第80話 ここに残る
募集を出して三日目、叔父様から最初の希望者が出たと聞いた。
「もう?」
「ああ。ただし、牧畜経験者じゃない。大型の家畜を扱った経験もない」
「……大丈夫なの?」
「だから、お前も知ってる奴を呼んだ」
誰だろうと思いながら叔父様について外へ出ると、屋敷の前にグレタがいた。その少し後ろには、作業着姿の男の人と、その妻らしい女性、それから小さな女の子が立っている。
「お嬢。うちの現場から一人、牛をやりたいってのが出た」
「グレタのところから?」
「ああ」
壁の工事はまだ続いている。人手が余っているわけでもないはずだ。
「抜けても大丈夫なの?」
「今すぐ抜くとは言ってねえよ。それに、あたしらが造ってんのは壁だ。壁が完成したあとまで全員抱える仕事じゃねえ」
建設には終わりがある。
昨日、先生と話したばかりなのに、それが実際にそこで働いている人の生活にどうつながるのかまでは考えられていなかった。
「その人、どうして牛を――」
「あっ!」
女の子が声を上げた。
私も、その顔を見て思い出した。
「あ。お花の子」
「お花のお姉ちゃん!」
「……お姉ちゃん」
間違ってはいない。私は七歳で、この子はもっと小さい。でも、なぜか少しだけ引っかかった。
「ココア様?」
「なんでもない」
ヒルダに答えると、女の子が嬉しそうに近づいてきた。
以前、町で私に花をくれた子だった。
お父さんがここへ来てよかったと言っているから、と。
「今日はお花ないよ」
「今日はいいよ」
「明日はあるかも」
「じゃあ明日」
「ココア様」
「冗談だよ」
ヒルダが本気にした。
グレタが横で笑っている。
男の人が一歩前へ出た。
「エリックと申します。こちらが妻のミラ、娘のエマです」
「ココアです。エマとは一度会っています」
「聞いております。娘が花を押しつけたそうで」
「もらったんです。押しつけられてません」
エマが満足そうに頷いた。
私は改めてエリックさんを見る。
「牛を飼う仕事を希望してくださったんですよね」
「はい」
「経験は?」
「ありません」
「どうして応募してくれたんですか?」
エリックさんはすぐには答えなかった。
ミラさんとエマを順番に見てから、町の方へ視線を向ける。
「ここに残りたいんです」
思っていた答えと違った。
「牛を飼いたい、ではなく?」
「もちろん、仕事にするなら本気で覚えます。ただ、一番の理由は家族です」
エリックさんは建設の仕事を始める前、仕事がある土地を転々としていたらしい。
建物を造れば、その現場は終わる。次の仕事が遠ければ、自分だけで行くか、家族ごと移る。
「ここへ来て、ようやく家族で落ち着いて暮らせるようになりました。借りられる家もある。妻も町で知り合いができた。娘にも友達ができました」
エマを見る。
以前、この子が言っていた。
お父さんが、ここへ来てよかったと言っている。
「壁が完成したら、また次の現場を探すつもりでした。でも募集を見て……牛の仕事なら、ずっとあるんでしょうか」
答えようとして、止まった。
ずっと。
簡単に約束してはいけない言葉だった。
牛はまだ一頭も来ていない。
受け入れられる頭数さえ決まっていないし、事業として成立するかも、これから確かめる。
「分かりません」
エリックさんの表情が少し曇った。
「まだ始まってもいないので、生涯仕事がありますとは約束できません。でも、何年か牛を飼って終わりにするつもりもありません」
「それは……?」
「ここで牛を増やして、牛を飼える人も増やして、その人たちが次の人へ教えられるようにしたいんです」
昨日、グスタフさんから聞いたことを思い出す。
牛を増やすだけでは、牧畜は残らない。
「牛乳を取れるようになれば、それを売る仕事もできます。そのままでは長く置けないので、保存できるものへ加工する方法もあると思います。でも、この土地で何が作れて、仕事として成り立つかは、まだこれから調べます」
エリックさんは黙って聞いている。
「うまく軌道に乗せられれば、建物みたいに完成したら終わる仕事ではなくなると思っています」
毎日、牛は食べる。
毎日、世話が必要になる。
子牛が生まれれば育てる。牛乳を取るなら、それを扱う仕事も続く。飼料も毎年必要になる。
「だから、うまくいけば、ここで長く続けられる仕事にはできると思います」
「だったら、覚えたいです」
エリックさんは迷わなかった。
「ここで覚えて、ここで働きたいです」
私はノートを開き、三人の名前を書いた。
エリック。
ミラ。
エマ。
一人の働き手ではなく、一つの家族だった。
◇
その日の午後、エリックさんにはグスタフさんのところへ来てもらった。
私とヒルダ、グレタも一緒だった。
「牛を触ったことは?」
「ありません」
「馬は?」
「ないです」
「羊も?」
「ありません」
グスタフさんはそこで黙った。
「なら、先にいいところじゃなく、嫌なところから話すぞ」
エリックさんが姿勢を正した。
「お願いします」
「朝は早い。冬でもだ。吹雪だから今日は寝てる、はできん。牛は腹を空かせるし、水も飲む。糞もする。お前が熱を出しても、嫁と喧嘩しても、子供が泣いても、牛には関係ねえ」
私は黙って聞いた。
「毎日だ。臭いもつく。糞尿の片づけもある。餌を運べば腰も痛める。牛はでかいから、扱いを間違えりゃ蹴られるし踏まれる。大人しい奴でも、お前よりずっと重い」
エリックさんの顔から、さっきまでの少し明るい表情が消えていく。
でも、グスタフさんは止めなかった。
「病気にもなる。昨日まで元気だった牛が朝になったら立てねえこともある。子を産むときに人の手が必要になることもある。助けられないことだってある」
「……死ぬことも?」
「ああ」
短い返事だった。
「育てた牛が死ぬ。子牛が死ぬこともある。金の損だけじゃねえ。毎日餌をやって、顔を見て、癖まで知ってる奴が死ぬんだ。慣れりゃ平気になると思うなら、やめとけ。俺は今でも嫌だ」
誰も口を挟まなかった。
牧畜は、牛乳を作る仕事。
私はどこかで、そんなふうに項目へ変えて考えていたのかもしれない。
でも、その牛乳を出す牛は生きている。
「それでもやるか?」
グスタフさんが聞いた。
エリックさんはすぐには答えなかった。
私は、その沈黙が嫌ではなかった。
家族の生活を変える仕事なのだから、簡単に「やります」と言う方が怖い。
「……楽な仕事じゃないとは思っていました」
「思ってたのと、やるのは違うぞ」
「はい」
エリックさんは牛舎の方を見た。
「だから、まず教えてください。それでも続けられると思えたら、やらせてください」
グスタフさんが少しだけ頷いた。
「なら三日来い」
「三日?」
「朝から俺と一緒にやる。餌を運んで、水を見て、糞を片づけろ。牛舎も掃除しろ。楽しいところだけ見て決めるな」
「分かりました」
「三日で分かるとも思ってねえ。ただ、最初の一日で来なくなる奴もいる」
グレタが鼻で笑った。
「こいつは来るよ」
「ずいぶん買ってるな」
「毎日現場に来る。遅れねえ。分からねえことを勝手にやらねえ。教えりゃ覚える。手ぇ抜いて怪我するような馬鹿でもねえ」
「本人の前で全部言うんだ」
「お嬢が聞いたんだろ」
「そうだけど」
グスタフさんが初めて少し笑った。
「なら、明日の朝からだ」
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うな。糞掃除してからにしろ」
私もノートを開いた。
「糞って、体調を見るのにも使いますよね?」
「使うぞ。食ってるもんや腹の調子が出る」
「色とか、硬さとか?」
「そうだな」
「記録した方が――」
「ココア様」
後ろからヒルダの声が飛んできた。
「見るだけだよ」
「触らないでくださいませ」
「触らないってば」
「絶対に」
「なんで二回言うの?」
「ココア様だからでございます」
納得できない。
グレタが笑い、エリックさんまで笑った。
さっきまで重かった空気が、少しだけ軽くなった。
すると、グスタフさんが柵の向こうを見た。
「まあ、悪いことばっかりでもねえがな」
ちょうど母牛のそばに、小さな子牛がいた。
まだ若いらしく、細い脚で母牛の後ろをついて歩いている。
「こいつも、ここで生まれたんですか?」
「ああ。最初は立てなくてな」
グスタフさんの声が少し変わった。
「生まれたばかりの子牛が初めて立つところは、何十回見てもいいもんだ。ふらふらして、何度も転んで、それでも立つ」
子牛がこちらを見た。
「自分で育てた牛が子を産んで、その子がまた育つ。去年より一頭増えた、二頭増えたってな。そうやって自分の群れになっていく」
「自分の群れ……」
「最初から百頭持つより、俺はそっちの方が好きだ」
思わずグスタフさんを見た。
昨日、考えたことと似ていた。
王国から百頭もらうのではなく、この土地で増えた百頭になればいい。
「牛は毎日世話がいる。だから大変だ。だが逆に言えば、毎日仕事がある」
グスタフさんはエリックさんを見る。
「牛がいて、餌を作れて、乳や肉を買う奴がいる。そこまで回るようになりゃ、建物みてえに完成して終わりじゃねえ。年を取って体が動かなくなったら、今度は若い奴に教えりゃいい」
「生涯の仕事にできますか?」
「お前らがちゃんと続けられる仕組みを作れりゃな」
グスタフさんは私にも視線を向けた。
「お嬢様一人が頑張ってるうちは駄目だぞ」
「分かってます」
「本当か?」
「昨日それを調べたところです」
「なら覚えとけ。牛を増やすだけじゃ牧畜にはならん。飼う奴が育って、そいつが食っていけて、次の奴に教えられるようになって、やっと残る」
「はい」
エリックさんも頷いた。
辛い。
休めない。
生き物だから、思い通りにもならない。
それでも、育てたものが次へつながっていく。
仕事そのものも、次の世代へ渡していける。
昨日ノートに書いた『継承』という文字が、少しだけ違って見えた。
◇
三日間の見習いが始まると、エリックさんは本当に毎朝来た。
まだ暗いうちからグスタフさんのところへ行き、餌を運び、水を確認し、牛舎を掃除する。昼からはグレタの現場へ戻った。
二日目に会ったときは、明らかに疲れた顔をしていた。
「大丈夫?」
「腰が痛いです」
「やめる?」
「娘に聞かれました」
「何を?」
「牛のお仕事、楽しい? って」
「なんて答えたの?」
「まだ分からないって」
それでいいと思う。
三日目。
エリックさんはまた来た。
そして、その日も仕事を終えた。
「どうだった」
グスタフさんに聞かれ、しばらく考えてから答えた。
「きついです」
「そうだろ」
「臭いです」
「そうだな」
「腰も痛い」
「ああ」
「でも」
エリックさんが牛舎の中を振り返った。
「昨日、俺が餌を持って入ったら、一頭こっちに寄ってきたんです」
「餌目当てだ」
「分かってます」
エリックさんが笑った。
「でも、ちょっと嬉しかったです」
グスタフさんも笑った。
「なら、もう少しやってみろ」
「はい」
それで、最初の見習いが一人決まった。
◇
エリックさんが始めたと聞いてから、募集への問い合わせが増えた。
グレタの現場からもう一人。町の外からは馬を扱った経験がある人が来た。実家で羊を飼っていたという女性もいたし、経験はないけれど仕事を覚えたいという若者もいた。
もちろん、全員をすぐ採用したわけではない。
経験者には、実際に何をどれくらいやっていたのか確認する。未経験者にはグスタフさんたちと話してもらい、仕事の良いところだけではなく、続ける大変さも説明する。叔父様と先生は給金や雇用条件を詰めていった。
私は、その横で名簿を作った。
名前、年齢、経験、希望する仕事、住居の有無。
そして――家族。
書いている途中で、手が止まった。
「先生。これ、家族も書いた方がいいですよね?」
「当然でございましょう。移住を伴うのであれば、ご本人だけを数えるわけにはまいりません」
妻。
夫。
子供一人。
子供二人。
単身。
家族と移住希望。
仕事をする人の名前だけを書けば終わると思っていた。でも、その人には一緒に暮らす人がいる。
「この人たちが来たら、住む家が必要です。食べる人も増えるし、子供も増える」
「左様でございますな」
「……牛を飼う人だけが増えるんじゃないんだ」
先生が私を見る。
宰相閣下の言葉を思い出した。
『人を集める仕事と、人を住まわせる仕事は違う』
あのときは意味を理解したつもりだった。
でも今、名簿の上には、それが名前になって並んでいる。
牛を飼う人を募集した。
集まってきたのは、労働力ではなかった。
ここで働こうとする人。ここで暮らそうとする人。そして、ここで子供を育てようとする人たちだった。
最初に来たエマを思い出す。
前に会ったとき、あの子は私に花をくれた。
お父さんが、この町へ来てよかったと言っているから。
今度は、そのお父さんがここに残りたいと言った。
「先生」
「はい」
「家、足りますか?」
先生が答える前に、近くで帳簿を見ていた叔父様が顔を上げた。
「この人数が本当に来るなら、足りなくなるな」
「……また?」
「人が増えてるんだから当たり前だろ」
家は前にも増やした。
それでも、また足りなくなる。
困るはずなのに、少しだけ嬉しかった。
「グレタを呼ばないと」
「さっきまでいただろ」
「帰っちゃった」
「明日でいい」
「でも、家と牛舎と――」
「ココア」
「はい」
「一日で町はできん」
「……はい」
分かっている。
たぶん。
名簿へ目を戻した。
牛を百頭もらえるかもしれない、という話から始まったのに、まだ牛は一頭も増えていない。
先に増え始めたのは、ここで暮らしたいと言ってくれる人だった。
ノートの『飼育担当者』の横に、最初の名前を書き込む。
エリック。
その隣には、家族の名前も書いた。
ミラ。
エマ。
あの花をくれた女の子。
牛を飼える土地を作るより先に、ここを自分たちの土地にしたいと思ってくれる家族が、一つ増えた。




