第85話 学びたい人のために
「王都の一部では患者を取り合い、地方では医師を探している、か」
宰相は報告書を机に置いた。
先日、地方の診療所から届いた陳情を受け、国内の医師の配置を調べさせていた。その結果、王都の一部では診療所同士の競争が激しくなっている一方、医師のいない町も少なくないことが分かった。
「王都の西地区では、ここ数年で診療所が増えております。患者の数に対して医師が多く、経営に苦労しているところもあるようです」
文官が報告書をめくった。
「一方、こちらの町では、診察を受けるために馬車で三時間かけて隣町へ向かっているそうです」
「……同じ国で、これほど違うとはな」
宰相は地図を見つめた。
王都には医術を学ぶための教育機関があり、薬や器具も手に入りやすい。裕福な患者も多い。医師を目指す者が王都で学び、そのまま診療所を構えるのは自然なことだった。
「王都にも忙しい医師はいる。単純に余っているわけではないのだろう?」
「はい。患者が集中している診療所もございます。医師の数だけで判断するのは難しいかと」
「だろうな」
宰相は報告書の端を指で押さえた。
発端は、ある領地から寄せられた医師の増員要請だった。
その際、診療以外の仕事を補助する者を育ててはどうかという提案も届いていた。医師が診察に専念できるようにするという、現場の負担を減らすための案だ。
試験的な導入はすでに認めた。だが、調べを進めるうちに、別の問題が見えてきた。
医師が忙しすぎる町もあれば、医師そのものがいない町もある。
補助する者を増やしても、後者の問題は解決しない。
「一つの診療所の困り事を調べていたはずが、国全体の医師の配置まで見直すことになるとはな」
「何か問題がございましたか?」
「いや。むしろ、こういう報告が上がってこなかったことの方が問題だ」
宰相は地図の端を指した。
「各領地に、医師を受け入れる条件を提出させよ。診療所の設備、住居、報酬。それらを明らかにしたうえで、地方への赴任を希望する医師を募る」
「希望者が集まるでしょうか?」
「分からん。だが、必要とされている場所を知らない医師もいるだろう。王都で診療所を構えることだけが、医師の生き方ではあるまい」
「では、王都の医師を地方へ派遣するのではなく、本人の希望を募るのですね」
「ああ。医師にも患者や家族がいる。命令一つで動かせるものではない」
宰相は報告書を閉じた。
「ただし、希望者が現れたからといって、すぐに移せるとは限らん。現在診ている患者への影響も確認せよ。受け入れる領地が約束した条件を守れるかも重要だ」
「承知いたしました」
「それと、医師を育てる仕組みについても調査を続けよ。今いる医師の配置を見直すだけでは、いずれ限界が来る」
文官が一礼した。
「医術を教える者の確保も含め、調べてまいります」
宰相はうなずいた。
医師の仕事を減らすことと、医師のいない町に医師を届けること。
似ているようで、解決すべき問題は違う。
小さな提案が、見過ごしていた問題を浮かび上がらせることもある。だが、それを国の仕組みに変えるのは、自分たちの仕事だ。
「できることから始めよう。医師を待っている町は、今この瞬間もあるのだからな」
文官が退出すると、宰相はもう一度、地図に目を落とした。
医師が集まる町と、医師を待ち続ける町。
その間にある距離を、少しでも縮めなければならなかった。
◇
「ここが、腕の骨ですのね!」
リリアが本の挿絵を指さした。
「そうだよ。腕にはいくつもの骨があって、関節でつながっているんだ」
「では、腕を曲げられるのは、骨が動くからですの?」
「骨だけでは動かないよ。筋肉が縮んで、骨を引っ張るんだ」
「筋肉……」
リリアは自分の腕を曲げたり伸ばしたりして、目を輝かせた。
今日はノエルと一緒にリリアの家へ遊びに来たのだけれど、リリアがお父様に聞きたいことがあるというので、診療所に寄っていた。
机には、この前贈った『はじめて学ぶ人体のしくみ』が開かれている。
「リリア、もうそんなに読んだの?」
「ええ! でも、分からないところがたくさんありますの」
リリアは本の端に挟んだ紙を見せてくれた。そこには、小さな文字で質問がいくつも書かれている。
「全部、お父様に聞くの?」
「はい。忘れないように書いておきましたの」
「すごいね!」
「まだまだですわ。知らないことばかりですもの」
リリアのお父様は、そのやり取りを聞いて笑った。
「質問してくれるのは嬉しいけれど、診察があるときは待ってもらわないとね」
「はい。分かっていますわ!」
ちょうどそのとき、受付から声がかかった。
「先生、患者さんがお見えです」
「それじゃあ、行ってくるよ」
先生が席を立つと、リリアも本を閉じた。
「わたくしも、受付のお手伝いをしてまいりますわ」
「今日はお友達も来ているんだから、無理はしないこと」
「はい!」
リリアは元気よく返事をして、受付へ向かった。
以前来たときも、先生はずっと忙しそうだった。
お手伝いしてくれる人が見つかれば、リリアに本を教える時間も少しは増えるのかな。
「リリア、楽しそうだったね」
ノエルが言った。
「うん! 分からないことをお父様に聞いて、どんどん覚えてるんだね」
「お医者様になる勉強って、難しそう」
「難しいと思う。でも、リリアなら頑張りそう!」
私たちは顔を見合わせて笑った。
リリアには、お父様がいる。
私にもセバス先生がいる。読み書きも算数も、この世界の歴史や地理も、先生が教えてくれた。
でも、町のみんなはどうなんだろう。
「ねえ、ノエル。読み書きは誰に教えてもらったの?」
「お父さんやお母さんだよ。分からないことは、ほかの人にも聞いたりするけど」
「そっか……」
そこで、以前の出来事を思い出した。
「あっ! 畑を調べたときのこと、覚えてる?」
「ヨハンさんの畑?」
「うん! ほかの畑との違いを調べてもらったとき!」
「ああ! みんなに調査をお願いしたときだね!」
「あのとき、文字が苦手な人がいたでしょう?」
「うん。それで、絵を使うことにしたんだよね」
ノエルが考えてくれた方法のおかげで、文字を書かなくても畑の様子を記録してもらえた。
あの方法は役に立った。
でも、もしあの人が文字を覚えたいと思ったら?
「ねえ、ノエル。あの人が勉強したいって思ったら、誰に教えてもらうんだろう?」
「……どうだろう」
文字が苦手でも、畑のことなら私よりずっと詳しい人たちがいる。
ただ、覚えたいと思ったときに、教えてくれる人がいなかったら。
「……セバス先生に聞いてみよう」
「何を?」
「この領地の学校って、どこにあるのかなって!」
ノエルが目を丸くした。
「学校?」
「うん! 王都には王立学院があるでしょう? でも、ここの子供たちはどうしてるのかなって」
「そういえば、私も知らないや」
そのとき、受付からリリアが戻ってきた。
「お待たせいたしました! 何のお話をしていらしたんですの?」
「学校のお話! ねえ、リリア。これから一緒にセバス先生に聞きに行かない?」
「学校のことを、ですの?」
「うん!」
リリアは少し驚いたあと、嬉しそうにうなずいた。
「ええ! わたくしも知りたいですわ!」
◇
「この領地の学校、でございますか?」
午後、私たち三人はセバス先生の部屋を訪ねた。
「うん! ここの子供たちは、どこで勉強してるの?」
「読み書きや計算は、家族や仕事先で教わることが多うございます。教師を雇う家庭もございますが、誰もが通える学校は、この領地にはございませんな」
「そっか……」
私は少し考えた。
「先生、私ね、読み書きも算数も、地理も歴史も、誰にでも役に立つと思うの。でも、できなきゃ駄目ってことじゃないんだよ」
「はい」
「勉強したいって思った人が、誰でも学べる場所を作れないかな?」
先生が私を見つめた。
「学校を、ということでございますか?」
「うん! 子供でも大人でも、学びたい人が来られるところ!」
「素敵ですわ!」
リリアが身を乗り出した。
「わたくしも、お父様がいなければ、医術を学ぶのは難しかったと思いますもの」
「それにね、先生。この領地、子供が増えたでしょう?」
「はい。移り住む家族が増えておりますからな」
「その子たちが大きくなったとき、いろんな道を選べたらいいなって!」
畑で働くのも、工房で物を作るのもいい。でも、商人になりたい子や、医師を目指す子だっているかもしれない。
セバス先生は三人の顔を順番に見た。
「教師と場所を確保できれば、小規模な学びの場を設けることは可能でしょう」
「お金は足りる?」
「コンクリート事業の利益がございます。公共事業での需要も続いておりますし、小規模に始めるのであれば、十分に賄えます」
「よかった!」
「ただし、ココア様」
「なあに?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
先生はいつもより少し姿勢を正した。
「ココア様は、ココア商会をどのような商会にしたいとお考えですか?」
「……どんな商会?」
「はい。商会は商品を作り、売り、利益を得ます。その利益を研究に使うことも、新しい事業に投じることもできます」
先生は机に置かれた帳簿へ目を向けた。
「今回のお話は、商会の利益を使い、領民のために学びの場を設けたいというものです。ココア様は、それをどのようなお考えでなさろうとしているのでしょう?」
私は少し考えた。
最初は、研究費が欲しかった。
調べたいことがたくさんあって、試したいこともたくさんあった。だから、作ったものを売ってお金を稼ごうと思った。
でも、ココア商会は私一人で大きくしたわけじゃない。
職人さんたちが工夫して、商人さんたちが商品を届けて、たくさんの人が買ってくれた。
みんながいなかったら、研究費だって稼げなかったはずだ。
「……先生」
「はい」
「私ね、最初は研究費を稼ぎたかったの」
「存じております」
「でも、今はそれだけじゃないんだ」
私は先生の顔を見上げた。
「ココア商会が利益を出せるのは、みんなのおかげだよね?」
「そのとおりでございます」
「だったら、その利益で、みんなが喜んでくれることもしたいなって」
先生は黙って聞いていた。
「もちろん、研究も続けたいよ。でも、私が知らないことを知りたいみたいに、みんなにも、やってみたいことや覚えたいことがあると思うの」
「はい」
「だから、そういうことを応援できる商会にしたい!」
言葉にしてみると、少しだけ自分の気持ちがはっきりした。
「それに、関わってくれた人たちに、ちゃんとありがとうって言いたい!」
セバス先生は、しばらく私を見つめていた。
「……承知いたしました」
先生は穏やかに微笑んだ。
「商会の利益は、ココア様お一人の力で生まれたものではない。そして、その利益を新しい挑戦や学びに役立てたい。そういうお考えでございますな」
「うん!」
「では、そのお考えを、ココア商会の理念として大切にしてまいりましょう」
「理念……」
「商会が大きくなれば、ココア様がお一人で決められないことも増えてまいります。そのとき、何を大切にする商会なのかが定まっていれば、皆が判断する助けになります」
「そっか!」
先生は一度うなずいてから、帳簿を閉じた。
「もっとも、理念だけでは学校は開けません。教師と場所を探さねばなりませんな」
「あっ、そうだった!」
ノエルがくすっと笑った。
「じゃあ、まずは勉強したい人を探そうよ!」
「わたくしもお手伝いいたしますわ!」
「ありがとう、二人とも!」
「ただし、ココア様。学びたい方がいても、昼間は仕事をしていて通えない場合がございます」
「じゃあ、大人の人は夕方とか、お休みの日に来られるようにしたい!」
「時間についても、希望を聞いてみるのがよろしいでしょう」
「うん!」
私は紙を取り出し、一番上に大きく書いた。
『なにを べんきょうしたいですか?』
ノエルがその下に、本と数字の絵を描き始める。
「畑の調査のときみたいに、絵を使おうよ!」
「うん! 文字が苦手な人も答えられるようにしなきゃ!」
「わたくしは、体やお薬について学びたい方がいるか気になりますわ」
「じゃあ、それも入れよう!」
セバス先生は私たちの手元を覗き込んだ。
「希望者と学びたい内容、それから通える時間を調べましょう。その結果を見て、叔父様にご相談いたします」
「うん! お願い、先生!」
私たちは顔を寄せ合い、調査票を作り始めた。
◇
翌日、私たちはセバス先生に付き添ってもらい、畑の近くにある作業場を訪ねた。
以前、畑の調査に協力してくれた人たちが、収穫した作物を運び込んでいるところだった。
「こんにちは!」
「おや、ココア様。今日はどうされました?」
「ちょっと聞きたいことがあるの!」
私は作ったばかりの調査票を広げた。
「今ね、勉強したい人がいるか調べてるんだ!」
「勉強、ですか?」
「うん! 読み書きとか、計算とか。覚えたいことがあったら教えてほしいの!」
男の人は少し困ったように笑った。
「いやあ、俺は文字が苦手でしてね。そんな難しいことは……」
「難しいことじゃなくてもいいんだよ!」
私は慌てて言った。
「今できなくても、覚えたいことがあったら聞きたいの!」
男の人は調査票を覗き込んだ。
ノエルが描いた本の絵と、数字の絵が並んでいる。
「……これ、字の勉強ですか?」
「うん!」
「そっちは計算?」
「そうだよ!」
男の人はしばらく黙っていた。
それから、少し照れくさそうに頭をかいた。
「……字、覚えられるもんですかね」
「もちろん! 少しずつ練習すれば、覚えられると思うよ!」
「俺みたいな大人でも?」
「大人でも!」
男の人は、もう一度調査票を見た。
「……実はね、娘がいるんですよ」
「うん!」
「最近、家で文字を覚え始めたみたいで。覚えた字を嬉しそうに見せてくれるんですけど、俺には読めなくてね」
男の人は苦笑した。
「娘が書いたものくらい、読んでやりたいなって思ってたんです」
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「じゃあ、字のお勉強をしたいんだね!」
「ええ。できるなら……自分の名前も、ちゃんと書けるようになりたいですね」
私は大きくうなずいた。
「うん! 書けるようになろう!」
「ははっ。まだ学校もないんでしょう?」
「あっ、そうだった!」
男の人が笑い、ノエルもリリアもつられて笑った。
私は少し恥ずかしくなったけれど、調査票の本の絵に丸をつけた。
「でも、絶対に考えてみるから!」
「それなら、楽しみにしてますよ」
男の人はそう言って、作業へ戻っていった。
私は調査票を見つめた。
たった一つの丸。
でも、その丸には、娘さんの書いた文字を読みたいという願いが詰まっている。
「……ねえ、セバス先生」
「はい」
「私、学校を作りたいって思ったけど……」
私は紙の丸を指さした。
「今は、この人が字を覚えられるようにしたいな」
セバス先生は、静かにうなずいた。
「それでよろしいのだと思います」
「本当?」
「はい。学校を建てることが目的ではございません。学びたい方が、学べるようにすることが目的でございましょう」
私はもう一度、調査票を見た。
そうだ。
立派な建物が欲しいわけじゃない。
たくさんの人に勉強してほしいと、無理にお願いしたいわけでもない。
ただ、覚えたいと思ったときに、教えてもらえる場所があったらいい。
「……うん!」
私は顔を上げた。
「じゃあ、ほかにも聞いてみよう!」
「賛成!」
「わたくしもお手伝いいたしますわ!」
三人で次の人のところへ向かう。
どんな答えが返ってくるかは、まだ分からない。
でも、もし学校ができたら。
あの人が娘さんの書いた文字を読める日が来るかもしれない。
自分の名前を、初めて自分の手で書く日が来るかもしれない。
私はその日を想像しながら、調査票を大事に抱え直した。




