第2話 知識の扉 前編
朝日が伯爵邸を優しく照らしていた。
執務室では、一人の男が窓の外を見つめている。
伯爵である。
庭園では、小さな少女が紙を広げ、何かを書き続けていた。
葉を拾い。
石を並べ。
考えては紙へ書き留める。
その姿を見つめ、
伯爵は自然と頬を緩めた。
毎日のように本を読み、
庭へ出れば何かを観察し、
気付いたことがあれば夢中で紙へ書き込む。
娘らしい遊びとは少し違う。
だが、
何かを知ろうと夢中になる姿は、
父として誇らしかった。
しかし。
その笑みは静かに消える。
「……まだ、魔力は感じられぬ。」
三歳。
魔力の兆しが現れ始める子もいる年齢だった。
それでも伯爵は焦ってはいない。
魔力の目覚めには個人差がある。
六歳の覚醒の儀まで現れない子も珍しくはない。
何より、この世界で魔力を持たずに生まれる者など存在しない。
弱い者はいても、
無い者はいない。
伯爵は静かに息を吐いた。
「セバスを。」
「かしこまりました。」
使用人が一礼し、部屋を後にする。
しばらくして、扉が叩かれた。
「失礼いたします。」
入室したのは、一人の老紳士。
伯爵家の財務責任者、セバスだった。
「お呼びでしょうか。」
「座ってくれ。」
セバスは一礼し、伯爵の向かいへ腰を下ろす。
伯爵は再び庭園へ目を向けた。
「ココアのことだ。」
「お嬢様でございますか。」
「ああ。」
「三歳になった。」
「魔力はまだ感じられない。」
「だが、自ら本を開き、毎日のように何かを調べている。」
「読み書きも驚くほど早く覚えた。」
「知識を求める姿勢は、幼い頃の私以上かもしれん。」
伯爵は穏やかに微笑む。
「六歳の覚醒の儀までに、出来る限り知識を与えてやりたい。」
伯爵はセバスを見据えた。
「教育係を、お前に任せたい。」
セバスは静かに目を伏せる。
「……私で、よろしいのでしょうか。」
「ああ。」
「財務だけでなく、学問にも精通しているお前だからこそ頼みたい。」
「それに。」
伯爵は窓の外のココアを見つめる。
「あの子には、答えを教える者ではなく、考え方を導く者が必要だ。」
「お前なら、それができる。」
セバスは静かに立ち上がり、深く一礼した。
「承知いたしました。」
「誠心誠意、お仕えいたします。」
◇
その日の午後。
セバスはココアの部屋を訪れた。
窓際には小さな机。
本が数冊。
紙。
羽根ペン。
そして、
観察記録が几帳面に並べられていた。
『葉 昨日と変化なし』
『石 変化なし』
『木 成長確認』
セバスは一瞬だけ記録へ目を留める。
幼い文字。
だが、内容は観察そのものだった。
「こんにちは、セバス先生!」
ココアが嬉しそうに立ち上がる。
セバスは穏やかに微笑み、一礼した。
「こんにちは、ココア様。」
「本日より、お嬢様の教育を担当させていただきます。」
ココアは満面の笑みを浮かべた。
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
セバスは椅子へ腰を下ろした。
「ですが、本日はお勉強をする日ではありません。」
「え?」
ココアは首を傾げる。
「今日は、ココア様がどのようなお方なのかを知る日にしたいと思っております。」
「私を?」
「はい。」
「どこまでご存じなのか。」
「何に興味を持たれるのか。」
「どのように物事を考えられるのか。」
「それを知らずして、お教えすることはできません。」
ココアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、いっぱいお話する!」
「ありがとうございます。」
セバスは一冊の本を机へ置いた。
「まずは読んでいただけますか。」
「うん!」
ココアは淀みなく読み進める。
詰まることもない。
読み違えることもない。
続いて書き取り。
丁寧な文字が紙へ並んでいく。
簡単な算術も難なく答えた。
セバスは静かに頷く。
(読み書きに問題はない。)
(算術も十分理解しておられる。)
(やはり……。)
知りたいのは、
知識の量ではない。
考え方だった。
「では、少し歴史のお話をいたしましょう。」
ココアは嬉しそうに頷く。
「はい!」
「この国は、およそ八百年前。」
「初代国王アルベルト様によって建国されました。」
ココアは真剣な表情で聞いている。
「各地に散らばっていた人々をまとめ、一つの国を築かれた偉大なお方です。」
「その功績は、今もなお語り継がれております。」
話が一区切りすると、
ココアは小さく手を挙げた。
「先生。」
「はい。」
「王様って、皆で選んだんですか?」
セバスは少し意外そうに目を瞬かせる。
「いいえ。」
「初代国王は戦に勝ち、多くの者がお力を認め、王となられました。」
ココアは少し考え込む。
「じゃあ……。」
「強かったから王様になったんですか?」
「そうとも言えます。」
「もちろん、それだけではございません。」
ココアは机へ視線を落とした。
しばらく考え込み、
再び顔を上げる。
「先生。」
「はい。」
「どうして王様が必要なんですか?」
「国を治めるためです。」
「治めるって、何をすることなんですか?」
「人々を導き、国を守り、争いを治めることです。」
ココアは黙った。
前世の知識には、王が血筋で受け継がれる国もあれば、選挙で代表を選ぶ国もあった。
だからこそ、この世界の"当たり前"が気になった。
やがて、小さく口を開く。
「じゃあ……。」
「王様って、一番偉い人じゃないんですね。」
セバスは目を瞬かせた。
「……どういうことでしょう。」
「だって。」
「みんなを守るんだよね?」
「だったら。」
「一番偉い人じゃなくて。」
「一番責任がある人なんですね。」
その一言に、
セバスは息を呑んだ。
三歳児の答えではない。
知識を覚えているのではない。
この少女は、
教えられたことを疑い、
自分で考え、
自分の答えへ辿り着いている。
「先生。」
「はい。」
「明日は地理も教えて!」
「海の向こうも知りたい!」
「まだ知らないことが、いっぱいあるから!」
セバスはしばらく返事ができなかった。
「……もちろんです。」
◇
授業を終え、
セバスは静かな廊下を歩いていた。
その足は自然と書庫へ向かう。
幼児用教材へ手を伸ばく。
だが、
その手は途中で止まった。
静かに本を戻す。
そして、
隣の棚から一冊の分厚い本を取り出した。
表紙には、
――『王立学院 初等課程』
セバスは本を見つめ、
穏やかに微笑んだ。
「三歳のお嬢様へお教えする本ではありませんね。」
一度、本を閉じる。
そして、
迷うことなく抱え直した。
「少々予定を変更いたしましょう。」




