第46話 水を逃がす
「ココア。頼みたいことがある」
朝食を終えたところで、叔父様が言った。
「なに?」
「水を調べてほしい」
私は手を止めた。
「水?」
「ああ。ヨハンの畑だけの話ではない」
叔父様はテーブルの上に、一枚の地図を広げた。
領地の地図。
川。
農地。
村。
その中のいくつかに、印がつけられている。
「ヨハンの畑ほど酷くはない。だが、同じように土に塩が増えている畑がある」
「……増えた?」
「ああ」
私は椅子から降り、地図の横へ移動した。
「どこ?」
「ここ。それから、ここだ」
叔父様の指が動く。
一つ。
二つ。
三つ。
ばらばらに見える。
「先生。前の地図」
「こちらに」
セバスが持ってきたのは、以前バルドから聞き取った昔の川筋を書き込んだ地図だった。
三年前の大雨。
川の形が変わった。
その後、地下から上がってくる水に塩が増えた。
二枚を並べる。
「……やっぱり」
昔、水が流れていた場所。
今は畑になっている場所。
そして。
塩が増え始めた場所。
重なる。
「叔父様」
「なんだ?」
「畑を一枚ずつ直しても、たぶん終わらない」
「ああ」
叔父様はすぐに頷いた。
「だから頼んでいる」
私は顔を上げた。
「この土地そのものを直したい」
◇
午前九時十三分。
村の北側。
「昔は、こっちだ」
バルドが杖で地面を示した。
「川?」
「ああ」
目の前に川はない。
草と低木。
ところどころに丸い石が転がり、少し離れた場所には畑も見える。
言われなければ、ここに川があったとは思わない。
「大雨の前までは、水が多い時期になるとこっちにも流れてた」
「三年前?」
「そうだ」
バルドが歩き出す。
私とヒルダが続き、その後ろをセバスと叔父様が歩く。
「大雨で向こうが削れた。それから水は、あっちを通るようになった」
今の川を指す。
「こっちは?」
「水が引いた」
「全部?」
「いや。雨が続けば溜まる。春もな」
私はしゃがんだ。
土は湿っている。
昨日は雨が降っていない。
「下に水がある?」
「あるだろうな」
昔の川筋を、さらに上流へ向かう。
低い場所。
昔の川岸。
今の川。
途中で水と土を採り、位置を地図へ書き込む。
「すいへーりーべー……」
視界を切り替える。
青い元素。
白から淡い青の結合。
水の中。
土の中。
場所によって、含まれているものが違う。
「ここ、濃い」
地図に印をつける。
少し上流。
「ここも」
さらに先。
「……こっちは薄い」
セバスが地図を覗き込んだ。
「規則がございますか?」
「まだ分からない」
いくつか調べる。
濃い。
薄い。
また濃くなる。
それを昔の川筋と土地の高さに重ねる。
「……あ」
鉛筆が止まった。
点が。
線になった。
「流れてる」
叔父様が近づいた。
「地下でか?」
「たぶん」
断定はできない。
でも。
ばらばらじゃない。
「この辺りから来て、この低いところを通って……」
指を滑らせる。
その先には。
塩が増え始めた農地。
「こっちに入ってる」
バルドが地図を見る。
「昔の川だな」
「うん」
川がなくなっても。
水まで全部なくなったわけじゃない。
地上の流れが変わったことで、地下の水の動きまで変わった可能性がある。
今のところ。
調べた結果は、その考えと合っている。
「なら、どうする?」
叔父様が聞いた。
ヨハンの畑では溝を掘った。
真水を入れ、土に溜まった塩を溶かし、水と一緒に外へ出した。
でも。
全部の畑で同じことを繰り返すのは違う。
「来てからじゃ遅い」
「何がだ?」
「塩を含んだ水」
私は地図の一点を指した。
「畑に入ってから抜くんじゃなくて」
指を横へ滑らせる。
「入る前に逃がす」
「水路を造るのか?」
「たぶん。でも、まだ掘っちゃ駄目」
叔父様が少し笑った。
「すぐ掘ると言うかと思った」
「言わないよ」
「ほう」
「水の量が分からない。高さもちゃんと測ってない。雨が降った時にどこまで増えるかも分からない」
水は低い方へ流れる。
でも。
どこへ逃がすのか。
どれだけ流れるのか。
途中の土地はどうなるのか。
間違えれば。
誰かの畑を助けるために、別の誰かの畑を水浸しにする。
研究帳へ書く。
『高低差』
『水量』
『雨季』
『出口』
『農地への影響』
『旧河道』
そこまで書いて、鉛筆を止めた。
ここから先は。
私だけでは決められない。
「叔父様」
「なんだ?」
「工事に一番詳しい人、呼んで」
「工事?」
「水路とか、道とか造ってる人」
「何を聞く?」
「造り方」
叔父様が私を見る。
「私は、水をどこで捕まえたいかは考えられる。でも」
地面を見る。
「どう掘れば崩れないかは知らない」
土の種類。
水路の幅。
深さ。
壁をどうするか。
必要な人の数。
この土地にある道具。
私は研究者だ。
土木の専門家じゃない。
「実際に造ってる人と一緒に考えたい」
「ああ。分かった」
「今日来られる?」
「今日か?」
「早い方がいい」
「相変わらずだな」
叔父様が苦笑する。
「使いを出そう」
セバスが眼鏡を押し上げた。
「ご自分だけで決めようとなさらないのは結構なことでございます」
「先生」
「はい」
「私、いつもみんなに聞いてるよ」
沈黙。
ヒルダが目を逸らした。
「ヒルダ?」
「申し訳ございません」
「なんで謝るの?」
「何となくでございます」
叔父様が笑った。
◇
午後一時四十六分。
昼食を終え、私たちはさらに上流へ来ていた。
「この先だ」
バルドが言う。
工事に詳しい人が来るまでに。
もう少しだけ、昔の水の流れを追いたかった。
「こっちは?」
「昔は水が出てた」
「今は?」
「ほとんど出ねえ」
岩の間を覗く。
湿っている。
その先。
斜面の一部が崩れていた。
三年前の大雨の跡らしい。
土の下から、岩盤が露出している。
「……白い」
周囲とは違う。
灰色がかった白。
崩れた場所から、かなり広く顔を出している。
「ココア様。足元を」
「うん」
しゃがむ。
見る。
「すいへーりーべー……」
青い元素。
白から淡い青の結合。
その中に。
多く見えるものがある。
「カルシウム……」
炭素。
酸素。
組み合わせを考える。
でも。
見ただけでは決めない。
「先生」
「はい」
「これ、少し持って帰っていい?」
「今度は何でございますか?」
「調べたい」
「そのお顔でございますか」
「どんな顔?」
「大変楽しそうでございます」
「仕事だよ」
「左様でございますな」
小さく欠けた白い石を拾う。
その時。
バルドが言った。
「そんな石なら、まだ上にいくらでもあるぞ」
私は顔を上げた。
「いくらでも?」
「ああ。畑にはならん。掘れば出る。邪魔な石だ」
手の中の白い石を見る。
「……邪魔」
「そうだ」
私は袋に入れた。
「じゃあ、いっぱいあるんだ」
「そう言ってるだろ」
バルドが怪訝そうな顔をした。
私はもう一度、白い岩盤を見る。
塩の原因を追っていただけなのに。
違うものまで見つけた。
◇
午後三時二十一分。
屋敷。
持ち帰った白い石を少量削る。
見る。
やはりカルシウムが多い。
次に。
酸性の液体を一滴。
しゅわっ。
細かな泡が出た。
「……やっぱり」
「分かったのでございますか?」
「まだ」
セバスが目を瞬いた。
「まだ、でございますか?」
「カルシウムが多い。酸で泡が出た」
研究帳へ書く。
『Ca――多い』
『酸――発泡』
『炭酸塩?』
そして。
『石灰石?』
最後に大きく疑問符をつけた。
「石灰石?」
叔父様が覗き込む。
「たぶん」
「価値があるのか?」
「あると思う」
「何に使える?」
「本当にこれなら、いろいろ」
「いろいろとは?」
「まだ言わない」
「なぜだ?」
「確かめてないから」
叔父様がセバスを見る。
「いつからこんなに慎重になった?」
「わたくしどもの教育の成果かと」
「違うよ」
「では、ヒルダの?」
「違うってば」
その時。
「旦那。来たぞ」
知らない女の声がした。
◇
「領内の工事を取り仕切っているグレタだ」
叔父様が紹介した女性を見上げる。
大きい。
私が小さいからじゃない。
ヒルダより頭一つ近く高い。
日に焼けた顔。
太い腕。
後ろで束ねた茶色い髪。
革の上着。
靴には乾いた泥がこびりついている。
「グレタだ」
それだけ言って、叔父様を見る。
「水路を造ると聞いた」
「ああ。ただし、まだ決定ではない」
「場所は?」
「私が説明する」
グレタの視線が初めて私へ向いた。
「……お嬢様が?」
「うん」
地図を広げる。
「ここから、塩を多く含んだ水が来てると思う」
今日調べた場所を示す。
「この辺りで、畑に入る前に捕まえて」
指を動かす。
「どこか安全なところへ逃がしたい」
「どこへ?」
「まだ決めてない」
「水量は?」
「これから測る」
「高低差は?」
「それも」
グレタが黙った。
地図を見る。
川。
道。
農地。
低地。
私とは違う順番で、指が動いていく。
「なら、まだ水路の形は決められない」
「うん」
グレタが顔を上げた。
「分かってるのか?」
「分からないから呼んでもらった」
「……」
「私は、水の中に何があるかは調べられる。でも、水路の造り方は知らない」
地図をグレタの方へ押す。
「教えて」
グレタはしばらく私を見た。
それから。
地図を自分の方へ引き寄せる。
「まず、高さを測る」
「うん」
「次に水量。普段だけじゃない。雨が降った時もだ」
「うん」
「土も見る。掘っただけで保つ場所と、崩れる場所がある」
私は研究帳を開く。
「あと?」
「出口だ」
「うん」
「水は消えない」
鉛筆が止まった。
「……うん」
「畑から追い出して終わりじゃない。下流に流せば、その先で何が起きるかも見る」
私は大きく書いた。
『水は消えない』
「それ、大事」
「当たり前だ」
「当たり前でも書くの」
「そうか」
グレタの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「笑った?」
「笑ってない」
「笑ったよね?」
「気のせいだ」
セバスと同じことを言った。
「先生」
「はい」
「似てる」
「どこがでございますか」
グレタがセバスを見る。
「眼鏡の旦那。明日、測れる人間を何人か借りるぞ」
「手配いたしましょう」
「朝から現場を見る。お嬢様も来るのか?」
「行く」
「なら、泥だらけになるつもりで来い」
「分かった」
グレタの視線がヒルダへ移る。
「姉ちゃんもな」
「わたくしですか?」
「その靴じゃ泥に取られる。ブーツにしろ」
「問題ございません」
「足を取られたら護衛できねえぞ」
「…………」
ヒルダが自分の靴を見る。
「承知しました」
「裾も上げてこい」
「……承知しました」
返事が少しだけ硬い。
グレタは気にしていない。
「高さと水量が分かれば、逃がせる場所を探す。土も見て、それから水路だ」
「うん」
ようやく。
私の頭の中にしかなかったものへ。
実際に造る人の知識が入った。
これなら。
計画にできる。
「あ」
机の端に置いた白い石が目に入った。
グレタも視線を追う。
「なんだ、それ」
「今日、上流で見つけた」
石を渡す。
「カルシウムが多くて、酸をかけると泡が出た」
「……何を言ってるのか分からん」
「石灰石かもしれない」
「石灰石?」
グレタは手の中で石を転がした。
「これなら、あの辺りにいくらでもあるぞ」
「バルドも言ってた」
「掘ると邪魔なくらい出る場所もある」
邪魔なくらい。
私は白い石を見る。
「グレタさん」
「なんだ?」
「大きな窯、ある?」
「窯?」
「石を焼けるくらいの」
「あるにはあるが……何を焼くんだ?」
私は白い石を指差した。
「これ」
グレタが石を見る。
叔父様も。
セバスも。
ヒルダも。
同じ石を見る。
「……石を焼くのか?」
「うん」
「何のために?」
答えようとして。
やめた。
まだ。
これは石灰石だと確定したわけじゃない。
私が知っているものと、本当に同じように使えるのかも確かめていない。
だったら。
先に調べる。
「少しだけ、焼いてみたい」
「水路は?」
「そっちもやる」
「石も調べるのか?」
「うん」
叔父様が額を押さえた。
「仕事を一つ頼んだはずなんだがな」
「一つだよ?」
「どこがだ」
私は白い石と。
水路の地図を並べた。
水を逃がすために。
上流まで来た。
そこで。
白い石を見つけた。
まだ。
何になるのかは確かめていない。
でも。
もし。
私の知っている石灰石なら。
「叔父様」
「なんだ?」
「これ」
研究帳の上へ。
白い石を一つ置いた。
「邪魔じゃなくなるかも」




