前日譚 1
「……あり得ない。」
静まり返った研究室に、その一言だけが響いた。
大型モニターへ映し出された結晶構造が、ゆっくりと書き換わっていく。
誰も触れていない。
温度も正常。
圧力も正常。
放射線量にも異常はない。
それなのに、原子同士を繋ぐ結合だけが、まるで生き物のように次々と組み替わっていた。
◇
数時間前――。
世界は、元素でできている。
誰もがそう教わる。
でも、彼女は違うと思っていた。
世界を形作っているのは元素ではない。
元素同士を繋ぐ、
結合だ。
水素と酸素が結びつけば、水になる。
同じ炭素でも、結びつき方が違うだけで、黒鉛にもダイヤモンドにもなる。
彼女は、その事実を初めて知った日から、結合という存在へ心を奪われていた。
「……すいへー、りーべー、ぼくのふね……」
白衣姿の女性が、小さく呟く。
時計は午前二時を回っていた。
机の上には冷めきったコーヒー。
その隣には、三時間前に買ったまま封も開けていない栄養補助食品。
顕微鏡を覗き始めてから、三時間が経っていることにも気付いていない。
「先生。」
返事はない。
「先生。」
やはり返事はない。
「駄目だ。」
若い研究員は肩を落とした。
「始まってる。」
肩を軽く叩く。
ようやく彼女は顔を上げた。
「あ、お疲れさまです。」
「お疲れさまじゃありません。」
「今、何時だと思ってます?」
「二時九分です。」
「知ってたんですか。」
「はい。」
「まだ帰れません。」
「理由、聞いてもいいですか?」
彼女は静かに笑った。
「まだ、世界を理解できていないからです。」
研究員は苦笑した。
「先生らしい答えですね。」
「結合があるから、世界は形になります。」
「だから私は、元素より結合の方が好きなんです。」
その横顔は、
研究者というより、
世界へ恋をしている少女のようだった。
「だから先生は『結合女』なんですよ。」
女性は首を傾げる。
「そう呼ばれているんですか?」
「研究室では有名です。」
「嫌じゃないんですか?」
少しだけ考え、
彼女は笑った。
「正しいなら、構いません。」
研究員も笑う。
「やっぱり先生は変です。」
「そうでしょうか。」
「未知なんですよ?」
彼女は不思議そうに言う。
「分からないことが目の前にあるんです。」
「知りたくなりませんか?」
その笑顔を見て、研究員は苦笑した。
先生は、一度「知りたい」と思ったら止まらない。
そのことを、この時の自分は誰よりも知っていた。
だからこそ、止めるべきだった。
その時だった。
研究室の自動ドアが静かに開く。
「先生、お待たせしました。」
職員が、小さな耐衝撃ケースを運び込んできた。
ケースの側面には赤い管理ラベル。
そこには一行だけ記されている。
『隕石由来試料』
彼女は慎重にケースを開く。
透明な容器へ収められた、小さな結晶。
「温度、正常。」
「放射線量、正常。」
「測定開始します。」
結晶が固定される。
モニターが起動する。
数秒。
研究室は静寂に包まれた。
その直後――。
大型モニターへ映し出された結晶構造が、ゆっくりと書き換わっていく。
誰も触れていない。
温度も正常。
圧力も正常。
放射線量にも異常はない。
それなのに、原子同士を繋ぐ結合だけが、まるで生き物のように次々と組み替わっていた。
研究員の喉が鳴る。
「先生……。」
白衣の女性は画面から目を離さない。
静かに息を呑み、
そして、口元をわずかに緩めた。
前日譚② 未知の結晶
「……あり得ない。」
静まり返った研究室に、その一言だけが響いた。
大型モニターへ映し出された結晶構造が、ゆっくりと書き換わっていく。
誰も触れていない。
温度も正常。
圧力も正常。
放射線量にも異常はない。
それなのに、原子同士を繋ぐ結合だけが、まるで生き物のように次々と組み替わっていた。
「先生……。」
若い研究員の声が震える。
「見間違い……ですよね。」
彼女は答えない。
画面を食い入るように見つめていた。
「先生、どうします!?」
「……見ています。」
短く返す。
その声は、驚きより興奮が勝っていた。
「保存してください。」
「え?」
「全データです。」
「映像も。」
「測定値も。」
「全部。」
研究員は慌ててキーボードを叩く。
「保存開始!」
別のモニターへ数値が流れる。
温度。
圧力。
磁場。
振動。
放射線量。
すべて正常。
異常なのは、
結晶構造だけだった。
「原因は……。」
研究員が呟く。
「熱?」
彼女は首を振る。
「違います。」
「圧力。」
「違います。」
「装置の故障。」
「三系統とも同じ結果です。」
「じゃあ……。」
研究員は言葉を失う。
彼女の口元が、わずかに緩む。
「面白い。」
「あり得ません……。」
「本来。」
彼女は画面を指差す。
「結合は理由もなく変化しません。」
「変化するなら、必ずエネルギーが必要です。」
「ですが今回は。」
「理由がない。」
一拍置く。
「正確には。」
彼女は静かに微笑んだ。
「私たちが、まだ理由を知らないだけです。」
その言葉と同時だった。
ピッ――。
測定装置が短く音を鳴らした。
二人が同時に振り向く。
透明な容器へ収められた結晶が、
淡く光り始めていた。
「先生……。」
「触らないでください。」
彼女は静かに一歩前へ出る。
光は徐々に強くなる。
研究室の照明よりも白く。
静かに。
脈打つように。
モニターでは、
結合が今まで以上の速度で組み替わり始めていた。
切れる。
繋がる。
また切れる。
別の原子と結び直される。
まるで。
何かを探しているように。
あるいは、
何かを組み立てているように。
彼女は息を呑む。
恐怖ではない。
未知を前にした、
研究者だけが知る高揚感だった。
「これは……。」
その瞬間だった。
研究室の照明が、一斉に消えた。
「停電!?」
非常灯が赤く灯る。
同時に、廊下の奥から慌ただしい足音が響いた。
遠くで警報が鳴り始める。
「何が起きてるんだ……?」
研究員が呟く。
彼女は窓の外へ目を向けた。
研究棟の明かりが、一つ、また一つと消えていく。
それは、この部屋だけの異常ではなかった。
施設全体が、
静かに未知へ飲み込まれていく。
警報が鳴り響く中でも、
彼女だけは動かなかった。
光を放つ結晶を見つめたまま、
未知から、一瞬たりとも目を離せなかった。




