に、
そう思う。
どうして、
同じ元素から、
これほど複雑な生命が作られるのか。
どのような結合が、
この小さな身体を形作っているのか。
疑問なら、
いくらでも浮かんでくる。
けれど。
生きているものは、
実験材料ではない。
まして、
自分自身でさえ、
まだ理解できていない力を使うなど、
あり得なかった。
ココアは、
弟に握られている自分の指を見た。
「……かわいい。」
ぽつりと、
言葉が漏れた。
母が目を細める。
「でしょう?」
「うん。」
ココアは、
少しだけ笑った。
◇
「ココア。」
声がした。
振り返ると、
兄が部屋へ入ってきた。
「お兄様。」
「もう見たのか。」
「うん!」
ココアは、
握られたままの指を少し持ち上げる。
「見て。」
「離してくれない。」
兄が近付いて、
赤ん坊を覗き込む。
「……本当だ。」
「私のこと分かってるのかな?」
「生まれたばかりだぞ。」
「じゃあ、なんで握ってるの?」
「知らん。」
「お母様は、お姉ちゃんって分かったのかもって。」
「母上はそう言うだろう。」
「むぅ。」
ココアが頬を膨らませる。
母が、
小さく笑った。
「あなたも触れてみる?」
「……はい。」
兄が、
少しだけ緊張した様子で手を伸ばす。
赤ん坊の頬へ、
そっと触れる。
「……柔らかい。」
「でしょ?」
「なぜお前が自慢する。」
「お姉ちゃんだから。」
「俺も兄だ。」
「あ。」
「今、忘れていただろう。」
「忘れてない!」
母が笑う。
ヒルダも、
僅かに口元を緩めていた。
いつもより少しだけ賑やかな部屋で。
赤ん坊だけが、
何も知らず眠っていた。
◇
しばらくして。
赤ん坊が小さく口を開けた。
「ふぁ……。」
「あくびした!」
「赤ん坊もあくびくらいする。」
「小さい。」
「何がだ。」
「あくび。」
「……そうか。」
「うん。」
ココアは真剣だった。
兄は、
少し呆れたように弟を見る。
そして。
「名前は?」
母へ尋ねた。
「まだ決めていないの。」
「これからお父様と相談するわ。」
「まだないの?」
ココアが弟を見る。
「ええ。」
「もう少しだけ待ってあげて。」
「そっか。」
ココアは、
少し考える。
そして。
弟へ顔を近付けた。
「じゃあ。」
「名前が決まったら、一番最初に呼んであげる。」
母が微笑む。
「お願いね。」
「うん!」
その声に反応したのか。
偶然なのか。
小さな手が、
また。
きゅっ。
ココアの指を握った。
「……!」
ココアの顔が、
ぱっと明るくなる。
「お兄様!」
「分かった。」
「まだ何も言ってない!」
「握ったんだろう。」
「うん!」
兄が、
小さく笑った。
「よかったな。」
「うん。」
◇
その日の午後。
ココアは机へ向かっていた。
目の前には、
いつもの紙。
羽根ペンを持つ。
「……。」
何を書こう。
少し考える。
そして。
『今日、弟が生まれた』
そこまで書いて、
手が止まった。
いつもの記録なら。
観察したもの。
分かったこと。
疑問。
次に調べること。
そうやって、
順番に書いていく。
でも。
今日は、
少し違った。
『小さかった』
『指を握った』
『あくびも小さかった』
読み返す。
「……。」
研究記録には、
なっていない。
それでも。
消そうとは思わなかった。
その下へ、
もう一行。
『かわいかった』
ココアは、
しばらくその文字を見つめる。
「……うん。」
今日は、
これでいい。
羽根ペンを置く。
机の上には、
魔法について書かれた紙もある。
燃焼について書かれた紙もある。
調べたいことは、
まだ山ほど残っていた。
それでも。
今日は、
新しい紙を増やさなかった。
弟について書いた一枚を、
大切に机の端へ置く。
「私、お姉ちゃんか。」
少し嬉しそうに、
ココアは笑った。
その時だった。
――ボンッ!
「……?」
窓の外から、
鈍い音が響いた。
続いて。
「坊ちゃま!」
使用人の慌てた声。
「危のうございます!」
ココアは椅子から降り、
窓へ駆け寄った。
庭園。
少し離れた場所に、
兄が立っている。
その傍らには、
魔法の指導役らしき男。
「……お兄様?」
兄が、
右手を前へ突き出す。
その手のひらに。
小さな炎が、
ゆらりと灯った。
「……!」
ココアの目が、
大きく開く。
炎そのものではなく。
その周囲。
動き始めた、
無数の元素と結合へ視線が吸い寄せられる。
机の上。
一枚の紙が、
開いた窓から入った風に揺れた。
『どうすれば燃焼を止められる?』
ココアは、
窓辺から動かなかった。




