第81話 牛が来た
牛が来る。
その知らせが届いた朝、私はいつもよりずっと早く目を覚ました。
「まだ早うございます」
「起きちゃった」
「牛は逃げません」
「分かってるよ」
「では、もう少しお休みくださいませ」
「眠れない」
ヒルダはしばらく黙って私を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……朝食までは、お部屋から出てはいけませんよ」
「はい」
「窓から牧場予定地を眺めても、牛はまだ来ません」
「……はい」
どうして分かったんだろう。
王領から受け入れる牛の数は、最初に話に出た百頭よりずっと少なくなった。
人手、飼料、水、牛舎、冬越し。グスタフさんや叔父様たちと一つずつ確認して、今の町で無理なく世話を続けられる数から始めることにしたのだ。
百頭をもらえるから、百頭飼うんじゃない。
飼える数から始めて、人と牛の両方を少しずつ増やしていく。
牧場の場所も決まった。町から少し離れた緩やかな傾斜のある土地で、既存の畑を潰さず、水を確保できる。周囲には将来飼料を作れそうな土地もあり、牛が増えたときに牛舎や放牧地を広げる余地も残されていた。
グレタたちが最初に必要な牛舎と柵を整え、グスタフさんにも何度も確認してもらった。王領の牧場から来る飼育経験者とも話し、エリックさんたちもグスタフさんのところで少しずつ仕事を覚えている。
調べて、聞いて、準備して。
それでも昨日までは、牧場に牛はいなかった。
そして今日。
ようやく牛が来る。
◇
朝食を終えて牧場へ向かうころには、町にも話が広がっていた。
道沿いには仕事へ向かう途中で足を止める人がいて、子供を連れて見に来た人もいる。
「お花のお姉ちゃん!」
声の方を見ると、エマがミラさんと一緒に立っていた。
「エマ」
「牛、来るの?」
「来るよ」
「いっぱい?」
「最初だから、飼えるだけ」
「百頭じゃないの?」
「百頭も来たら、グスタフさんが怒ると思う」
「怒るぞ」
「わっ!」
いつの間にか後ろにいたグスタフさんに、思わず肩が跳ねた。
「聞こえてたの?」
「聞こえるように言っただろうが」
グスタフさんは鼻を鳴らすと、集まっている人たちを見回した。
「見物は構わんが、柵の中には入るな。牛はでかい。大人しく見えても、人間の都合なんぞ知らんからな」
その言葉で、何人かの親が子供の手を握り直す。
少し離れたところでは、エリックさんたちが待っていた。
三日間の見習いを終えた人。経験を確認して加わった人。まだグスタフさんについて仕事を覚えている途中の人。
これから、この牛たちを飼う人たちだ。
やがて、道の向こうから人と荷車の列が見えた。
その後ろを、牛が歩いてくる。
「……来た」
思わず声が漏れた。
大きい。
知識として牛の大きさは知っているし、この世界でも牛を見たことはある。それでも、何頭もの牛がまとまってこちらへ向かってくる光景は、まるで違って見えた。
重い足音が重なり、低い鳴き声が響く。乾いた土の匂いの中へ、少しずつ獣の匂いが混ざってきた。
町に、新しいものが入ってくる。
眼鏡でも、石鹸でも、壁でもない。
今度は、生きている。
「ココア、すごいね」
いつの間にか隣へ来ていたノエルが言った。
「うん」
「大きいね」
「うん」
「さっきからそれしか言ってないよ」
「……だって大きい」
ノエルが笑った。
王領から同行してきた飼育担当者とグスタフさんが話しながら、牛を一頭ずつ囲いへ入れていく。エリックさんたちは指示された位置に立ち、柵を閉じ、水を確認し、落ち着かない牛がいればすぐ経験者へ伝えていた。
見ているだけでも、やることが多い。
最後の一頭が囲いへ入ると、集まっていた人たちから歓声が上がった。
「牛さーん!」
エマが柵の外から一生懸命手を振っている。
「エマ。牛は手を振り返さないよ」
「分かんないよ?」
「そうかな」
少し待ってみた。
牛は草を食べていた。
「振り返さないね」
「今日はね」
今日は、なんだ。
でもエマが楽しそうなので、それでいいことにした。
柵の中では、エリックさんがグスタフさんに何か注意されていた。すぐに頷き、置いていた道具の位置を直している。
少し前まで建設現場で働いていた人が、今は牛の横にいる。
その向こうには、自分の父親を見ているエマがいる。
牛が来たことも嬉しかった。
でも、それを見たとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。
◇
牛が来た日の夜、ノートへ書くことは山ほどあった。
飲水。飼料。輸送後の状態。牛舎の使い方。糞尿の量。人員配置。
王領から来た方やグスタフさんから聞いたことも、忘れないうちに記録した。
けれど、本当の問題が見えてきたのは、その数日後だった。
「辞めたい?」
叔父様の執務室で聞き返すと、向かいに座った男性が申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。やってみたんですが……俺には無理です」
最初の募集で立候補した一人だった。
理由を聞けば、特別なものではなかった。
朝が早い。臭い。餌は重い。牛舎の掃除は想像していたよりずっときつい。そして牛は、人間が疲れているからと待ってはくれない。
「グスタフさんから聞いていましたよね?」
「聞いてました。分かってるつもりだったんです。でも、聞くのと毎日やるのは違いました」
私は返す言葉を探したけれど、グスタフさんの方が先に口を開いた。
「なら、早めに言って正解だ。無理して続けて、牛の世話がおろそかになる方が困る」
「……すみません」
「謝るくらいなら、次の仕事をちゃんとやれ」
「はい」
その人だけではなかった。
さらに二人が、数日のうちに辞退した。
誰も悪くない。
仕事の大変なところは最初から説明していた。それでも、説明を聞くことと、毎朝起きて、匂いの中で餌を運び、大きな牛のそばで働き続けることは違う。
名簿から名前が減った。
「……足りない」
呟くと、先生が眼鏡の位置を直した。
「ですから、最初から百頭を受け入れなくて正解だったのです」
「うん」
それは本当にそう思う。
紙の上では足りていた人員が、実際に始めてみたら減った。
もし最初から百頭受け入れていたら、調査ではなく失敗になっていた。
でも、今いる牛は今日も食べるし、水も飲む。
「じゃあ、私も手伝う」
「ココア様」
すぐ横からヒルダの声がした。
「牛を引いたりしないよ」
「当然でございます」
「柵の中で走ったりもしない」
「当然でございます」
「餌を運ぶとか、記録するとか、水を確認するとかならできるでしょ?」
ヒルダが黙った。
これは、いけるかもしれない。
「グスタフ様が安全と判断された作業だけでございます」
「はい」
「わたくしも同行いたします」
「はい」
「牛へ勝手に近づかない」
「はい」
「糞を見つけても――」
「触らないってば!」
先生が小さく咳払いをした。
たぶん、笑った。
◇
「なんで私までいるのよ」
翌朝。
牧場へ向かいながら、リリアが不満そうに言った。
「頼んでないよ?」
「……帰るわよ」
「うん」
「本当に帰るわよ?」
「うん」
リリアが立ち止まった。
ノエルが振り返る。
「帰らないの?」
「あなたは黙ってなさい」
「リリアが帰るって言ったんじゃん」
「気が変わったのよ!」
結局、三人で牧場まで来た。
グスタフさんは私たちを見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。
「遊びじゃねえぞ」
「分かってる」
「牛には近づけん」
「分かってる」
「重い物も持たせん」
「持てるものなら持つよ」
「決めるのは俺だ」
「……はい」
任されたのは、思っていた以上に地味な仕事だった。
餌を入れるための小さな容器を運び、水桶の減り方を記録する。使った道具を洗い、牛舎の外へ運び出された汚れ物を決められた場所まで移すのを手伝う。
ノエルは、さすがに農家の娘だった。
「それ、こっちに置いた方がいいよ」
「なんで?」
「次の餌、向こうから持ってくるんでしょ? ここに置いたら邪魔になるじゃん」
「あ」
言われてみれば、その通りだ。
私はノートへ書こうとして、やめた。
「何?」
「先に動かす」
「うん。その方がいい」
現場では、記録する前にやった方がいいこともあるらしい。
リリアは最初こそ鼻を押さえていたけれど、しばらくすると何も言わずに作業していた。
「リリア、それ持てる?」
「持てるわよ」
「無理しなくていいよ」
「あなたに言われると腹が立つわね」
「なんで?」
「なんでもよ!」
少し重そうなのを見ると、ノエルが反対側を持った。
「一人で持てるって言ったでしょ」
「二人で持った方が早いじゃん」
「……それはそうだけど」
二人で文句を言いながら運んでいく。
思わず笑っていると、後ろから声が飛んできた。
「ココア様」
「はい」
「笑っていないで、ご自分の作業をなさってくださいませ」
「はい」
水の記録へ戻った。
同じように見える牛でも、一頭ずつ違う。
よく水を飲む牛もいれば、あまり減っていないところもある。餌をよく食べる牛もいれば、輸送の疲れなのか、まだ周囲を気にして落ち着かない牛もいる。
数字は残す。
でも、数字だけで決めつけない。
気になる変化があれば、グスタフさんか王領から来た経験者へ伝える。
今の私にできるのは、そこまでだ。
「お嬢様」
「なに?」
「手が止まってるぞ」
「あ、ごめんなさい」
「考えるのは仕事が終わってからにしろ」
「はい」
研究者にも容赦がない。
◇
三日目には、ブーツの泥がなかなか落ちなくなった。
服にも、しっかり匂いがついた。
牧場から屋敷へ戻る途中、自分の袖を嗅いでみる。
「……臭う?」
「臭う」
ノエルが即答した。
「そんなに?」
「すごく」
反対側を歩いていたリリアまで頷く。
「あなた、絶対そのまま屋敷に入らない方がいいわよ」
「リリアも臭うよ」
「私はあなたほどじゃないわ」
ノエルがリリアへ顔を近づけた。
「同じくらいだよ」
「ちょっと! 嗅がないでよ!」
「確認しただけじゃん」
「確認しなくていいの!」
三人で言い合っていると、後ろを歩いていたヒルダが静かに告げた。
「ご安心くださいませ。皆様、同じくらいでございます」
「ほら」
「何が『ほら』よ!」
笑った。
腕も少し重いし、疲れている。
でも、嫌ではなかった。
牧場では今日もエリックさんが働いている。
最初の日より動きが早くなった。まだグスタフさんに注意されることはあるけれど、餌を運ぶ順番も、道具を置く場所も、少しずつ迷わなくなっている。
エマは夕方になると、ときどき柵の外まで父親を迎えに来る。
エリックさんが仕事を終えて出てくると、エマが駆け寄る。泥のついた服をミラさんに注意されながら、それでも三人で一緒に帰っていく。
あの姿を見るのが、私は好きだった。
牛が増えたことよりも、牧場ができたことよりも。
エリックさんがここで仕事を覚えて、明日もまたここへ来る。
ミラさんとエマも、この町で明日を迎える。
それが少しずつ当たり前になっていくことが、嬉しかった。
◇
その日の作業を終えたところで、知らない男性が柵の外に立っていることに気づいた。
三十代くらいだろうか。作業着を着ていて、どこかで見かけたことがある気もする。
男性はしばらく牛舎の中を眺めてから、グスタフさんへ声をかけた。
「あの」
「なんだ」
「まだ、人を募集してますか?」
私は手を止めた。
グスタフさんが男性を見る。
「牛を飼ったことは?」
「ないです」
「朝は早いぞ」
「知ってます」
「臭いぞ」
「それも、ここ数日見てましたから」
男性が少し笑った。
「エリックと、建築現場で一緒だったんです」
牛舎の奥で作業していたエリックさんが顔を上げた。
「お前……」
「建築の仕事、ずっとあるわけじゃないだろ」
男性はそう言って、今度は私たちを見た。
泥のついたブーツ。
汚れた服。
たぶん、かなり臭う三人。
「楽そうには見えません」
「……そうだね」
そこは否定できなかった。
「でも、エリックが続けてるんで」
男性が牛舎へ視線を戻す。
「前は同じ現場にいた奴が、今はここで仕事を覚えてる。だったら俺も、やれるかどうかくらい試してみたいです」
私は何も言わなかった。
決めるのはグスタフさんだ。
グスタフさんは男性をしばらく見てから、短く言った。
「三日だ」
「え?」
「まず三日来い。朝からだ。楽しいところだけ見て決めるな」
聞いたことのある言葉だった。
男性が頷く。
「はい」
エリックさんが少し笑った。
◇
翌日、叔父様が牧場までやってきた。
「ココア」
「どうしたの?」
「牧場の仕事について聞きたいという者が、また二人来た」
「二人?」
「ああ。一人は町で荷運びをしている男。もう一人は近くの農家の次男だそうだ」
グスタフさんが鼻を鳴らした。
「また三日だな」
「全員?」
「全員だ」
それでいいと思った。
最初の募集では、仕事の説明を聞いて人が集まった。
そのうち三人は、実際に働いて辞めた。
そして今度は、実際に働いているエリックさんを見て、人が来た。
朝が早いことも知っている。
臭うことも、汚れることも、重い餌を毎日運ぶことも、もう隠れていない。
それでも、やってみたいと言っている。
「ココア様」
ヒルダが呼んだ。
「そろそろお戻りになりませんと」
「うん」
「本日は、玄関へ入る前に着替えていただきます」
「そんなに?」
「そんなに、でございます」
ノエルが笑う。
リリアが自分の袖を嗅いで、少しだけ顔をしかめた。
「明日も来るの?」
ノエルが聞いた。
「来るよ」
「私も」
「私は――」
リリアが口を開く。
私とノエルが見ると、少しだけ視線を逸らした。
「……朝、起きられたらね」
たぶん来る。
そう思ったけれど、言わなかった。
牧場では、夕方の餌をもらった牛が低く鳴いている。その向こうでエリックさんが、新しく来た男性に何かを話していた。
三人辞めて、三人来た。
人数だけなら、元に戻っただけだ。
でも、少し違う。
今度の三人は、ここで働いている人を見て来た。
エリックさんが仕事を覚える姿を見て、自分もやってみようと思った。
私は何も言っていない。
募集を見せたわけでも、誘ったわけでもない。
それなのに、次の人が来た。
百頭には、まだ遠い。
牛を飼える人も、まだ少ない。
でも今日、初めて見えた。
一人が仕事を覚えると、その姿を見て、次の一人がやって来る。
牛だけじゃない。
人も、こうやって増えていくのかもしれない。
柵の向こうで、エリックさんが笑った。
その隣には、明日から三日間、同じ仕事をする人が立っている。
昨日までは一人だった場所に、今日は二人いた。




