第78話 百頭
ココア商会ができる。
正確には、あとは私が最終案を確認すればいいところまで、私の知らないところでほとんどできていた。
「こちらが最終案でございます」
先生から渡された紙の束を、両手で受け取る。
お父様と叔父様、それから宰相閣下たちは、あの日から何日も話し合いを続けていた。
誰が後見人になるのか。何を商会で扱うのか。研究から生まれたものを、どの段階で商会を通して扱うのか。利益をどう分けるのか。王国が関わる場合はどうするのか。
最初のうちは、同じ部屋で話を聞いていた。
でも、途中から思った。
これ、ずっといなくてもいいよね?
話していることは分かる。契約も、お金も、権利も大事だ。
でも、法律上どの形がいいのか、王国と伯爵家のどちらがどこまで責任を持つのか。この国の制度に関わるところまで、口を出す必要はない。
知らない言葉が出るたびに質問すると、その説明から別の話へ進み、そこからまた新しい言葉が出てくる。
頭が疲れる。
それに、嫌なこと、守りたいこと、やりたいことは、最初の日にだいたい伝えてある。
だから二日目の途中で、
「最後にすべて確認する形では駄目でしょうか?」
と聞いた。
宰相閣下は少しだけこちらを見たあと、
「構わん」
と言った。
先生も止めなかった。
それからは、必要なとき以外は呼ばれなくなった。
少し寂しかった。
でも、少しだけだった。
「……うん」
紙をめくる。
調べているだけのものは、研究のまま。
商品として売ったり、誰かに製造してもらったりするときは商会を通す。
すでに結んでいる契約は、そのまま。
眼鏡を商会へ取り戻すようなこともしない。
これから改良したものまで、自動的に誰かのものになることもない。
誰か一人だけに販売権を与えるような大きな契約も、知らないところでは決められない。
一方で、危険なものや王国の安全に関わるものは、好き勝手に広めてはいけない。
作った人、改良した人、実際に生産する人の利益についても考えられている。
そして、商会に残った利益の一部は――。
「研究費」
思わず声が出た。
「そこだけ二度お読みになりましたな」
「大事だから」
「左様でございますか」
先生が眼鏡を押し上げる。
もう一度、最初から紙をめくった。
嫌だと言ったことが、言葉を変えてこっそり入っていないか。逆に、気づいていなかった危ないところはないか。
分からない言葉は先生に聞いた。
最後まで読み終えて、紙を揃える。
「……何も言うことない」
「それは何よりでございます」
「なんか悔しい」
「何故でございますか」
「私の商会なのに」
先生が少しだけ目を細めた。
「ココア様がお決めになったことを、実際に動かせる形へ整えるのが、我々の仕事でございます」
「……そっか」
それなら、いいのかもしれない。
もう一度、表紙を見る。
全部を自分で決めたわけじゃない。むしろ、細かいところのほとんどは大人たちが決めた。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
何を嫌がるか。何を守りたいか。何なら任せられるか。
ちゃんと分かった上で作ってくれている。
全部を自分でやらなくても、考えたことは残っている。
「……じゃあ、これでいい」
「承知いたしました」
先生が紙を受け取った。
これで本当に、することがなくなった。
◇
「……暇」
厨房の隅の椅子に座って、机に頬をつけた。
「でしたら、お部屋でお休みになってはいかがです?」
料理長は手を動かしたまま、こちらを見もしない。
「疲れたから来たの」
「休む場所を間違えております」
「頭が疲れた」
「なおさら厨房ではないかと」
分かってない。
難しい話を何日も聞いたあとに欲しいのは、静かな部屋じゃない。
「甘いもの食べたい」
「焼き菓子でしたらございますが」
「んー……」
甘いもの。
卵。
牛乳。
砂糖。
そこまで考えたところで、前の世界で食べていたものが浮かんだ。
「プリン」
「……ぷりん?」
久しぶりに聞いた。
この世界にはない言葉。
「料理長。卵と牛乳と砂糖ってある?」
「ございます」
「全部使っていい?」
料理長が、ようやくこちらを見た。
「量によります」
「少しだけ」
「でしたら構いませんが、何をお作りになるので?」
「卵と牛乳を混ぜて、ゆっくり固めるお菓子」
「焼くのでございますか?」
「焼くというより……強く熱しすぎないように温めたいの」
作り方を思い出す。
プリンそのものは難しくない。でも、火加減を間違えると、きれいには固まらない。
ここには温度計も、前の世界で使っていたようなオーブンもない。
だったら、そこは料理長に聞いた方がいい。
「料理長。卵と牛乳を、沸かさないくらいの熱でゆっくり固めたいんだけど、この厨房ならどうするのがいい?」
「それでしたら、器を直接火へ掛けるのはよろしくありませんな」
料理長が少し考え、鍋を指した。
「湯を張り、その中へ器を置けば、火の当たりを柔らかくできます」
「それ!」
「ご存じではなかったのですか?」
「やりたいことは知ってた。でも、この厨房でどうやるのがいいかは、料理長の方が知ってるでしょ?」
料理長が一瞬、黙った。
「……左様でございますか」
「うん。失敗して捨てるの嫌だし」
「それは結構なことでございます」
卵だって、牛乳だって、砂糖だって、勝手に湧いてくるわけじゃない。
食べられる失敗なら食べればいいけれど、最初から失敗を減らせるなら、その方がいい。
「分量は?」
「まず少しで試す」
卵を割り、料理長に普段使っている器の大きさを聞きながら、牛乳と砂糖の量を決める。
「混ぜすぎると泡が入るんだよね」
「では、こちらを」
料理長が小さめの泡立て器を渡してくれた。
「強く立てず、切るように混ぜればよろしいでしょう」
「なるほど」
やってみる。
料理長が横から見ている。
「もう少し静かに」
「これくらい?」
「ええ」
牛乳は先に少し温めてもらった。
熱くしすぎない。砂糖を溶かして、卵へ少しずつ合わせる。
「一気に入れたら?」
「卵が固まるかもしれません」
「正解」
「何故、私が試されているので?」
「なんとなく」
「お嬢様」
「ごめんなさい」
ちょっと楽しくなってきた。
混ぜた液を器へ入れる前に、料理長が布を持ってきた。
「一度こちらを通した方が、滑らかになるのでは?」
「あ」
それはいい。
「やろう!」
細かな泡や、混ざりきらなかったものが布に残る。器へ入れると、表面もきれいになった。
「料理長、すごい」
「料理人でございますので」
それから湯を張った鍋へ器を並べた。
火加減は料理長に任せる。
私は横で時間と状態を見る。
「もう少し?」
「急ぐと、先ほど仰っていた失敗になりますぞ」
「……待つ」
待つ。
気になる。
蓋を開けたい。
「まだです」
「何も言ってないよ」
「顔に出ております」
ばれた。
少し待ってから、料理長が蓋を開けた。
湯気の向こうで器をそっと揺らす。
表面が、ぷるん、と動いた。
「……できた」
「まだ熱うございます」
「分かってる」
食べたい。
でも待つ。
冷ました方がおいしい。
そこも我慢した。
十分に冷めてから、匙を入れる。
滑らかだった。
一口。
卵のやさしい味と、牛乳の濃さ。そこに砂糖の甘さが重なる。
前の世界で食べていたものと、まったく同じじゃない。
でも。
「おいしい」
もう一口食べた。
「料理長も」
「では」
料理長が慎重に口へ運ぶ。
少しだけ目が開いた。
「どう?」
「……悪くありません」
「もう一口食べたら、おいしいってことにするね」
「勝手に決めないでいただきたい」
そう言いながら、二口目を食べている。
やっぱりおいしいんだ。
「もう少し甘さを抑えてもよろしいかもしれませんな」
「私もそう思う。あと、上に少し苦い甘さがあると、もっとおいしいんだけど」
「苦い甘さ?」
「砂糖を焦がすの」
料理長の顔が変わった。
「それは私が試しましょう」
「私もやる」
「火傷なさいます」
「じゃあ見る」
「それならば」
砂糖を無駄にしないよう、ごく少量だけ。
料理長が鍋を扱い、私は色の変化を見る。
透明だった砂糖が溶け、薄い色がつき、香りが変わっていく。
「もう少し……そこ!」
火から外す。
少量の湯を加えるところも料理長に任せた。
音を立てて跳ねる。
「……任せて正解だった」
「最初からそう申し上げております」
少しだけプリンへかけて、食べる。
「……これ」
「ええ」
「これだ」
甘い。
でも、少し苦い。
卵と牛乳の味が、もっとはっきりする。
最初に作ったものも含めて、失敗して捨てるものは一つもなかった。
それが、なんだか嬉しかった。
「料理長」
「何でしょう」
「もう少し作っていい?」
「皆様への差し入れでしょうか」
「うん」
「でしたら、最初からそう仰ってください」
「最初は私が食べたかっただけだから」
「存じております」
なんで分かったんだろう。
でも、二人で作れば早かった。
同じ分量。
同じ火加減。
同じ時間。
二回目は、一回目より迷わない。
ノートへ書く。
『卵、牛乳、砂糖。湯を使い、直接強い熱を当てない。料理長の方法――良好』
「私の方法、でございますか」
「だって、火加減は料理長が決めたでしょ?」
「元の料理を考えたのはココア様でしょう」
「じゃあ、一緒」
その下へ書き足した。
『料理長と作製』
「これでいい?」
「お好きになさいませ」
なんとなく、料理長が少し嬉しそうに見えた。
◇
夕方。
出来のよかったプリンを持って、まだ話し合いをしている部屋へ向かった。
盆はヒルダが持ってくれている。
「皆様の分までお作りになったのですね」
「ずっと話してるから、疲れてると思って」
「ココア様もお疲れだったのでは?」
「だから作ったの」
「……はい?」
「頭が疲れたときは、違うことをするの」
「それは、お休みとは違うのでは?」
「休んだよ。楽しかったから」
ヒルダは納得していない顔をしていた。
部屋へ入ると、お父様、叔父様、宰相閣下がまだ紙を広げていた。先生も先に戻っている。
「休んでいたのではなかったのか」
お父様が言った。
「休んでたよ」
先生がこちらを見る。
「厨房で」
「休んでないじゃないか」
「頭は休んだもん」
ヒルダから盆を受け取り、小さな器を一つずつ置く。
「差し入れです」
宰相閣下が器の中を見る。
「これは?」
「プリンです」
「ぷりん」
「卵と牛乳と砂糖で作ったお菓子です。料理長と一緒に作りました」
「君が考えたのか?」
「作り方は知識として知っていました。でも、この厨房でどう火を入れるかは、料理長に教えてもらいました」
「なるほど」
宰相閣下が匙ですくう。
一口。
止まった。
もう一口。
ちょっと嬉しくなった。
「いかがでしょうか?」
「……うまい」
「ですよね」
「何故お前が得意げなんだ」
叔父様が言った。
「作ったから」
「料理長と一緒に、だろ」
「私もちゃんと作ったよ!」
「分かった分かった」
そこは大事だ。
お父様も食べている。
何も言わない。
「お父様?」
「うまい」
「ほんと?」
「ああ」
やった。
商会の書類に何も言うことがなかったときより、少しだけ嬉しい。
宰相閣下が器の底に残ったカラメルを匙ですくった。
「この少し苦い部分も砂糖か?」
「はい。焦がすところは危ないので、料理長にやってもらいました」
「そこは任せるのだな」
「料理長の方が上手ですから」
当たり前だ。
宰相閣下が一瞬こちらを見て、それから空になった器を置いた。
「これは売るのか?」
「まだ売っておりません」
「何故だ?」
「今日作ったばかりです」
叔父様が笑った。
「ココアにしては珍しいな。うまいなら売ると言わないのか」
「言わないよ」
材料がどれだけ必要かも分からない。毎日同じように作れるかも分からない。
それに今日は、食べたかっただけだ。
「でも、作る人が同じように作れて、材料も足りるなら、売れるかもしれない」
「もう考えているではないか」
「聞かれたから!」
また笑われた。
宰相閣下は笑いながらも、空の器を見ていた。
「材料は、卵と牛乳と砂糖と言ったな」
「はい」
「牛乳か」
宰相閣下が窓の外へ目を向けた。
まだ明かりが残っている。
家が増えた。
店も増えた。
工事をしている人もいる。
知らない人を見ても、前ほど驚かなくなった。
「ココア嬢」
「はい」
「この町には、牛が何頭いる?」
「……分かりません」
急に難しい質問になった。
「牛を飼うことを生業としている家は?」
「それも、分かりません」
先生を見る。
「私をご覧になりましても、正確な数は資料を確認せねば分かりませんぞ」
先生も即答はできないらしい。
宰相閣下は頷いた。
「数日、この町を見た。面白い町だ」
「ありがとうございます」
「だが、気になることもある。人は増えている。職人、商人、荷を運ぶ者。宿も店も増え、建物を造る者も多い。それで今は仕事がある」
宰相閣下は窓の外を見たまま続けた。
「だが、壁を造り終えたらどうする。家を建て終えたら? 必要な店が一通り揃った後は?」
すぐには答えられなかった。
町はずっと大きくなっていた。
必要なものが次々と出てきた。
だから、その先まで深く考えていなかった。
「職人が悪いと言っているのではない。商人も必要だ。だが、仕事を求めて来た者は、その仕事がなくなれば次の土地へ移ることもできる」
宰相閣下がこちらを見る。
「人を集める仕事と、人を住まわせる仕事は違う」
その言葉は分かった。
この町へ来る理由は増えた。
でも、ずっとここにいる理由。
それは同じじゃない。
「この土地で子を育て、その子が大人になっても続けられる仕事がいる。毎年、この土地から生み出せる仕事だ」
「農業のようなものでしょうか」
「そうだ。農業もその一つだ」
ノエルの顔が浮かんだ。
畑は一年で終わらない。
今年作って、来年も作る。その次も。
「この辺りには、まだ使える土地があると聞いている。水もある。気候や飼料について調べる必要はあるが、牧畜を育てる余地はあるだろう」
「牧畜……」
空になったプリンの器を見る。
牛乳。
宰相閣下も同じものを見たらしい。
「王領にも牧場がある」
「はい」
「そこから、導入用の牛を回すことはできる」
「牛を、いただけるのですか?」
「ただ渡すつもりはない。王国として、この土地に牧畜を育てるための支援だ」
後見。
昨日までなら、それは言葉だった。
でも、今は少し違って見えた。
私たちだけでは用意できないものを、王国が出してくれる。
「どれくらいでしょうか」
「受け入れられるなら、百頭程度から考えてもいい」
「…………百?」
「多いか?」
「多いです!」
思わず大きな声が出た。
牛が百頭。
一頭でも大きいのに、それが百頭。
いや、待って。
どこに置くの?
何を食べる?
誰が世話する?
冬は?
全部が乳を出すわけじゃない。雄もいる。子牛もいる。
そもそも、王領の牛がこの土地の冬に向いているかも分からない。
「お待ちください」
「何だ?」
「百頭を今すぐ連れてくるのは駄目です」
宰相閣下の眉が動いた。
「ほう」
「受け入れられるか調べてからです」
土地、水、飼料、冬の牛舎、世話をする人。
今この土地にいる牛。
その牛を飼っている人たちが、どうやって冬を越させているのか。
「牛のことを知っている方にも、お話を伺いたいです」
「王領の牧場から人を出すこともできる」
「本当ですか?」
「ああ。牛だけ渡して失敗されても、王国としては困る」
それは助かる。
前の世界の知識はある。
でも、この土地の牛を育てたことはない。
ここの冬も、飼料も、病気も知らない。
知っている人がいるなら、その人に聞く方がいい。
「ただし、牛を渡して終わりでは意味がない。育てる者を決め、土地を整え、増やせ。百頭を二百頭、三百頭にするのは、この土地の仕事だ」
「……はい」
「できるか?」
すぐには答えなかった。
分からないからだ。
だから。
「まず、できる条件を調べます」
宰相閣下が少しだけ笑った。
「君なら、そう言うと思った」
なんだか悔しい。
でも、悪い気はしなかった。
百頭の牛。
牧場。
牛乳。
そこまで考えて、空になった器が目に入った。
「あ」
「どうした?」
「卵」
「卵?」
プリンには、牛乳だけじゃ足りない。
宰相閣下を見る。
「鶏もいただけませんか?」
部屋が静かになった。
宰相閣下がこちらを見る。
お父様も。
叔父様も。
先生がゆっくり眼鏡を押し上げた。
「……何故、そうなるのです」
「プリンには卵も必要だから」
「ココア様」
「違うよ!」
先生が何も言う前に否定した。
「プリンだけじゃないから!」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「顔が言ってた」
叔父様が吹き出した。
ヒルダも後ろで笑っている。
でも、鶏。
考えてみる。
卵が取れる。
肉にもなる。
糞は、そのままでは駄目でも、きちんと扱えば畑へ戻せるかもしれない。
餌がいる。
冬も食べる。
増やすなら、病気が広がらないようにすることも必要になる。
「卵だけではありません。鶏を増やせば、仕事になります。餌を作る人も必要になりますし、糞もきちんと処理すれば畑に使えるかもしれません。それに卵が増えれば、料理にも使えます」
「ほう」
「もちろん、今いる鶏や餌の量を調べてからです」
「最後が本命ではないのか?」
「全部大事です」
「プリンは?」
「……大事です」
今度は、お父様まで笑った。
宰相閣下はしばらくこちらを見ていたけれど、やがて空になった器を持ち上げた。
「まず調べろ」
「はい!」
「この土地に牛と鶏がどれだけいるのか。誰が育てているのか。何を食わせ、どう冬を越しているのか」
「はい」
「その上で、必要な数を出せ。牛もだ。百頭を受け入れられないなら、受け入れられる数から始めればいい」
「承知いたしました」
「理由がプリンだけなら、鶏の支援は却下する」
「プリンだけではありません!」
「ならば証明しろ」
「します!」
頭の中に、もう聞きたいことが並び始めていた。
今いる牛と鶏。
土地。
牧草。
冬の飼料。
牛舎と鶏小屋。
水。
乳の保存。
卵の供給。
糞の処理。
誰に聞けばいい?
バルドさんなら土地のことは分かる。
ノエルのお父さんにも聞ける。
今すでに家畜を飼っている人がいるなら、その人たちの話が一番大事だ。
王領から来る人にも聞きたい。
分からないことが、一気に増えた。
「……ふふ」
「何を笑っている?」
叔父様に聞かれた。
「いっぱいあるなって」
「何がだ」
「調べること」
さっきまで、することがないと思っていた。
商会の話は、自分がいなくても進んだ。
それでよかった。
自分より詳しい人がいることは、その人に任せればいい。
料理だってそうだった。
プリンは知っていた。
でも、この厨房で一番上手に火を扱えるのは料理長だった。
牛もきっと同じだ。
知っていることだけで始めなくていい。
この土地で牛を育ててきた人に聞けばいい。王領で育てている人にも聞けばいい。
知らないことを知っている人と、一緒に考えればいい。
「ココア様」
先生が小さく息を吐いた。
「つい先ほどまで、することがないと仰っておられたのですがな」
「もういっぱいあるよ」
「そのようですな」
窓の向こうには、まだ完成していない壁が見える。
その向こうには畑がある。
さらに向こうには、まだ使われていない土地もある。
そこに百頭の牛がいるところを想像してみた。
さすがに多かった。
「……最初は百頭じゃなくてもいいよね?」
宰相閣下が笑った。
「それを調べるのが、君の仕事だ」
「はい」
商会ができる。
次は牛が来るかもしれない。
鶏も増えるかもしれない。
プリンも、もっとおいしくできる。
そして、分からないことがたくさんある。
さっきまで暇だったのが、嘘みたいだった。
やっぱり私は、こっちの方がいい。




