第83話 百頭への第一歩
「お嬢様、あの牛の耳を見てみな」
「耳?」
グスタフさんに言われ、私は柵の外から牛を観察した。
目の前の牛は、のんびりと干し草を食べている。怒っているようには見えないし、尻尾だってゆっくり揺れていた。
「いつもと違うところはねえか?」
「うーん……」
耳が後ろへ向いたかと思うと、今度は左右に動く。隣の牛が近づいた途端、頭を振って距離を取った。
「あっ、嫌がってる?」
「そういうこった。今朝から少し落ち着かねえんだ。大人しく見えるからって、いつでも近づいていいわけじゃねえ」
「そっか……」
私は柵から少し離れた。
「グスタフさんは、どうして分かったの?」
「毎日見てりゃ分かるようになるさ。餌の食い方も、歩き方も、寝る場所も、一頭ずつ違うからな」
「毎日……」
「いつもと違うところがあれば、何かあるかもしれねえと思って見る。病気なのか、周りが気に入らねえのか、それとも別の理由なのか。決めつけずに確かめるんだ」
私は牛舎を見渡した。
同じように干し草を食べている牛たちも、よく見ると少しずつ違う。勢いよく食べる牛もいれば、ゆっくり噛んでいる牛もいる。
私には、まだその違いが何を意味するのか分からない。
「……百頭になったら、全部覚えられる?」
そう尋ねると、グスタフさんが笑った。
「俺一人じゃ無理だな」
「ええっ!?」
「だから人を育てるんだろうが」
グスタフさんが顎で示した先では、エリックさんが新しく入った二人に何かを説明していた。
以前はグスタフさんから教わってばかりだったエリックさんが、今は自分の帳面を広げている。
「あっ、エリックさん!」
私が手を振ると、エリックさんもこちらに気づいた。
「お嬢様、おはようございます!」
「おはよう! 何してるの?」
「牛の様子を記録する方法を教えていたんです」
「記録?」
エリックさんは小さな帳面を見せてくれた。
牛を見分けるための番号と、餌の食べ方や気づいたことが書かれている。字は少し不揃いだったけれど、何日も続けて書いた跡があった。
「グスタフさんは見れば分かるんですが、俺たちはまだ覚えきれなくて。それで、昨日と違うことがあったら書くようにしたんです」
「エリックさんが考えたの?」
「はい。忘れないようにと思って始めたんですが……」
エリックさんは少し恥ずかしそうに笑った。
「困ったことがありまして。書く人によって、書いてあることが違うんです」
「どういうこと?」
「俺は餌のことを書いても、別の人は歩き方を書いていたりして。あとから比べようとしても、分からないことがあるんですよ」
帳面を覗くと、昨日の欄には『元気』、今日の欄には『よく食べた』と書かれていた。
どちらも悪い記録じゃない。
でも、昨日もよく食べたのか、今日は元気だったのか、それは分からない。
「じゃあ、毎日同じところを見るようにしたら?」
「同じところ、ですか?」
「うん。例えば、餌をどれくらい食べたか、水はどうだったか、いつもと違うところはなかったか。見るところを決めておくの」
エリックさんは帳面を見つめた。
「なるほど。それなら、書く人が変わっても比べられますね」
「でも、それだけじゃ足りねえぞ」
グスタフさんが横から口を挟んだ。
「牛は帳面どおりには動かねえ。決めたところだけ見て、ほかの異変を見落としたら意味がねえからな」
「あっ、そっか!」
私はすぐにうなずいた。
「じゃあ、毎日見るところと、気づいたことを自由に書くところを分けたらどうかな?」
「それならよさそうですね」
エリックさんが嬉しそうに笑った。
グスタフさんも帳面を覗き込み、しばらく考えてから口を開いた。
「まずは試してみるか。書くことが増えすぎて牛を見る時間が減っちゃ、元も子もねえからな」
「はい!」
エリックさんは勢いよく返事をした。
そして、隣にいた二人へ帳面を向けた。
「じゃあ、今日から三人で試してみましょう。まずは餌と水、それから気づいたことを書く欄を作って……」
若い働き手の一人が、帳面の余白を指さした。
「餌は、食べたかどうかだけでいいんですか? 半分残した日もあるんですけど」
「ああ、それなら残した量も分かるようにしましょう」
「水はどうします? 桶を足した人が書くようにしますか?」
「そうですね。ただ、減った量が分からなくなると困るから、足す前にも確認した方がよさそうです」
三人は相談しながら、新しい欄を作り始めた。
私は思わず笑顔になった。
エリックさんは、もう私の方を見ていなかった。
自分たちでどうするかを、二人と相談している。
「グスタフさん、見て!」
「おう。見てるぞ」
「エリックさん、もう先生みたいだね!」
「まだまだだな」
グスタフさんはそう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
「だが、あいつが教えたことを、次はあの二人が誰かに教えられるようになりゃ、百頭も夢じゃなくなる」
「うん!」
私は大きくうなずいた。
グスタフさん一人では、百頭の牛を毎日見て回るのは難しい。でも、エリックさんが仕事を覚え、その人が次の人へ教えていけば、できることは少しずつ増えていく。
百頭への第一歩は、牛を増やすことだけじゃない。
牛を飼える人が育つことなんだ。
◇
牛舎の見回りを終えたあと、エリックさんが帳面を持って戻ってきた。
「お嬢様、少しいいですか?」
「なあに?」
「さっきの記録なんですが、一つ困ったことがあって」
「もう?」
「はい。牛の番号は決めてあるんですけど、まだ見分けるのが難しくて。番号を間違えて書いたら、記録の意味がなくなりますよね」
「あっ……」
確かにそうだ。
記録を揃えても、どの牛の記録なのか間違えたら意味がない。
「グスタフさん、どうしてるの?」
「俺は見りゃ分かる。だが、新人には難しいだろうな」
グスタフさんは少し考えてから、牛舎の奥を指さした。
「今は牛を入れる場所もある程度決めてるが、ずっと同じ場所にいるとは限らねえ。番号だけ覚えさせるのも無理がある」
「じゃあ、牛の特徴も書いておいたら?」
「特徴?」
「うん。毛の色とか、顔の模様とか。見分けるための絵があってもいいかも」
エリックさんが目を輝かせた。
「それなら、俺にも描けそうです!」
「おう。だが、絵だけで決めつけるなよ。似た牛もいるからな」
「はい!」
エリックさんは早速、帳面の端に牛の顔を描き始めた。
丸い顔に、二つの耳。鼻は大きく、目は小さい。
「……エリックさん」
「はい?」
「それ、どの牛?」
「えっ?」
エリックさんが絵と牛を見比べた。
「……どれでしょう」
思わず笑ってしまった。
「絵だけじゃ難しいね」
「そうですねえ」
グスタフさんも肩を揺らしている。
「だから、特徴を言葉でも書いとけ。額に白い毛があるとか、右の耳に傷があるとか、見りゃ分かることをな」
「なるほど!」
エリックさんは絵の横に文字を書き足した。
それを見ていた新人の一人が、別の牛を指さす。
「あの牛、左の目の下に黒い模様がありますよ」
「本当だ。じゃあ、それも書いておきましょう」
もう一人も別の牛を観察し始めた。
エリックさんが何かを教えると、二人が新しいことに気づく。そして、その気づきをエリックさんも帳面へ書き足していく。
誰か一人が全部を知っているわけじゃない。
みんなで見て、考えて、少しずつ覚えていく。
「……いいね」
私が呟くと、グスタフさんがこちらを見た。
「何がだ?」
「みんなで考えてるところ」
「そうか」
「うん。私がいなくても、どんどん進んでいく」
グスタフさんは少しだけ笑った。
「そりゃあ、そうならなきゃ困る。お嬢様が毎日ここで牛を見てるわけにはいかねえからな」
「えへへ。そうだね」
私は牛舎の中を見渡した。
牛たちは相変わらず、のんびりと干し草を食べている。
でも、その周りで働く人たちは、昨日より少しだけ違っていた。
◇
「ねえ、グスタフさん。百頭にするために、今一番足りないものって何?」
帰る前に、気になっていたことを尋ねた。
「全部だな」
「全部!?」
「牛も、人も、餌も、場所もだ」
「……一つくらい足りてるものはないの?」
「そうだなあ」
グスタフさんは少し考え、私を見た。
「やる気だけは足りてるんじゃねえか?」
「本当!?」
「お嬢様の分が余ってるくらいだ」
「もう!」
私が頬を膨らませると、グスタフさんが笑った。
「だが、急がなくていい。今いる牛をちゃんと飼えなきゃ、増やしたところで困るだけだからな」
「うん。分かってる」
私は、もう一度エリックさんたちの方を見た。
三人はまだ帳面を広げていた。エリックさんが何かを説明すると、新人の一人が首を傾げ、もう一人が牛を指さす。
そのたびに、三人で確かめている。
「グスタフさん」
「なんだ?」
「百頭になったとき、あの人たちがみんな先生になってたらいいね」
「……そうだな」
グスタフさんは少し間を置いてから、うなずいた。
「そいつは、いい牧場だろうな」
私は嬉しくなって笑った。
◇
「ココア、そろそろ帰る?」
牛舎の外で待っていたノエルが声をかけてきた。
「あっ、もうそんな時間?」
「うん。お昼に遅れちゃうよ」
「大変!」
私は慌ててグスタフさんたちに挨拶した。
「また来るね!」
「おう。お嬢様、今度は牛の特徴も覚えていきな」
「えっ、全部!?」
「百頭にするんだろ?」
「……百頭になったら考える!」
私がそう答えると、グスタフさんもエリックさんも笑っていた。
ノエルと並んで歩き始める。
道の脇には新しい家が建ち始めていて、以前より人の姿も多くなった。
「ねえ、ココア。エリックさん、前よりずっと楽しそうだったね」
「うん! ほかの人に教えてたんだよ!」
「すごいね」
「ね! 私も嬉しくなっちゃった!」
ノエルはにこにこしながら聞いてくれた。
「そういえば、最近リリアが牛を見に来ないね」
ふと思い出して言うと、ノエルも首を傾げた。
「あっ、本当だ。前はよく一緒に来てたのに」
「何か忙しいのかな?」
「どうだろう。今度会ったら聞いてみようよ」
「うん!」
そんな話をしながら歩いていると、診療所の前に差しかかった。
「……あれ?」
私は思わず足を止めた。
入口の前に人が立っている。中を覗くと、待合室の椅子もほとんど埋まっていた。
「すごい人だね」
ノエルが目を丸くした。
「うん。こんなに混んでるんだ……」
受付の女性が忙しそうに行き来している。
私たちは通行の邪魔にならないところへ寄った。
すると、入口の方から聞き慣れた声がした。
「次の方はこちらですわ! お名前を教えてください!」
「……リリア?」
診療所の入口で、リリアが忙しそうに動いていた。
手には紙の束を持ち、患者さんの名前を確認したり、受付の女性に伝えたりしている。
「リリア、あんなことしてたんだ」
ノエルが驚いたように言った。
「うん……」
私も驚いていた。
最近、牧場に来なかったのは、ここでお父様のお手伝いをしていたからなのかもしれない。
いつも私たちと一緒に遊んでいるリリアとは、少し違う顔だった。
そのとき、列の後ろから小さな子供の声が聞こえた。
「ぼく、帰る……」
母親に手を引かれた男の子が、入口の前で足を止めていた。
「もう少しだからね」
「やだ。お医者さん、こわい……」
リリアはその声に気づくと、受付の女性に一言断ってから、男の子のところへ向かった。
「こんにちは。どうしたんですの?」
「お医者さん、こわい……」
「そうですのね」
リリアは少し考えてから、男の子の目線に合わせてしゃがんだ。
「わたくしも、小さいころは怖かったですわ」
「……ほんと?」
「ええ。お父様のお仕事場なのに、診察台に座るだけで泣いてしまったこともありますの」
男の子は涙の残る目でリリアを見た。
「でもね、怖かったら、怖いって言っていいんですのよ」
「……いいの?」
「もちろんですわ。お父様にも、ちゃんと伝えてあげます」
男の子は少し考えてから、小さくうなずいた。
「……うん」
「それじゃ、お名前を教えてくださる?」
男の子が答えると、リリアは手元の紙を確認した。
「ありがとう。順番が来たらお呼びしますわね」
男の子は母親の手を握ったまま、待合室へ入っていった。
リリアは受付へ戻り、次の患者さんの対応を始めた。
「……ねえ、今の見た?」
私がノエルの袖を引くと、ノエルもうなずいた。
「うん。リリア、すごいね」
「うん!」
リリアは病気を治したわけじゃない。
でも、男の子は怖い気持ちを話せて、さっきより少し安心したように見えた。
私には、あんなふうに話せるか分からない。
「……リリア、頑張ってるね」
「うん。私たちが知らない間に、いろんなこと覚えてたんだね」
声をかけようかと思ったけれど、リリアはもう次の患者さんの対応を始めていた。
今は邪魔しない方がいい。
私はもう一度、リリアを見た。
いつも一緒に遊んでいるときとは違う、真剣な横顔だった。
エリックさんが牛の世話を覚えて、ほかの人に教えるようになったように、リリアも自分にできることを見つけていたんだ。
なんだか、少し誇らしかった。
「帰ろうか、ノエル」
「うん!」
私たちは、そっと診療所をあとにした。
通りを歩きながら、私はさっきのリリアの顔を思い出していた。
「ねえ、ノエル」
「なあに?」
「リリア、今度会ったら褒めたいな」
「えー。リリア、きっと怒るよ」
「なんで?」
「『子供扱いしないでちょうだい!』って」
ノエルがリリアの口調を真似すると、思わず笑ってしまった。
「言いそう!」
「でしょ?」
「じゃあ、どうしよう」
「普通に『すごかったよ』って言えばいいんじゃない?」
「そっか!」
それなら、きっと伝わる。
牧場では、エリックさんが次の人に仕事を教えていた。
診療所では、リリアがお父様の仕事を手伝っていた。
私が知らないところでも、みんな少しずつできることを増やしている。
そう考えると、なんだか嬉しくなった。
「ココア、何笑ってるの?」
「えへへ。内緒!」
「えー、教えてよ!」
「帰ったら教える!」
「今がいい!」
ノエルが笑いながら私の手を取った。
私はその手を握り返し、一緒に屋敷への道を歩いた。
百頭の牛を飼えるようになるのは、まだずっと先のことだと思う。
でも、その日が来たとき、牧場にはきっと、今よりたくさんの先生がいる。
そして町には、リリアみたいに自分の仕事を見つけた人が、もっと増えているのかもしれない。
そんな未来を想像しながら、私は少しだけ歩く足を速めた。




