第87話 可能性を決めるのは誰だ
「ココア様。少々、困ったことになりまして」
朝から書類を抱えていたセバス先生が、珍しく難しい顔をしていた。
「どうしたの?」
「教師の応募者が一人、予定より早く到着されたのですが……庭で授業を始めてしまわれました」
「……授業?」
「ええ。門番が控えの間へご案内する途中、庭にいた子供たちに声をかけられたそうで。もちろん、使用人が付き添っておりますが」
私は窓から庭を覗いた。
大きな木の下に、子供たちが集まっている。その真ん中に、くたびれた上着を着た男の人が座っていた。
五十歳くらいだろうか。白いものが混じった髪を後ろで束ね、膝の上には古びた鞄を置いている。
「何を教えてるの?」
「それが、私にもよく分からないのでございます」
セバス先生が分からない授業?
それは、ちょっと気になる。
「先生、見に行こう!」
「ええ。まずは事情を伺いませんとな」
私は先生と一緒に庭へ向かった。
◇
「さて、困りましたね」
男の人は地面に三つの小石を並べていた。
「ここにパンが三つあります。お腹を空かせた子供が三人いる。どう分けましょう?」
「一個ずつ!」
男の子が元気よく答えた。
「そうですね。では、一人だけ昨日から何も食べていなかったら?」
「その子に二個!」
「残りの二人は?」
「半分ずつ!」
「なるほど。では、その二人も昨日から何も食べていなかったら?」
「ええーっ!」
子供たちが一斉に声を上げた。
「ずるいよ! あとから変えるんだもん!」
「そうですね。世の中には、あとから分かることもありますから」
男の人は楽しそうに笑った。
「では、どうしましょう?」
子供たちは顔を見合わせた。
そのとき、一番小さな女の子がおずおずと手を挙げた。
「……パン、もっとないの?」
男の人の手が止まった。
「ほう」
「だって、三つじゃ足りないんでしょ?」
「そうですね。では、どうすれば増やせるでしょう?」
「焼く!」
「小麦がなかったら?」
「買ってくる!」
「お金がなかったら?」
「……働く?」
「いいですね。ほかには?」
「畑で作る!」
「隣のおうちにもらう!」
「じゃあ、みんなでパンを作ればいい!」
次々と声が上がる。
男の人は一つひとつに耳を傾け、どの答えも笑わなかった。
「なるほど。いろいろな方法がありますね」
そう言って、三つの小石を拾い上げる。
「最初の質問を覚えていますか?」
「パンを三つに分ける!」
「そうです。でも、途中から皆さんは、パンを増やす方法を考え始めました」
「だって、足りないもん!」
「ええ。足りなければ増やす。分け方を変える。ほかの食べ物を探す。方法は一つとは限らないんです」
男の人は、最初に答えた男の子を見た。
「一個ずつ分けるという答えも、間違いではありませんよ」
「ほんと?」
「もちろん。ただ、誰がどれだけお腹を空かせているのか、それだけでは分からなかったでしょう?」
「うん」
「だから、考える前に聞いてみることも大切なんです。何が足りないのか。何に困っているのか。そして、自分が思いついた方法以外にも、何かないだろうか、と」
男の人は三つの小石を地面に戻した。
「さて、皆さん。もう一度、この三つを見てください」
子供たちは小石を囲んで、また話し始めた。
私は思わず、セバス先生の袖を引いた。
「先生……」
「ええ」
「この人、何を教えてるの?」
セバス先生は少し考えた。
「……考えること、でしょうかな」
そのとき、男の人がこちらに気づいた。
「おや。どうやら、お迎えが来たようですね」
◇
「オスカー・ベルンハルトです」
応接室に移ると、男の人は落ち着いた声で名乗った。
「ココア・フォン・アルヴェインです!」
「ええ。お会いできて嬉しいですよ、ココア様」
オスカーさんは丁寧に会釈した。
貴族を前にして緊張している様子はない。かといって、礼儀を知らないわけでもなさそうだ。
自然に相手の目を見て話す人だった。
「先ほどは、子供たちに授業をしていただいたようで」
セバス先生が尋ねた。
「授業というほどのものではありません。待っている間に、少し話をしていただけですよ」
「ですが、ずいぶん楽しそうでした」
「私も楽しかったです。最後の女の子には驚かされました」
「パンを増やそうって言った子?」
私が聞くと、オスカーさんはうなずいた。
「ええ。私は三つのパンをどう分けるかと聞きました。でも、あの子は三つでは足りないことに目を向けた」
「それって、すごいことなの?」
「少なくとも、私が用意していた答えではありません」
オスカーさんは少し笑った。
「教える側が、教わることもあるんですよ」
なんだか、面白い人だ。
セバス先生が応募書類を広げた。
「ところで、ベルンハルト殿。こちらの職歴欄が空白になっておりますが」
「ああ。書きませんでしたね」
「実は、お名前を拝見したときから少々気になっておりまして。差し支えなければ、以前のお勤め先を伺っても?」
「王都魔法学院です。倫理学を教えていました」
セバス先生の手が止まった。
「……やはり、そうでしたか」
「ご存じでしたか」
「倫理学のオスカー・ベルンハルト殿。お名前は存じております。しかし、まさかご本人とは……」
私は二人を交互に見た。
「先生、有名な人なの?」
「王都の学問に関わる方々の間では、知られたお名前でございます」
「へえ……!」
オスカーさんは、少し困ったように笑った。
「昔の話ですよ。今は仕事を探している、ただの男です」
「それにしても、なぜ当領地へ?」
セバス先生が尋ねた。
「王都の学院で教えておられたのであれば、ほかにもお勤め先はあるのでは?」
「そうですね」
オスカーさんは私を見た。
「ですが、会ってみたい人がいたんです」
「どなたでしょう?」
「目の前にいますよ」
私は自分を指さした。
「……私?」
「ええ。ココア様です」
どうして?
「王都にも噂は届いています。魔力を持たない伯爵令嬢が、領地で次々と新しいものを生み出している、と」
「あ……」
「最初は、よくある大げさな噂だと思いました。ですが、商品を扱った商人たちの話を聞くと、どうやら本当らしい」
オスカーさんは、そこで言葉を切った。
「私は長いこと、人の可能性について考えてきました」
「可能性?」
「ええ。人は生まれた家や、持っている才能で、どこまでできるか決まってしまうのか。それとも、まだ別の道があるのか」
私は黙って聞いていた。
「もちろん、現実には難しいこともあります。魔力がなければ使えない魔法もある。お金がなければ学べないこともある。そこを無視して、努力すれば何でもできると言うつもりはありません」
オスカーさんは穏やかに続けた。
「ですが、できないことが一つあるからといって、ほかの可能性まで消えるわけではないでしょう?」
「……はい」
「あなたは魔力を持たない。けれど、魔法とは違う方法を探し、人々の暮らしを変え始めている」
私は少し恥ずかしくなった。
「でも、私一人じゃないです。セバス先生も、ヒルダも、職人さんたちも、みんなが手伝ってくれたから……」
「それは素晴らしい」
「え?」
「自分一人ではできないことを、ほかの人と一緒に実現する。それも立派な可能性ですよ」
私は思わず顔を上げた。
「……そうなの?」
「ええ。何でも一人でできる必要はありませんから」
オスカーさんは、当たり前のことのように言った。
「私はね、ココア様。あなたが何を発明したかだけでなく、どうして作ろうと思ったのかを知りたかったんです」
「どうして……」
「ええ。新しいものを作るとき、何を考えているのですか?」
「知らないことを知りたいって思います。こうしたらどうなるかなって、試してみたくなるんです」
「なるほど」
「それに、便利なものができたら、みんなの役に立つでしょう? 今まで大変だったことが、少しでも楽になったらいいなって」
「では、もう一つ伺いましょう」
オスカーさんは、静かに私を見た。
「あなたが作った便利な道具で、誰かが人を傷つけたとします。その道具を必要としている百人からも、取り上げますか?」
私は口を閉じた。
それは、簡単には答えられない質問だった。
「……まず、どうやって傷つけたのか調べます」
「ほう」
「道具そのものに問題があるなら、直せるかもしれません。危険な使い方があるなら、できないように工夫することもできます」
「なるほど。では、道具には何の欠陥もなかったとしたら?」
「……え?」
「正しく使えば、人の役に立つ道具です。ただ、使い方を変えれば、人を傷つけることもできる」
私は少し考えた。
「それなら、使い方を教えるとか、危険な使い方を禁止するとか……」
「それでも、悪用する者が現れたら?」
「……全部を防ぐのは、難しいと思います」
「ええ。私もそう思います」
オスカーさんは、少しも驚いた様子を見せなかった。
「では、もう一度伺いましょう。その道具を取り上げますか?」
私は膝の上で手を握った。
取り上げれば、傷つけられる人は減るかもしれない。
でも、その道具がなければ困る人もいる。
前世でも、便利な技術が争いに利用される例を知っていた。だからこそ、安全に使えるようにすることが大切だと思っている。
でも、どれだけ工夫しても、悪用を完全に防げるとは限らない。
「……分かりません」
私は正直に答えた。
「取り上げた方がいい場合もあると思います。でも、必要としている人がたくさんいるなら、簡単には決められないです」
「そうですか」
オスカーさんは、静かにうなずいた。
「では、どうすれば答えが出ると思いますか?」
「……もっと調べます。どんな使われ方をしているのか、誰が困るのか。ほかに方法がないかも考えたいです」
「それでも、答えが出なかったら?」
「……それは」
私は言葉に詰まった。
調べれば、分かることが増える。実験すれば、確かめられることもある。
でも、全部分かったとしても、何を選ぶのが正しいかは決まらないのかもしれない。
「……分からないまま、考え続けるしかないのかな」
「ええ。そういう問いもあります」
オスカーさんは、私の答えを否定しなかった。
「ですが、考え続けても、いつかは決めなければならないこともあるでしょう」
私はうなずいた。
「ココア様。あなたは、人を助ける方法を考えることをやめられますか?」
「……やめられないと思います」
「そうでしょうね。では、同じ道具を見て、人を傷つける方法を考える者に、考えるなと言えば、やめてくれるでしょうか?」
「……いいえ」
「ええ。人が何を考えるかを、他人が完全に止めることはできません。あなたが人を助けたいと思うように、別の目的を持つ者も、自分なりの使い道を考えるでしょう」
オスカーさんは静かに続けた。
「だからこそ、倫理学が必要なのです。何を作り、誰に渡し、どんな使い方を許すのか。誰かを助けるためのものが、別の誰かを苦しめないか。答えを出したあとも、問い直さなければなりません」
倫理学。
その言葉を聞いて、前世のことを思い出した。
研究者になるまでに、倫理についての授業を受けたことはある。研究成果が社会に与える影響や、研究する側の責任についても学んだ。
でも、正直に言えば、当時の私はそれほど深く考えていなかった。
新しいことを知りたい。まだ誰も知らないことを確かめたい。
そんな気持ちの方が、ずっと強かったからだ。
もちろん、安全には気をつけていた。決められた手順も守っていた。
けれど、自分の研究が誰かの役に立つだけでなく、誰かを傷つける可能性まで、どれほど真剣に考えていただろう。
そして、今は状況が違う。
この世界には魔法がある。前世では当たり前だった技術が、まだ知られていないこともある。
私が知っている方法を使えば、人々の暮らしを大きく変えられるかもしれない。
実際に、少しずつ変わり始めている。
でも、便利になったからといって、必ずしも全員が幸せになるとは限らない。新しい仕事が生まれる一方で、今までの仕事を失う人もいるかもしれない。暮らしを守るための技術が、争いに使われることだってある。
前世の知識は役に立つ。
けれど、前世で正しかった方法が、この世界でも正しいとは限らない。
この世界で生きている人たちにとって、何が必要で、何を守るべきなのか。
それを、私一人の知識だけで決めていいのだろうか。
「……オスカー先生」
「はい?」
「私、先生から倫理学を学びたいです」
オスカーさんは少しだけ目を見開いた。
「それは、どうしてですか?」
「私が作るものが、みんなの暮らしを変えてしまうかもしれないからです」
私は、自分の言葉を確かめながら続けた。
「便利なものを作りたい気持ちは変わりません。でも、私が良いと思ったものが、ほかの人にとっても良いとは限らないでしょう?」
「ええ」
「だから、作る前に考えたいんです。作ったあとも、ちゃんと確かめたい。私が知らない考え方も、もっと知りたいです」
オスカーさんはしばらく黙っていた。
それから、穏やかに笑った。
「ココア様。私は、何が正しいかという答えを教えることはできませんよ」
「……はい」
「ですが、正しいと思っていることを、もう一度考える方法なら、一緒に学べるでしょう」
私はうなずいた。
それこそが、今の私に必要なものだと思った。
「それに、一つだけ覚えておいてください」
「何ですか?」
「考えることと、何もしないことは違います」
オスカーさんは窓の外へ目を向けた。
「先ほどの子供たちは、三つのパンをどう分けるか考えていました。でも、パンが足りないと気づいた子がいた。そこから、増やす方法を考え始めたんです」
「はい」
「考えたことを試してみれば、また新しい問題が見つかるでしょう。そうしたら、もう一度考えればいい。最初からすべてを知っている必要はありません」
私は庭の子供たちを思い出した。
「……研究と似てますね」
「そうかもしれませんね」
オスカーさんは楽しそうに笑った。
「もっとも、人の暮らしを相手にするときは、失敗してからでは取り返しのつかないこともあります。だから、試す前にも十分に考える。それでも分からないことは、小さく、安全に試してみるんです」
「……はい!」
「では、まずは私たちも、一つ試してみましょうか」
「え?」
「学校ができる前に、授業をしてみるんです」
私は思わず身を乗り出した。
「もう?」
「ええ。先ほどは小石三つで授業ができましたからね」
「でも、まだ教室も教材も……」
「必要なものは、始めながら確かめていけばいいでしょう。もちろん、子供たちの安全や参加する人の都合は、先に考えなければなりませんが」
オスカーさんはセバス先生に目を向けた。
「いかがでしょう。少人数で、試験的な授業を行うことはできますか?」
セバス先生はしばらく考えた。
「授業内容を事前に確認し、参加者の同意を得たうえであれば、可能でしょう」
「ありがとうございます」
「ただし、正式な採用とは別でございますぞ」
「ええ。それは承知しています」
オスカーさんは、少しだけ楽しそうに笑った。
「では、何を教えるか、考えておきましょう。もっとも、子供たちが何を聞いてくるかまでは、決められませんけどね」
セバス先生が小さくため息をついた。
私は笑ってしまった。
◇
オスカーさんが帰ったあと、私はセバス先生に尋ねた。
「先生、あの人に教えてもらえるかな?」
「正式な手続きは必要ですが、前向きに検討したいと思っております」
「やった!」
「ただし、一つ気になることがございます」
「何?」
「王都魔法学院で長く教鞭を執られた方が、なぜ職歴を伏せて応募されたのか……」
「先生は、どうしてだと思う?」
「分かりません。ですから、採用を決める前に確かめる必要がございます」
「そっか……」
私は窓の外を見た。
庭には、まだ三つの小石が残っていた。
あの小石だけで、子供たちはあんなに夢中になった。
「ねえ、先生」
「はい」
「オスカー先生、また来てくれるよね?」
「ええ。試験授業の相談には来ていただくつもりです」
「じゃあ、今度は私も授業に参加したい!」
セバス先生は穏やかに微笑んだ。
「そうですな。ココア様にも、学ぶことはまだまだございますから」
「うん!」
私はもう一度、庭を見た。
三つのパンを、どう分けるか。
それだけの問いから、あんなにたくさんの答えが生まれた。
私が知っていることも、まだ答えの一つにすぎないのかもしれない。
そう思うと、次の授業が楽しみで仕方なかった。
その隣で、セバス先生は閉じた応募書類を、もう一度だけ見つめていた。




