前日譚 2
暗闇。
聞こえるのは、測定装置の駆動音だけだった。
そして。
結晶だけが、生き物の鼓動のように静かに脈打っている。
「非常電源へ切り替わります!」
研究員が叫ぶ。
非常灯が赤く点灯する。
だが。
誰も、その赤い光を見ていなかった。
彼女の視線は、結晶から一瞬たりとも離れない。
その時だった。
「……。」
何かが見えた。
結晶から、一本の細い光が伸びている。
髪の毛ほどの細さ。
だが、確かに存在していた。
「違う……。」
彼女は息を呑む。
一本ではない。
二本。
三本。
何百。
何千。
無数の光が、結晶から放射状に広がっていく。
容器へ。
測定装置へ。
床へ。
壁へ。
空気へ。
視界に映るすべてが、一本一本の光で結ばれていた。
「先生?」
研究員には何も見えていない。
見えているのは、彼女だけだった。
世界は、
孤立した物質の集まりではない。
無数の元素が結び付き、
一つの世界を形作っている。
「結合……。」
結合は知っている。
研究もした。
論文も書いた。
だが、
これは違う。
自分が知っていた結合は、
世界のほんの一部でしかなかった。
思わず涙が滲む。
「美しい……。」
自然と言葉が漏れた。
結晶の輝きは、さらに強くなる。
やがて。
無数の光が、
規則正しく並び始めた。
「これは……。」
見覚えがあった。
幼い頃から、
何万回も口にしてきた並び。
彼女の唇が、
無意識に動く。
「……すいへー……。」
光が強くなる。
「……りーべー……。」
さらに強く。
「……ぼくのふね……。」
世界が白く染まり始める。
「先生!」
研究員の叫びが響く。
だが、もう届かない。
彼女は、ゆっくりと結晶へ手を伸ばした。
危険だからではない。
触れたいからでもない。
知りたい。
ただ、それだけだった。
指先が、光へ触れる。
その瞬間。
音が消えた。
光が消えた。
時間さえも、
世界から消え去った。
『見つけた。』
どこからともなく、
一つの声だけが響いた。
指先が、光へ触れる。
その瞬間。
音が消えた。
光が消えた。
時間さえも、
世界から消え去った。
◇
苦しい。
息ができない。
身体が重い。
手足が思うように動かない。
目を開ける。
視界はぼやけ、
何もはっきり見えない。
「生まれました!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間。
「おぎゃあああ!」
部屋中へ泣き声が響き渡る。
――誰?
そう思った。
だが、
すぐに気付く。
自分だ。
止めようとしても止まらない。
口も。
手も。
足も。
まるで自分の身体ではないように動かない。
視界の端に、
小さな手が映る。
細い指。
握ることさえ覚束ない。
そこで初めて理解した。
――赤ん坊?
柔らかな布に包まれる。
知らない匂い。
知らない温もり。
知らない声。
何もかもが初めてだった。
ぼやけた視界の中へ、
一つ、
また一つと、
淡い光が浮かび上がる。
空気の中。
布の中。
自分を抱き上げる誰かの腕の中。
無数の光が、
静かに揺れている。
見覚えがある。
どこで見たのか、
思い出せない。
それでも、
懐かしかった。
「まあ……。」
若い女性が優しく微笑む。
「泣きやみました。」
二十歳を少し過ぎた頃だろうか。
銀灰色の髪を後ろで束ね、
凛とした瞳をしている。
だが、
赤ん坊へ向ける眼差しだけは、
春の日差しのように柔らかかった。
「初めまして、お嬢様。」
女性は静かに頭を下げる。
「ヒルダと申します。」
「今日から、私がお側におります。」
言葉の意味は分からない。
それでも、
安心できる声だった。
小さな手が、
無意識に伸びる。
女性の指を、
そっと握る。
「まあ。」
ヒルダは目を細めた。
「力強いお嬢様ですね。」
その温もりに触れた瞬間。
頭の奥で、
白い研究室が浮かぶ。
眩しい光。
未知の結晶。
そして、
世界を埋め尽くしていた無数の光。
記憶が、
ゆっくりと繋がり始める。
――思い出した。
ここは、
あの研究室ではない。
それでも。
この世界にも、
あの光は存在していた。
胸が高鳴る。
この世界にも、
まだ誰も知らない法則があるのだろうか。
まだ誰も見つけていない真実があるのだろうか。
その瞬間。
転生したことへの戸惑いよりも先に、
一つの想いが胸を満たしていた。
――早く、研究したい。




