第1話 ココア
三年後――。
「……すいへー、りーべー……。」
庭園の片隅。
一人の少女がしゃがみ込んでいた。
まだ三歳。
栗色の髪を肩まで伸ばした幼い少女は、数枚の紙を地面へ広げ、何かを書き留めている。
周囲には、
枯れ葉。
小石。
花びら。
木の枝。
子どもの遊び道具にしか見えないそれらを、
少女だけは真剣な表情で見つめていた。
「……やっぱり違う。」
少女――ココアの目には、
世界が違って見えていた。
空気の中。
土の中。
花の中。
石の中。
生まれた時から見え続けている、
無数の元素。
そして、
それらを繋ぐ結合。
三歳になった今では、
見ようと意識すれば、
いつでも見ることができた。
ココアは紙へ書き込む。
『葉 昨日と変化なし』
『石 変化なし』
『木 成長確認』
幼い文字。
だが、
書かれている内容は三歳児のものではない。
観察。
仮説。
実験。
記録。
それが、
ココアの毎日だった。
毎日同じものを観察する。
昨日との違いを探す。
理由を考える。
分からなければ、
また明日観察する。
その繰り返しが、
何よりも楽しかった。
「ココア様。」
優しい声が聞こえる。
ヒルダだった。
「また研究をなさっていたのですね。」
ココアは顔だけ振り向く。
「うん。」
「今日は何を調べていらっしゃるのですか?」
ココアは一枚の枯れ葉を指差した。
「これ。」
ヒルダは葉を拾い上げる。
「葉っぱですか?」
「昨日より少し茶色い。」
ヒルダは微笑む。
「秋ですからね。」
ココアは首を横へ振った。
「どうして?」
「どうして茶色くなるんだろう。」
ヒルダは少し困ったように笑う。
「ココア様は、本当に不思議なことへ興味をお持ちですね。」
「違うよ。」
ココアは葉を見つめたまま答える。
「知らないだけ。」
その一言に、
ヒルダは優しく目を細めた。
ココアは再び葉へ視線を落とす。
葉の中では、
無数の元素が結び付き、
昨日とは違う形へ、
ほんの少しだけ変化していた。
毎日見ていたから分かる。
結合は、
少しずつ変化している。
変化するということは、
結合は動くものなのかもしれない。
その時だった。
一つの仮説が、
頭の中へ浮かんだ。
――見えるなら。
――触れられるのかな。
ココアの瞳が、
好奇心で輝いた。
ココアは葉を見つめたまま考える。
――見えるなら。
――触れられるのかな。
その疑問は、
頭へ浮かんだ瞬間には、もう実験へ変わっていた。
いきなり指で触れるのは危ない。
何が起きるのか分からない。
だからこそ、
まずは安全な方法から試す。
近くへ落ちていた細い木の枝を拾う。
そっと、
結合へ近付ける。
何も起きない。
もう少し近付ける。
やはり何も起きない。
「……違う。」
ココアは枝を置いた。
今度は羽根ペンを取り出す。
紙へ文字を書くために持ち歩いていたものだ。
羽根の先で、
そっと結合へ触れてみる。
変化はない。
「これも違う。」
ココアは少し考え込む。
木も。
羽根も。
反応しなかった。
道具では駄目なのだろうか。
それとも、
別の条件があるのだろうか。
視線を葉へ戻す。
結合は、
まるで静かにそこへ存在しているだけだった。
試せる方法は、
あと一つ。
ココアはゆっくりと右手を伸ばした。
小さな人差し指。
震えてはいない。
怖くないわけではない。
でも、
知らないままの方が、
もっと嫌だった。
指先が、
一本の結合へ、
そっと触れる。
――パチッ。
ココアは目を見開いた。
一本の結合が、
青白く淡い光を放つ。
鼓動のように一度だけ脈打ち、
静かに消えた。
「……!」
葉は、
音もなく崩れ落ちる。
風は吹いていない。
誰も触れていない。
それでも、
葉は細かな欠片となって地面へ散っていった。
「え……?」
ヒルダが思わず声を漏らす。
突然崩れた葉を見つめ、
何が起きたのか理解できずにいる。
ココアも葉を見つめたまま動けなかった。
今、
確かに見た。
指先が触れた瞬間、
結合が切れた。
そして、
葉は崩れた。
偶然ではない。
鼓動が速くなる。
怖い。
でも。
それ以上に、
知りたい。
なぜ切れたのか。
どこまでできるのか。
この現象には、
どんな法則があるのか。
ココアは散った葉を一枚拾い上げる。
紙を広げる。
震える手で、
夢中になって書き始めた。
『実験一回目』
『対象 落ち葉』
『木の枝 変化なし』
『羽根ペン 変化なし』
『指 成功』
『結合一本切断』
『葉 崩壊』
書き終える。
ココアは記録を見返し、
静かに頷いた。
再現できなければ、
実験は成功とは言えない。
小さく息を吸う。
そして、
迷いなく呟いた。
「もう一回。」
ココアは静かに呟いた。
散った葉を一枚ずつ丁寧に拾い集める。
崩れ方にも規則があるかもしれない。
この葉も、
大切な実験結果だった。
紙へ包み、
夢中で記録を書き始める。
『実験一回目』
『対象 落ち葉』
『木の枝 変化なし』
『羽根ペン 変化なし』
『指 成功』
『結合一本切断』
『葉 崩壊』
文字は幼い。
それでも、
一文字も漏らすまいと必死だった。
一方、
ヒルダは、
葉を大切そうに拾い集めるココアの姿を見つめたまま動けずにいた。
葉が枯れることはある。
虫に食われることもある。
踏めば砕けることもある。
だが、
今、目の前で起きた現象は違う。
誰も触れていない。
風も吹いていない。
それなのに、
葉は音もなく崩れ去った。
一瞬、
胸の奥を冷たいものがよぎる。
──まさか。
そんなはずはない。
ヒルダは小さく首を振った。
視線の先には、
実験結果を夢中で記録し続ける小さな背中。
無邪気だった。
純粋だった。
誰かを傷付けようとしたわけではない。
ただ、
知りたかっただけ。
その姿を見つめ、
ヒルダは静かに息を吐いた。
今見たことは、
誰にも話さない。
そう心に決める。
そして、
もう一つの決意を胸へ刻んだ。
何があろうと。
この子だけは、
私が守る。
「ココア様。」
「はい?」
「そろそろお部屋へ戻りましょう。」
「うん!」
ココアは大切そうに記録を抱え、
笑顔で立ち上がる。
その小さな手を、
ヒルダはそっと握った。
小さな温もりが、
手のひらへ伝わる。
ヒルダは静かに握り返す。
この日、
胸へ秘めた二つの決意を、
ココアが知るのは、
まだずっと先のことである。




