第84話 未来のお医者さま達
「もう一人、医師を増やしていただきたいのです」
叔父様の執務室から聞こえてきた声に、私は足を止めた。
扉は少し開いていて、中には見覚えのある人が座っていた。リリアのお父様だ。いつもは穏やかに笑っている人なのに、今日はずいぶん真剣な顔をしている。
「ああ、ココア。何か用か?」
「セバス先生から、叔父様に帳面を届けるように頼まれたの。でも、お話し中だった?」
「構わんよ。そこに置いてくれ」
私は帳面を机の端に置いた。すぐに退室しようとしたところで、リリアのお父様が私に気づいて微笑んだ。
「ココア様。先日は診療所の前でお見かけしましたよ」
「えっ、気づいてたの?」
「ええ。リリアが受付を手伝っているところをご覧になっていたでしょう?」
「うん! リリア、すごく頑張ってた!」
そう答えると、先生は少し嬉しそうに笑った。
「あの子も最近は、自分から手伝いたいと言うようになりましてね。仕事が終わると、今度は診療についてあれこれ尋ねてくるんですよ」
「そうなんだ!」
「ええ。嬉しいことなのですが、なかなかゆっくり教えてやれなくて……」
先生は机の上の書類へ目を戻した。
「患者の数は、去年と比べても明らかに増えています。職員たちも頑張ってくれていますが、診察を翌日に回さなければならない日が出てきました。急患が重なれば、通常の診察を中断することもあります」
私は、診療所の前に並んでいた人たちを思い出した。
あの日も待合室はいっぱいだった。小さな男の子が怖がっていたけれど、リリアが声をかけると、少し安心した顔になっていた。
「医師を一人増やせば、改善するか?」
叔父様が尋ねた。
「はい。ですが、今後も町の人口が増えるのであれば、それだけで十分とは言い切れません」
「分かった。正式な陳情として受け取ろう。ただし、すぐに医師を呼べるとは約束できん」
「……やはり、そうですか」
「医師が足りないのは、この領地だけではない。ほかの領地からも同じような要望が出ている」
私は思わず尋ねた。
「お医者様がいない町もあるの?」
「ああ。病人を馬車に乗せ、何時間もかけて医師のいる町まで運ぶところもある」
「何時間も……」
もし、あの男の子が高い熱を出していて、近くにお医者様がいなかったら。
そう考えると、胸が少し苦しくなった。
「……お医者様を増やさないといけないね」
「そうだな。だが、医師は簡単には増やせない。知識だけでなく、患者を診る経験も必要だからな」
前世では、お医者様になるための学校があった。人の体や病気、薬について学び、病院で実習もする。人の命を預かるのだから、何年もかけて学ぶ必要がある。
「ねえ、叔父様。お医者様になるための学校を、もっと増やせないかな?」
「王都には医術を教えるところがある。医師に弟子入りして学ぶ者もいるが……学校を増やすにも、教える医師が必要だ」
「あっ、そっか……」
「今でも医師が足りないのに、教師として集めてしまえば、患者を診る者が減ってしまう」
私は口を尖らせた。
学校を建てれば解決すると思ったけれど、そんなに簡単じゃない。教える人がいなければ、学校はただの建物だ。
「……実は、私にも考えていることがあるのです」
リリアのお父様が口を開いた。
「診察以外の仕事を職員に任せられれば、もう少し患者さんを診られると思うのです。ですが、今はその仕事を教える時間もなかなか取れません」
「診察以外のお仕事?」
「ええ。受付や掃除は職員に任せていますが、診療に関わる準備や記録には、ある程度の知識が必要です。私が確認しなければならないことも多くて……」
先生は苦笑した。
「一人増えてくれれば助かるのですが、その一人を育てる余裕がないのですよ」
私は、昨日の牧場を思い出した。
グスタフさんも、最初はエリックさんに一つずつ仕事を教えていた。今ではエリックさんが、新しい働き手に牛の見方や記録の取り方を教えている。
「……先生」
「はい?」
「最初は、一人だけならどうかな?」
「一人ですか?」
「うん。いきなり何人も教えるんじゃなくて、一人ずつ。最初は簡単なお仕事から覚えてもらうの」
リリアのお父様は、しばらく黙って考えていた。
「……確かに、一人なら教えられるかもしれません」
「本当?」
「ええ。最初は器具の準備や記録の整理など、患者さんの診察に直接関わらない仕事から始めればよいでしょう。慣れてきたら、できることを少しずつ増やしていく」
「そう! それ!」
私は嬉しくなって、牧場での出来事を話した。
グスタフさんがエリックさんを育て、今ではエリックさんが新しい働き手に仕事を教えていること。最初は教わるばかりだった人が、次の人を育てられるようになったこと。
「なるほど。医師の助手を育てるわけか」
叔父様が腕を組んだ。
「ただし、牧場とは違う。医療の仕事は人の命に関わる。誰を雇い、何を任せるかは慎重に決めねばならんな」
「はい。診察や薬の処方は、当然ながら医師が行うべきです」
リリアのお父様が答えた。
「助手には、まず私の目の届く範囲で働いてもらいます。患者さんの体に触れる仕事も、十分に教えてからでなければ任せられません」
「では、採用する者も、医師自身が面接して決めるべきだろう」
「そうしていただけるなら安心です。知識や経験がなくても、学ぶ意欲があり、慎重に仕事のできる人を選びたいと思います」
叔父様はうなずいた。
「助手を置くことで医師の負担がかえって増えるようでは困る。最初は一人で試し、仕事の分担を見直しながら進めるのがよさそうだ」
「はい。受付の職員にも協力してもらえば、教える時間を少しずつ確保できると思います」
私は二人の話を聞きながら、ほっとしていた。
医療のことは、私よりリリアのお父様の方がずっと詳しい。誰に何を任せられるのか、どんなことが危険なのかも、先生が一番よく分かっている。
私が思いついたのは、一人ずつ育てていく方法だけ。
でも、それが役に立つなら嬉しい。
「問題は、働きたいという者がいるかどうかだな」
叔父様が言った。
「助手という仕事があることを、まだ誰も知らん。まずは希望者を募る必要がある」
「募集するの?」
「ああ。ただし、診療所ごとに事情も違う。医師の判断で採用できるようにするには、制度として認めてもらう必要があるだろう」
叔父様は机の上の陳情書を手に取った。
「宰相閣下に相談してみよう。医師をすぐに増やせないのであれば、今いる医師を支える方法も考えねばならん」
「私も、協力できることはいたします」
リリアのお父様が深く頭を下げた。
医師が増えるわけじゃない。病気を治せる人が、急に増えるわけでもない。
でも、診察以外の仕事を手伝える人が増えたら、お医者様は今より多くの患者さんを診られるかもしれない。
そして、助手として働く人の中から、いつかお医者様になりたいと思う人が出てくるかもしれない。
そう考えると、胸がわくわくした。
私は帰ろうとして、ふと先生の言葉を思い出した。
「ねえ、先生。リリア、お医者様のお仕事を知りたがってるんだよね?」
「ええ。最近は特に興味があるようです」
「じゃあ、リリアが読めるような本ってないかな? 私、何か贈ってあげたいの!」
先生は少し驚いたあと、優しく微笑んだ。
「それでしたら、初めて学ぶ子供向けの本がよいでしょう。難しい医術書ではなく、まずは人の体の仕組みを知るところから始めるのがよいと思います」
「ありがとう! ノエルと一緒に探してみる!」
「きっと喜びますよ」
私は嬉しくなって、先生にもう一度お礼を言った。
◇
数日後、王都の宰相執務室。
宰相は、地方から届いた書状を読み終えると、机の上に置いた。
「医師の助手を育てる、か」
書状には、診療所からの陳情と、それを受けた領主の意見がまとめられていた。
「閣下、いかがいたしましょう」
控えていた文官が尋ねた。
「希望する診療所で、試してみるがよい」
「助手の募集を認める、ということでしょうか」
「ああ。ただし、採用する者は現場の医師自身が面接して決めることとする。任せる仕事も、その医師の判断に従わせよ」
「承知いたしました」
「まずは少人数で始めさせ、結果を報告させる。医師の負担が減らぬようなら、やり方を見直す必要がある」
文官は指示を書き留めた。
「では、希望する領地と診療所へ通知いたします」
「頼む」
文官が退出すると、宰相はもう一度、陳情書に目を落とした。
医師の助手を育てることで、診療所の負担はいくらか減らせるかもしれない。
だが、医師が一人もいない町では、助手だけを増やしても患者を診ることはできない。
宰相は、書状の最初の一文を読み返した。
『もう一人、医師を増やしていただきたい』
「……医師そのものを増やす方法も、考えねばならんな」
しばらく考え込んだ後、宰相は陳情書を脇に置いた。
◇
「リリア、これ!」
数日後、私はノエルと一緒に、リリアへ包みを差し出した。
「……何ですの?」
「開けてみて!」
リリアは不思議そうな顔をしながら、包みの紐をほどいた。
中から出てきたのは、一冊の本だった。
「『はじめて学ぶ人体のしくみ』……?」
「うん! リリアのお父様に相談して選んだの!」
「わたくしに?」
「この前、診療所でお手伝いしてるところを見たんだ。泣いてた男の子にも、優しくしてたでしょ?」
リリアの顔が、みるみる赤くなった。
「み、見ていらしたんですの!?」
「うん! すごかったよ!」
「そ、そんな……あれくらい、誰にだってできますわ!」
「私は、あんなふうに話せるか分からないよ」
そう言うと、リリアは少し驚いた顔をした。
「……ココアにも、できないことがありますの?」
「いっぱいあるよ!」
私が胸を張って答えると、ノエルが吹き出した。
「そこ、威張るところじゃないよ!」
「えへへ」
リリアもつられて笑った。
それから、もう一度本の表紙を見つめる。
「……お父様のお仕事、もっと知りたいと思っていましたの」
「うん」
「でも、お父様はいつもお忙しくて。わたくしが何か尋ねたら、邪魔になってしまうんじゃないかって……」
リリアは本をそっと胸に抱いた。
「これなら、お父様がお忙しいときにも勉強できますわね」
「分からないところは、あとで聞けるもんね!」
「ええ!」
リリアは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、ココア。ノエルも」
「どういたしまして!」
「一緒に選んだんだよ!」
ノエルがそう言うと、リリアはますます嬉しそうな顔になった。
私は、その笑顔を見てほっとした。
よかった。リリアが喜んでくれた。
「ねえ、ココア」
「なあに?」
「わたくし、いつかお父様みたいに、困っている人を助けられるようになりたいですわ」
リリアは少し照れくさそうに言った。
「まだ、何ができるのか分かりませんけれど……」
「きっと見つかるよ!」
「そうでしょうか?」
「うん!」
私は大きくうなずいた。
「だって、もう始めてるもん!」
リリアは目を丸くした。
「この前の男の子、リリアのおかげで安心してたよ。あれだって、人を助けたことになると思う!」
リリアはしばらく私を見つめていた。
それから、本を抱え直して、小さく笑った。
「……そう言っていただけると、嬉しいですわ」
「それじゃ、今日は三人で遊ぼう!」
私が両手を広げると、ノエルが元気よくうなずいた。
「賛成!」
「ええ。でも、その前に……」
リリアは本を大事そうに抱えたまま言った。
「最初のページだけ、読んでもよろしくて?」
「ええっ、今!?」
「だって、気になりますもの!」
ノエルと顔を見合わせ、私は笑ってしまった。
「じゃあ、三人で読もう!」
「ええ!」
リリアが本を開く。
そこには、人の体の絵と、骨や筋肉の名前が描かれていた。
「ここが心臓ですわね」
「ねえ、こっちは何?」
「ええと……」
三人で顔を寄せ合いながら、最初のページを読み始めた。
リリアの指が、絵の中の小さな文字をゆっくりとなぞっていく。
分からないところに差しかかると、少し首を傾げて、また最初から読み直した。
「リリア、そろそろ遊ばない?」
ノエルが尋ねると、リリアは本から顔を上げた。
「あっ……もうそんな時間ですの?」
「まだ、ほとんど読んでないよ!」
「そうでしたわね。では、続きは帰ってからにいたしますわ」
そう言いながらも、リリアは名残惜しそうにページを閉じた。
私はノエルと顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。
どうやらリリアは、今日から少し忙しくなりそうだ。




