第3話 知識の扉 後編
第3話 学ぶということ
翌朝。
ココアは、いつもより少し早く目を覚ました。
着替えを済ませると、朝食までまだ時間があるというのに机へ向かう。
昨日使った歴史書を開いた。
初代国王アルベルト。
八百年前。
戦乱。
統一。
建国。
昨日セバスから教わったことを、紙へ一つずつ書き出していく。
その横には、
『なぜ戦争になった?』
『王様がいない時代は、誰が決めていた?』
『王様はどうして世襲?』
『他の国も同じ?』
新しい疑問が並んでいた。
「うーん……。」
ココアは羽根ペンの先を頬へ当てる。
一つ分かった。
なのに、
分からないことは昨日より増えている。
「……変だなぁ。」
紙を見つめる。
余白は、疑問で埋まり始めていた。
それなのに。
ココアは嬉しそうに笑った。
「知らないこと、増えちゃった。」
コンコン――。
「ココア様。朝食のお時間でございます。」
「はーい!」
ココアは紙を置き、椅子から飛び降りた。
◇
午前。
コンコン――。
「失礼いたします。」
「先生!」
扉が開くより早く、ココアが振り返る。
入ってきたセバスの腕には、一冊の本が抱えられていた。
昨日までの本とは違う。
大きく、
分厚い。
ココアの視線が、すぐにそこへ吸い寄せられた。
「それ、昨日と違う本?」
「よくお気付きになりましたね。」
セバスは机まで歩き、
静かに本を置いた。
ドン。
厚い表紙が机へ触れる。
ココアは椅子へ座ることも忘れ、その表紙を覗き込んだ。
――『王立学院 初等課程』
「……学院?」
「はい。」
「王立学院の初等課程で使用されている教材でございます。」
ココアが顔を上げる。
「私が読んでもいいの?」
「そのために持ってまいりました。」
「ほんと!?」
ぱっと顔が明るくなる。
すぐ椅子へ座り、本へ手を伸ばした。
「お待ちください。」
セバスが止める。
「?」
「一つ、お約束していただきたいことがございます。」
「なに?」
「分からないことがあれば、分からないと仰ってください。」
「うん。」
あまりにあっさりした返事だった。
「恥ずかしいことではございません。」
「もちろん!」
今度は即答だった。
セバスが僅かに目を瞬かせる。
「……そうですか。」
「だって。」
ココアは本へ手を置いた。
「分からないのに、分かったって言ったら。」
「ずっと分からないままでしょ?」
そして、
何でもないことのように続ける。
「分からなかったら、調べればいいんだよ。」
セバスは僅かに目を細めた。
「……仰る通りでございます。」
「開けていい?」
「ええ。」
「どうぞ。」
「やった!」
ココアは嬉しそうに表紙を開いた。
◇
最初は歴史。
昨日より詳しい内容だった。
ココアは一つずつ読み進める。
時折止まり、
紙へ何かを書き、
また読み始める。
「先生。」
「はい。」
「この税って、何に使ったんですか?」
「主に軍の維持や街道の整備でございます。」
「全部?」
「いいえ。他にもございます。」
「じゃあ、集めたお金を何に使うかは誰が決めるの?」
「基本的には国王陛下と、その下に仕える方々でございます。」
「ふーん……。」
ココアは紙へ書き込む。
『税――集める』
『使い道――王様たち』
少し考え、
その下へもう一行。
『足りなくなったら?』
セバスは何も言わなかった。
ただ、
その文字を静かに見ていた。
◇
次は地理。
地図を広げた瞬間、
ココアの身体が前へ出た。
「これが王都?」
「はい。」
「こっちが海?」
「左様でございます。」
「この川、王都まで続いてる!」
「よくお気付きになりましたね。」
「船で荷物を運べる?」
「ええ。多くの商人が利用しております。」
「じゃあ、川がある町は物を運びやすいんだ。」
「概ね、その理解でよろしいでしょう。」
ココアの指が地図の上を動く。
「じゃあ、この町は?」
「そちらは鉱山の町でございます。」
「何が採れるの?」
「主に鉄鉱石ですね。」
「だから町があるの?」
「その通りでございます。」
「あ……。」
ココアは急いで羽根ペンを取った。
『川――物を運ぶ』
『鉱山――人が集まる』
少し考える。
『町ができる場所には理由がある?』
セバスの視線が止まった。
地名を覚えているのではない。
川。
町。
鉱山。
人。
別々に教えたものを、
自分で繋げようとしている。
「先生?」
「はい。」
「どうしたの?」
「いえ。」
セバスは小さく微笑んだ。
「続けましょう。」
「はい!」
◇
そして、
算術。
「では、こちらを。」
セバスが紙へ問題を書く。
足し算。
引き算。
掛け算。
ココアの羽根ペンは止まらない。
「できた!」
「正解でございます。」
「次!」
数字を大きくする。
それでも正解。
セバスの眉が僅かに上がった。
(やはり、計算だけでは測れませんか。)
そこで、
問題の種類を変えた。
「では、こちらはいかがでしょう。」
紙へ新しい問題を書く。
『小麦一リブラを銅貨五枚で仕入れます。
一袋には四十リブラ入り、その袋を三袋仕入れました。
一袋を銀貨三枚で売った場合、利益はいくらでしょう。』
ココアが問題を読む。
「……。」
羽根ペンが止まった。
もう一度読む。
「……うーん。」
セバスは静かに待った。
しばらくして、
ココアが顔を上げる。
「先生。」
「はい。」
「リブラって何?」
「重さを量るための単位でございます。」
「じゃあ、四十リブラって、この袋一つの重さ?」
「その通りでございます。」
「あ……。」
ココアは紙へ書き込む。
『一袋=四十リブラ』
再び問題を見る。
だが、
羽根ペンはまだ動かない。
「先生。」
「はい。」
「銀貨一枚って、銅貨何枚?」
「百枚でございます。」
「そっか。」
その下へ書く。
『銀貨一枚=銅貨百枚』
ココアは問題を見つめた。
やがて。
「分かった!」
羽根ペンが動き始める。
一袋。
四十リブラ。
一リブラにつき銅貨五枚。
仕入れは一袋、銅貨二百枚。
三袋で六百枚。
売値は一袋、銀貨三枚。
銀貨一枚は銅貨百枚だから、
一袋につき銅貨三百枚。
三袋で九百枚。
「九百から六百だから……。」
最後の数字を書き込む。
「銅貨三百枚!」
「正解でございます。」
「やった!」
ココアは笑った。
だが、
すぐに問題へ視線を戻した。
「……あ。」
「どうされました?」
「さっき、計算できなかったの。」
「はい。」
「でも、計算のやり方が分からなかったんじゃない。」
ココアは、
自分が書いた二つの言葉を指差す。
『一袋=四十リブラ』
『銀貨一枚=銅貨百枚』
「これを知らなかったから、できなかったんだ。」
「左様でございます。」
ココアは黙った。
そして、
新しい紙を一枚取り出した。
中央へ大きく書く。
『分からない』
その下に、
『何が分からない?』
さらに、
『何を知れば分かる?』
最後に、
『一つずつ調べる』
書き終えた紙を、
じっと見つめる。
「……そっか。」
セバスは黙って待った。
ココアが顔を上げる。
「分からないって、一個じゃないんだ。」
「と、申しますと?」
「計算が分からないのと。」
「言葉が分からないのと。」
「知らないことがあるのは、違う。」
セバスは僅かに目を見開いた。
ココアは紙を見ながら、
楽しそうに続ける。
「何が分からないのか分かったら。」
「調べられる。」
「左様でございます。」
セバスは穏やかに頷いた。
「それこそが、学ぶということなのかもしれませんね。」
ココアは、
もう一度問題を見た。
そして。
「先生。」
「はい。」
「リブラって、どうしてリブラっていうの?」
「……そこからでございますか。」
「うん!」
セバスは思わず小さく笑った。
◇
数日後。
「先生!」
部屋へ入ったセバスへ、
ココアが一枚の紙を差し出した。
「見て!」
「これは……。」
以前、
セバスが出したものとは違う問題だった。
ココアが自分で作ったらしい。
中央には計算。
その周囲には、
びっしりと文字が並んでいる。
『分かっているもの』
『分からないもの』
『必要なもの』
『調べるもの』
いくつもの矢印が、
それぞれを繋いでいた。
「ご自身で?」
「うん!」
「問題も?」
「うん!」
セバスは一つずつ目を通す。
計算は正しい。
必要な情報も整理されている。
「お見事でございます。」
「ほんと!?」
「ええ。」
「やった!」
ココアは両手を上げる。
だが、
喜んでいたのはほんの僅かな時間だった。
「あ、先生!」
「はい?」
「こっちも見て!」
もう一枚の紙を取り出す。
「これは違うやり方で計算したの。」
「ほう。」
「答えは同じ。」
「でも、こっちの方が途中が少ないの。」
正解したことより、
その先を話している時の方が楽しそうだった。
「どっちがいいと思う?」
「ココア様は、どちらだと思われますか?」
「うーん……。」
ココアは椅子へ座り、
二枚の紙を並べた。
しばらく見比べる。
やがて、
新しい紙を取り出した。
「もう一個、試してみる。」
「ええ。」
羽根ペンが走り始める。
数字を書く。
消す。
もう一度考える。
また書く。
やがて。
その手が止まった。
「……あれ?」
「どうされました?」
「ここまでは分かる。」
ココアは紙の途中を指差した。
「でも、ここから分かんない。」
以前なら、
そこで止まっていた。
だが今は違う。
困った顔はしていない。
むしろ、
楽しそうだった。
ココアは紙を見つめる。
そして、
ゆっくり顔を上げた。
「先生。」
「はい。」
「今度は、何を知らないんだろう?」
その一言に、
セバスは静かに目を細めた。
分からないことを、
恐れない。
恥じない。
答えが出ないことすら、
次の問いへ変えてしまう。
セバスは王立学院の教材を開いた。
そして、
ココアの隣へ椅子を寄せる。
「では。」
「一緒に探してみましょう。」
「はい!」
ココアは嬉しそうに、
新しい紙を広げた。
分からないことが増えるたび、
知りたいことも増えていく。
だからこそ。
学ぶことは、
こんなにも楽しかった。
◇
授業を終え、
セバスが教材を片付けていると、
ココアが尋ねた。
「先生。」
「はい。」
「明日は何を教えてくれるの?」
セバスは少し考える。
歴史。
地理。
算術。
まだ教えるべきことはいくらでもある。
だが、
この世界に生きる以上、
いずれ学ばなければならないものがある。
人々の暮らしを支え、
国を動かし、
時には一人の人間の価値さえ左右する力。
セバスは穏やかに微笑んだ。
「では、明日は――」
「魔法について、お話しいたしましょう。」
一瞬。
ココアが目を丸くする。
そして、
その瞳がぱっと輝いた。
「魔法!」




